第3章 高いところから見ていたキリン
風がやさしく草原をなでていく。
うさぎはひとり、広い野原を走っていた。けれど、その足取りはどこかぎこちなく、ただひたすらに前へと進んでいるだけだった。
「もっと速く……もっとちゃんと走れば……」
ぶつぶつと呟きながら走るうさぎの視界に、一本の大きな木が入った。枝の先で、誰かがのんびりと葉を食んでいる。首が長く、ゆったりとした動きのその動物は、キリンだった。
「……よぉ、そこのキリン!」
うさぎが声をかけると、キリンはゆっくりと首を下げ、にこやかに応じた。
「こんにちは、うさぎさん。ずいぶん急いでいるね」
「べつに、ただ走ってるだけだ。今度のレースでは、絶対に負けないようにってな」
キリンは目を細めた。「そう。レースね。前のやつの話かな?」
うさぎはぴくりと耳を動かす。
「なんだ、見てたのか」
「うん、高いところからだったけどね。全部見えてたよ。君が何度も後ろを振り返っていたことも、立ち止まって空を仰いでいたことも……そして、木の下で眠ってしまったことも」
うさぎはバツが悪そうに顔をしかめた。
「……わかってるよ。油断したんだ。退屈だったし、亀が遅すぎてさ」
キリンは首をかしげた。
「でも、それは本当に“退屈”だったからかな?」
「は?」
「君が見ていたのは、かめさんのスピードじゃなかった。君が比べていたのは、かめさんとの“差”だよ。自分がどれだけ速いか、どれだけ余裕か。君はずっと“かめ”を見て走っていた。自分を見ていなかった」
その言葉に、うさぎは息を呑んだ。
「……でも、それって悪いことか? レースってそういうもんじゃないのかよ。相手に勝つことが目的だろ?」
キリンはゆっくりと首を横に振る。
「それは、ひとつの考え方。でも、走ることが“自分のため”じゃなくなったら……君は誰のために走っているの?」
しばしの沈黙が流れた。
うさぎは、思わず草の上に座り込んだ。
「……わかんねぇよ。俺はただ、“勝ちたかった”だけだ」
「“勝つ”ってなんだろうね?」と、キリンが優しく言った。「君がほんとうに欲しかったのは、“勝ち”だったのかな。それとも、“認められること”だったのかな」
うさぎはすぐには答えなかった。
ただ、遠くの空を見つめながら、少しずつ風に揺れる草の音を聞いていた。
「認められること……?」
しばらく考えたうさぎは、繰り返すように呟いた。
その言葉は、どこか胸の奥を突くようで、居心地が悪かった。
「誰にだよ……そんなの、気にしたことないし……」
キリンは首を傾げて、のんびりと葉を噛みしめながら答えた。
「気にしていないつもりでも、心は正直だよ。君がレースの最中に見ていたのは、相手でも自分でもなく、“観客”だったんじゃないかな?」
「観客?」
「うん。君は、かめさんを見ていた。でもその奥には、君たちを見ていた他の動物たちの目があった。誰が勝つか、どっちが偉いか、誰が速くて、誰が遅いか。そういう目線を、君はすごく気にしていた。――だからこそ、負けたときに、あんなに取り乱していた」
うさぎはぎゅっと拳を握った。
負けた瞬間の、あの視線。
驚き、ざわめき、そして、冷めた笑い。
「……あいつら、笑ってたんだよ。俺が負けたのを、面白がって……」
「だから君は、亀のせいにした。『遅すぎたから退屈だった』って」
キリンの言葉に、うさぎは耳をピクピクと動かす。
「本当は、自分の弱さを見せたくなかったんだと思う。強いままでいたかった。みんなが思う“速くてかっこいいうさぎ”でいたかった。違う?」
うさぎは黙ったまま、草を引きちぎるようにむしっていた。
返す言葉がなかった。
「でもね、うさぎさん。高いところから見るとね、みんなちっぽけなんだ。どんなに速くても、どんなに大きくても。だから、比べたって意味なんてないんだよ。みんな、自分の足で立って、自分の歩幅で生きてる。それでいい」
キリンの声は穏やかだった。
「かめさんは、そうやって走っていた。君がどれだけ先にいようと、どれだけ止まっていようと、関係なくね」
うさぎは視線を落とした。
胸の奥で、何かが静かに揺らいでいた。
「……俺は、ちゃんと走ってなかったんだな」
「そうかもしれない。でも、それに気づいたなら、もう一度走ればいい。今度は、自分のために」
しばらくの沈黙のあと、うさぎは小さくうなずいた。
「……ありがとな、キリン」
「どういたしまして。さて、そろそろ日が暮れるよ。気をつけて」
キリンはまた、ゆったりと葉を噛みはじめた。
うさぎは立ち上がり、深く息を吸った。
さっきまでと違う空気が、胸いっぱいに広がる。
足元の土も、どこか優しく感じられた。
――次は、ちゃんと自分の足で走ろう。
そう、思った。