第2章 小さな観客、ねずみの話
レースが終わって数日。うさぎもかめも、それぞれの道を歩きはじめていた。
その日の昼下がり。野原のすみで、小さなねずみが草の実をかじっていた。細いしっぽを揺らしながら、落ち着かないようすで辺りを見回している。
そこへ、うさぎがふらりと姿を見せた。前よりすこし元気がない。毛並みもどこかくたびれていて、目の下にはうっすらとクマが見える。
「……あ。うさぎさん」
ねずみが声をかけると、うさぎはぴくりと耳を動かした。
「……なんだ、ねずみか。あのときは応援ありがとな」
「いえ……あの……」
ねずみは少しだけ迷った顔をした。
「……なぁに?言いたいことあんなら言えよ。俺、負けて落ち込んでるけど、耳はちゃんと動くからさ」
「……あのとき、レースの途中で、うさぎさんが木の下で寝ていたでしょ?」
「ん? まぁ、昼寝だよ。退屈だったから、ちょっとだけな」
「……そのとき、僕、うさぎさんが倒れてるんじゃないかと思ったんです。なんだか、息も荒くて……もしかして、具合が悪かったんじゃないかって」
「……!」
「かめさんが横を通ったとき、ぼく、かめさんに声をかけたんです。『うさぎさん、だいじょうぶですか?』って。でも……かめさん、ぼくの声が聞こえなかったのか、そのまま行ってしまって」
うさぎは黙ったまま、少しだけ目を伏せた。
「……そのとき、ぼく、なんだか悲しかったんです。かめさんって、もっと優しいと思ってた。でも、あのときは冷たく感じちゃって……」
「いや……かめは、悪いやつじゃない。たぶん、気づかなかっただけだ。あいつ、すごい集中してたんだろうな……」
「うさぎさん……」
「……俺さ。ずっと、自分が負けたのは、かめが遅すぎたせいだって思ってた。でも、今の話聞いて、ちょっとだけ思った。俺が寝てたの、ほんとは……疲れてたのかもしれねぇ」
「……」
「なぁ、ねずみ。お前は、どう思った? あのレース。勝ち負け以外で、なんか、見えたことあるか?」
ねずみは少しだけ考えて、そっと答えた。
「ぼく……かめさんがゴールしたとき、うれしかった。でも、ちょっとモヤモヤもしたんです。うさぎさんが寝てて、かめさんがそれに気づかなくて、誰も何も言わなかった。でも、それでよかったのかなって」
うさぎは、ぽんとねずみの頭を軽くなでた。
「お前、意外と考えてるな。ちっこいけど、見えてることは俺より大きいかもな」
ねずみは照れたように笑った。
「……なんか、ごめんなさい。変なこと言っちゃって」
「いや、ありがとな。お前の言葉で、ちょっと目が覚めた気がする。……次、走るときは、ちゃんと前だけ見て走るよ」
うさぎはそう言って、ぴょんと草むらを跳ねていった。後ろ姿はまだ少し不安定だけれど、その耳は風に揺れて、少しだけ軽やかだった。
ねずみは、ぽつんと取り残されたように見えたが、どこかほっとしたように小さくつぶやいた。
「……次は、ちゃんとふたりとも笑えるといいな」
その声は、春の風にさらわれて、静かに空へと流れていった。