第一章 レースのその後
「やった……勝った……!」
かめは、息を切らしながらも、静かな喜びを胸にゴールテープをくぐった。
ゆっくり、でも確かに――。自分の歩みで、うさぎに勝ったのだ。
観客から拍手と歓声があがる。
それは「まさか、かめが勝つなんて!」という驚きと、「最後まであきらめない姿勢ってすごいね!」という称賛だった。
かめはその声に笑顔を返しながらも、どこか胸の奥にひっかかるものを感じていた。
近くの木陰には、レース中に眠っていたうさぎが、目を覚ましたばかりの顔で座っていた。
寝ぐせのついた耳を気にしながら、観客のざわめきを見つめていた。
「……なんだよこれ」
うさぎの口から、ぽつりと声がもれた。
レースに負けた悔しさか、寝てしまった自分への怒りか――それとも、何かもっと別の気持ちだったのか。
観客の一部が、うさぎに視線を向けていた。
「寝てるなんて、やる気ないんじゃないの?」 「かめの勝利を台無しにするなよ」
そんな声が飛ぶ中、別の声も聞こえてきた。
「正々堂々戦えよ、かめ!」 「うさぎが本気じゃなかっただけじゃないの?」
その言葉に、かめは足元が揺れるような感覚を覚えた。
自分はたしかに勝った。けれど――それは、「ちゃんとした勝負」だったのだろうか?
レースに勝てたことは嬉しい。
でも本当は、あのうさぎと――子どもの頃からのライバルであり、どこか気になる存在だったうさぎと――
最後まで、全力で、肩を並べて走りたかったのだ。
かめはうつむいた。
心に浮かんだのは、木陰ですやすやと眠っていたうさぎの姿と、自分がその横を何も言わずに通り過ぎた瞬間だった。
「……あのとき、声をかけていたら、何か変わってたかな」
その時、背後から何かが勢いよく近づいてきた。
「おい、かめ!」
振り返ると、うさぎが肩を怒らせて立っていた。
ふだんの明るくて勝ち気な笑顔はそこになく、目はまっすぐにかめをにらんでいた。
「寝てた俺が悪いって思ってるだろ? でもな、負けたのはお前のせいだ。お前が遅すぎたから、退屈して眠くなったんだよ!」
――それは、苦しい言い訳に聞こえた。
でも、うさぎの声には何か焦りのようなものも混ざっていた。
まるで、自分に言い聞かせるように。
かめは目をそらさなかった。
「うさぎ……あのとき、本当に走りたかった? 僕と、ちゃんと」
「は?」
「いや……ごめん。なんでもない」
そのままうさぎは背を向けて走り去った。足は速い。やっぱり、速すぎるほどに。
残されたかめは、レースのゴールテープを見つめながら思った。
これは、本当のゴールじゃなかったのかもしれない。
そして、どこからか声がした。
「このレース、ほんとうに正々堂々だったのかね?」
低くて落ち着いた声。見上げると、木の枝にフクロウがいた。
フクロウは知っていた。すべてを見ていた。
「勝ったことよりも、大切なことがあるんじゃないかな。そんな顔をしているよ、君は」
かめは答えなかった。けれど、何かが胸の奥で動きはじめていた。
それは、疑問。
それは、後悔。
そして、それでも前を向こうとする意志。
かめは、もう一度走り出すことを決めた。
今度は、「勝つため」ではなく――「本当の答え」を探すために。