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まだ見ぬ誰かのために

猫のいた場所

作者: 秋初夏生

 猫という生き物には、不思議な気配がある。


 姿がなくても、そこに“いた”ということだけは、風の匂いや、日だまりの温度の端に、かすかに残っている。

 あたかも、空気の中に静かに息を潜めているような——そんな存在だ。






 その日、私はいつものように公園を歩いていた。

 週末の午後にしては人が少なく、葉を落とした木々の間を、冬の入り口の風が淡々と吹いていた。


 ベンチのひとつに、中村孝一さんの姿を見つけた。

 定年後、近所に越してきた元高校教師で、年の頃は六十代半ば。私よりもふたまわりほど年上だが、無駄に老け込まず、かといって無理に若作りもしない。

 物静かで、言葉を選ぶ人だった。私は、そういう人に安心感を覚えるたちだ。


 彼の足元には、いつも小さな灰色の猫がいた。

 ミミという名の雌猫で、あまり人懐っこいタイプではなかったが、孝一さんの隣にはぴたりと寄り添っていた。

 ——けれど、その日は何もいなかった。


 風だけが、彼の足元をすり抜けていった。


「……ミミは、今日は?」

 そう問いかけると、孝一さんはしばしの沈黙ののち、小さく頷いた。


「死んだよ」

 それだけを言って、ベンチの背にもたれた。


 言葉に感情の起伏はなかった。ただ、その横顔からは何かが抜け落ちてしまったような気配があった。

 たとえば、大事なページだけを破られた本のような。読み進めようとしても、その先へ進めない、そんな空白のような。


 私は何も言わず、彼の隣に腰を下ろした。


 風がまた吹き抜ける。

 孝一さんの足元に落ちていた葉が、一枚だけふわりと宙に舞った。


 ふたり並んで座ったまま、しばらく沈黙が続いた。

 孝一さんは、足元の地面をじっと見つめていた。そこにあるのは、砂利と、雑草と、影だけだ。


「十五年、一緒だった」


 不意に、彼が口を開いた。

 その声は、言葉というよりも、胸の内からこぼれた響きに近かった。


「朝になると、やつが飯を催促してくる。新聞読んでると、いつの間にか膝の上に乗ってきやがる。……夜中に咳が出たときなんか、どこからともなく布団に入ってくるんだよ」


 彼は小さく笑った。だがそれは、音を持たない笑みだった。

 乾いた空気に、感情の粒だけがぽつりと浮かんでいる。


「いなくなって、最初に気づいたのは……音だな」

「音、ですか?」


「部屋が、妙に静かなんだよ。時計の音だけが、やけに大きく聞こえる」

「……」

「それでようやく気づいた。あいつが、どれだけ空気の中に混ざってたのかってな」


 私は黙って頷いた。

 彼の言葉のなかに、まだ“いたもの”の気配を感じていた。

 まるで今も、足元でミミが彼の靴紐をかじっているような、そんな錯覚さえ覚えるほどに。


「……まあ、寿命だ」


 孝一さんはそう言った。

 けれどその声音には、どこか自分を納得させようとする響きが混じっていた。

 理屈は理解しているが、心が追いつかない——そういうとき、人はよく「仕方ない」と口にする。


「どんな最期だったんですか」


 私は、少し間を置いてから、そう尋ねた。

 彼は目を閉じた。まるで、その記憶の引き出しを探しているかのように。


「静かだったよ。……なにも言わず、俺の腕の中で、呼吸が止まった。目を開けたまま、じっと、俺のほうを見ながらな」


 彼はそれきり、口をつぐんだ。

 風がまた吹き抜けた。まるで、それに返事をするように。





 日が傾きかけた頃、私は孝一さんの家を訪ねた。

 彼の方から「ちょっと来てくれ」と言ってくれたのは、ありがたかった。こういうとき、人に声をかけるのは、案外エネルギーの要ることだからだ。


 玄関の引き戸を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

 誰もいない家に一歩足を踏み入れたときのような、わずかなよどみ。けれど、その奥には、確かに誰かが暮らしていた痕跡が残っていた。


「……散らかってるけど、まあ上がってくれ」


 孝一さんはそう言ったが、室内は拍子抜けするほど整っていた。

 ただ、「片づけていない」のではなく、「触れられずに残っている」ものが、いくつかある。


 テーブルの下には餌皿。

 キャットフードの袋が、半分だけ使われたまま、脇に置かれている。

 毛が付いたクッション、小さな爪とぎ、おもちゃのボール。

 そして、光の加減で鈴の音が聞こえそうな、首輪。


 それらはすべて、時間がふと止まってしまったように、そこにあった。

 そしてそれを見つめる彼の背中もまた、どこか時間から切り離されているようだった。


「……捨てようとは思ったんだ」


 孝一さんが、ぽつりと言った。

 その声は部屋の空気に溶け込むようで、言葉というより“感情の欠片”だった。


「でもな、手が止まるんだよ。動かそうと思っても、動かなくてな。……情けねえ話だ」


「情けなくなんかありません」

 私は首を振った。


「思い出というのは、片づけようとして片づけられるものじゃないですから。どこに置いておけばいいのか、それを考えるだけで、時間がかかるものです」


 孝一さんは何も言わなかった。

 ただ窓の外に視線を向け、しばらくそのままでいた。

 その横顔は、先ほどよりも少しだけ、表情の輪郭が戻ってきているように見えた。


 そのとき、テーブルの上に置かれた一冊のスケッチブックが目に入った。

 陽射しの角度にあたって、他のものよりほんの少しだけ、柔らかく光を放っている。


「……それ、描かれたんですか?」


 私が尋ねると、孝一さんは一瞬だけ間を置き、静かに頷いた。


「ああ。俺が描いた。昔、美術部の顧問をしてたことがあってな。筆を握るなんて、何十年ぶりだったけど……あいつだけは、描いておきたかったんだ」


 彼はスケッチブックを開いた。

 ページをめくるたびに、そこに現れたのは、確かに“生きていたミミ”だった。


 丸くなって眠っている姿。

 ベランダの手すりでひなたぼっこをする姿。

 新聞の上にどっかと腰を下ろして、動こうとしない姿。


 絵は決して技巧的ではない。線も色も、どこか不器用なままだ。

 けれど、その一枚一枚には、間違いなく“愛された存在の重み”があった。


「写真も考えたんだけどな。あいつ、カメラを向けるとすぐにどっか行っちまって」


 孝一さんはそう言って、ページの上に描かれたミミの耳を、指先でそっとなぞった。


「だから、自分で描いた。……忘れたくなかった。

 あいつがこの家にいたってことを、ちゃんと残しておきたくて」


 その言葉に、私は言葉を返せなかった。

 ただ、胸の奥に微かに熱を感じた。

 時間を過ごす、というだけでは生まれない絆が、そこに確かにあった。


「孝一さん」

「ん?」

「この絵、どうか大切になさってください。

 誰かに想われたという証は、たとえその誰かがいなくなっても、ずっと色を持ち続けるものですから」


 孝一さんは、少しだけ目をそらして笑った。

 そして、スケッチブックのページをゆっくりと閉じた。


「……まあ、悪くないな。久しぶりに絵を描くのも」


 そのとき、部屋の空気が、ほんの少し変わった気がした。

 ミミの気配は、まだ確かにそこに漂っている。

 けれどどこかで、風通しが良くなったような——そんな感覚があった。





 数日後、私はまた公園を歩いていた。

 少し肌寒い風が吹いていたが、空は明るく、雲がゆったりと流れていた。

 冬の気配がようやく街に馴染んできた、そんな午後だった。


 ベンチのあたりに目をやると、見慣れた姿があった。

 中村孝一さんだ。けれど、今日は一人ではなかった。


 彼の隣には、小さな子どもがいた。七歳か八歳くらいの、近所の子だろう。

 膝の上にはスケッチブックが開かれていて、孝一さんがページをめくりながら、子どもに何かを話している。


 子どもが声を上げて笑った。


「この猫、耳がでっかいね!」


「……そりゃ、ミミだからな」


 孝一さんは苦笑して言った。

 あの人が誰かに絵を見せるのは、あまり想像していなかった。

 けれど、今そこにあるのは、閉じ込めていた時間を誰かと分かち合おうとする、ほんの小さな一歩だった。


 私はその光景を遠くから眺めながら、そっと微笑んだ。


 ——記憶というものは、ただ閉じてしまえば静けさに変わる。

 でも、それを誰かに語り、渡した瞬間から、“つながり”に変わる。


 ミミはもういない。

 けれど、彼女がいた時間は、今も絵の中に生きている。

 その色は淡く、声も出さないが、見る者の心にそっと触れる温度を持っていた。


 私は歩き出しながら、ふと、まだ見ぬ“誰か”のことを思った。

 この胸の奥の、誰にも見えない柔らかな部分を、ふと撫でてくれるような存在。

 圧倒的な出来事ではなく、気づけば隣にいて、日々の一部になっている——そんな、誰か。


 ミミのように、さりげなく、でも確かに心を寄せる存在に、

 もし、いつか出会えたなら。


 空を見上げると、雲がひとつ、猫の背中のようにふんわりと丸まって、風に流れていった。


 未来はまだ見えない。

 けれど、それでいい。


 大切なものは、たいてい、

 気づけばすぐ隣にいるものだから。

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