2-3
バスの中で立っている間、心臓の動きがずっと激しかった。
席に座っているふたりの女子高生が、あたしを見て何かしゃべっている気がした。
あたしは耳を塞ごうとイヤホンを探す。だけどポケットの中にはスマホしかない。
さっきのところに落としたのかも……最後にあたしを呼び止めた、あの人の声が耳に聞こえた。
どうしよう。今から取りになんて戻れない。でもあれがないと困る。
呆然とスマホを握りしめていたら、降りようとする男の人があたしにぶつかった。
その拍子にあたしの身体が隣に立っているおばさんに当たってしまい、すごい顔でにらまれた。
あたしは怖くなり、咄嗟に足元を見つめる。
「まったく。人にぶつかっておいて、謝ることもできないのかね、最近の子は。ケータイいじくる暇はあるくせに」
ごめんなさい。心の中でつぶやいた言葉は声にならない。
うつむいたまま唇を噛みしめた。結局おばさんは不機嫌なまま、次のバス停で降りていった。
「つぐみちゃん!」
バスを降りると、そこに糸ちゃんが待っていた。あたしを見つけ、あの笑顔で駆け寄ってくる。
「無事でよかった、ほんとに。やっぱりわたしがついて行ってあげればよかったね。ひとりで不安だったでしょう? ごめんね」
糸ちゃんはそう言って、制服姿のあたしの身体を抱きしめた。
どうして糸ちゃんが謝るのだろう。謝らなきゃいけないのは、学校をサボったあたしのほうなのに。
冷え切った糸ちゃんの服からは、ちょっとだけお母さんと同じ匂いがした。
「学校行きたくなかったの?」
糸ちゃんはあたしから身体を離して首をかしげる。
行きたくなかったわけじゃない。行けなかったんだ。
黙ったままのあたしの前で、糸ちゃんが優しい顔で言う。
「行きたくなかったら行かなくていいよ。でもどこに行くか、わたしには教えてね? これからは」
糸ちゃんがあたしの手をそっと握る。糸ちゃんの手はすごく冷たくなっていた。
「さ、うち帰ってご飯食べよ。つぐみちゃん、カレーライス好きでしょう? 今日はカレーにしたよ」
あたしを引っ張るようにして、糸ちゃんが歩道を歩き出す。
謝らなきゃ。糸ちゃんに心配かけてしまったこと、ちゃんと謝らなきゃ。
『謝ることもできないのかね、最近の子は』
さっきのおばさんの声に背中が震える。
ぼんやりとした街灯の灯りが続く中、四階建てのビルが見えてきた。
暗闇の中で見る蔦の絡まり合った古いビルは、なんだかおばけ屋敷のようだ。
「ご飯……全部食べられないかも……」
声を振り絞るようにそう告げた。糸ちゃんが立ち止まってあたしを見る。
「ごめんなさい……」
糸ちゃんの作ったカレーライス、無理やり食べたらきっとまた吐いてしまう。
しばらくあたしを見つめていた糸ちゃんは、穏やかに頬をゆるめた。
「つぐみちゃん、お母さんとふたりの時は、いつもご飯作ってたんだって?」
あたしは小さくうなずく。お母さんはいつも仕事が忙しかったから、食事を作るのはあたしの担当だった。
「じゃあさ、これからわたしたちも、食事の支度当番制にしない?」
「え……」
「実はわたし、料理とかすごく苦手で……でも今朝はつぐみちゃんにいいとこ見せようと思って、うんと頑張っちゃったんだ。ちょっと無理してたかも」
糸ちゃんがそう言って、いたずらっぽく舌を見せる。
「普段は朝ご飯なんて食べないか、コーヒー一杯飲むだけ。でもさすがにそれはまずいでしょう? だからふたりで順番にご飯の支度しよう。お互い無理のない程度に」
あたしに同意を求めるように、糸ちゃんは首をかしげた。
糸ちゃんはきっと気づいたんだ。あたしが糸ちゃんに悪いと思って、無理やりご飯を食べたこと。
「これからはわたし、できないことはできないって言うよ。だからつぐみちゃんも言って。すぐにはなれないと思うけど、少しずつ仲良くなりたいんだ、わたし。つぐみちゃんと」
ぼんやりとした灯りの中で、糸ちゃんの顔を見た。
糸ちゃんの顔は、どこかお母さんに似ている。姉妹なんだから、当たり前だけど。
糸ちゃんの前で小さくうなずいた。糸ちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。
そしてふたり手をつないで、ひと気の少ない歩道を歩く。
ビルの上の夜空には、少し欠けた月が浮かんでいた。
お父さんとお母さんも、どこかでこの月を見ているのかな。見ているといいなって思う。
離れていても、好きな人とは同じものを見ていたい。
そしてあたしのお兄ちゃんも――どこかでこの月を見ているのだろうか。
月を見ながら、あたしたちのことを思い出したりするのだろうか。