前編
プロローグ
砂の猛威が地球を覆い尽くそうとしていた。
煙る景色の中で無残にも自然に呑み込まれた文明の跡は人間の傲慢と愚かさを体現しているようにも見える。
砂塵が見渡す世界の殆どを覆う中で一人のターバンで顔を守った筋骨隆々の大男が、砂漠に倒れ伏したビルの残骸に座って静かに周囲を見回していた。見通しの悪い視界の中でも旅装の奥に隠れた双眸は砂に呑み込まれてしまった幾つもの倒壊物を捉える。
全ては数日前にこの街を襲った大きな砂嵐が原因だった。『街』で無くなってしまったここには今でも小規模ながら砂嵐が押し寄せて来る。
「何処までも償うさ。それが、俺とお前の責任だ……そうだろう?」
不思議と男の言葉は此処にはいない誰かへと向けられていた。
「…………人間は、決して砂には屈しない。俺も、決して」
大男は決意を噛み締めて立ち上がると、より色濃くなりつつあった砂霧の中へと消えていった。
※
小高い丘の上にガラス張りの高層ビルが建っていた。
ビルの足下にはブロック塀に囲まれた芝生の区画があり、生い茂る緑の上では少年が仰向けに寝転がって空を見上げている。
天候は曇り。分厚い灰色の雲は今にも見上げる少年を押し潰してしまいそうな程に鈍重で鬱屈としていたが、対照的に小学生ぐらいの歳であろう迷彩服を身に着ける少年の心は雲一つない程に晴れ渡っていた。
何故なら今日は、少年が父親の仕事を手伝い始めてから初めての親子で共同作業を行う予定がある日だからだ。
少年は体の内側から沸き上がってくる興奮を隠し切れず一人でニヤついた。この年頃の子供にとって父親と何かを一緒に出来る事は、それだけで嬉しかったりする。
寝転びながら足をバタバタとさせていた少年だったがふと、足裏の先で自動ドアの開く音が聞こえた。音に反応し少年は首だけを起こしてビルの入口を見やる。すると、足裏から約二十メートル先にあるビルの入口に立っていたのは、白のシャツに黒のスーツを着た黒髪をオールバックにし理知的な銀縁フレームのメガネをかけた見た目三十代ほどの細身の男。
「バンタさん、そろそろお時間ですよ。お父様は一度こちらへお帰りになるそうです」
少年の事をバンタと呼んだ細身の男は言い終えると同時に柔らかい笑みを浮かべて、軽く会釈をしながらビル内部を腕で指し示した。
その所作を見て少年――バンタは、寝転がっていた仰向けの姿勢から軽々と手を使わずに芝の上で跳ね起きる。そして、手首に付けていたヘアゴムで長い黒髪を器用に結わいて颯爽とビル内へ向けて駆け出した。
「ありがとう! ケイも遅れるなよ」
興奮した声でお礼を述べるその間に身体は一瞬で自動ドアを通過しビルの中へ足を踏み入れるバンタ。
「流石の身体能力……間違いなく、ベンケイさんの子だ」
細身の男――ケイがもらした感嘆の声を置き去りにバンタは駆け込んだビル内部の近未来的デザインで造られた廊下を風のように走り抜ける。屋内の明るさに合わせて自ら発光する天井、開放感を与えるディスプレイ機能付きのガラスの壁、そして建物内にいる人間を識別する大理石の床。
だが、これらはバンタの視界には入りこそしたが彼にとっては日常的に見慣れたモノであったので、足を止める程の興味を持つまでにはもはや至らない。廊下を走っている途中すれ違いざまに女性が持っていた書類の束を風圧によって散々に舞い上がらせたバンタだったが、彼は今その事にすら気が付かない程に興奮していた。
やがてビルの正面入口がある吹き抜けのエントランスまであっという間に辿り着くと、目的の大きな自動ドアの前で急停止するバンタ。少し遅れて落ち着かない様子で足踏みをするバンタに反応し自動ドアが開くや否や、彼は外へ飛び出して空に向け大声で叫んだ。
「――――俺が父さんとこの世界を救ってやる!」
バンタの立っているビルの正面入口からまず一番に視界へ飛び込んでくる景色は、見渡す限りに街の外郭に沿って建てられた巨大なダムのような壁。しかも珍しい事に壁の上には等間隔で風車が建てられている。そして、囲いの外には街を取り囲むように存在する乾いた黄色の砂漠と、さらにその外側を地平線に沿って広がる水色の果てしない二色のグラデーション。
誰が見てもこの街が砂漠の危険に晒されている事は一目瞭然だった。
次に壁の内部に目を向けてみると防壁の中で成り立っているこの街は、丘の上に建てられたガラス張りのビルを中心に、徐々に防壁へ近付くに従って階段のような形で高さを減らしていく重なり合ったバラック小屋が密集していた。
丘の頂上に建つビルとその周囲に群がるように建てられたバラック小屋との対比が、この街が急造都市である事を物語っている。
叫び終わったバンタはビルの前に作られたロータリーまで足を進めて、落ち着かない様子で左右を見回した。すると、しばらくしてバンタの正面から傾斜を登って砂色の軍用ジープ車が低速でバンタへ近づいて来る。
「父さん!」
エンジン音を聞いて車の接近に気付いたバンタはまだ走行中のジープ車へロータリーを横断して走り出した。大慌てで車の運転手がブレーキを踏むがそれを見越していたのかバンタは迫り来るジープ車にタイミングを合わせて跳躍し、まだ止まりきらない車のボンネットへ目を疑うような身のこなしで軽々と着地。低速であったとはいえ、自分へ向かってくる車のボンネットに躊躇なく飛び乗れる身体能力には運転手も驚かざるを得なかった。
やがてジープ車が停車すると助手席からは身長が軽く二メートルを越した迷彩服にタクティカルベストを身に着けた山のような大男が、周囲を威圧してしまう程の雰囲気を伴って道路へ降り立つ。男は、バンタの声量を上回るのではないかと疑うほどの豪胆な声でボンネットの上へ向かって叫んだ。
「息子よ!」
バンタの父である大男――ベンケイの拡声器を使ったかのような大声に応え、すかさずボンネットから跳び上がってそのまま父へと抱き付くバンタ。
「おかえりなさい!」
「ああ、ただいま。家を空けている間、何か変わった事はなかったか?」
「ううん、特に何も」
「そうか。こっちはまた、一つ街が砂に呑まれていた」
「黄色い方?」
「ああ……」
二人が会話を交わす間に後へ続いていた車が次々と現れビルの前へ停車していく。ジープやバギーなどの大型車集団は久しぶりの親子の再会に車内から温かい視線を送っていたが、一台のジープ車の運転席からケイがゆっくりと顔だけを外へ覗かせて申し訳無さそうに二人へ向けて腕を振った。
「感動の再会を邪魔して申し訳ありませんが、隊長、時間がありません」
「そうだったな。バンタ、お前はケイの車に乗れ」
「父さんと同じ車じゃダメなの?」
「俺の車は既に道具で満席でな、ケイの車なら助手席に乗せてもらえるぞ」
ベンケイの説得に対して納得のいかない表情を浮かべるバンタだが、抱き付いていたベンケイの胸から降ろされ乱暴にだが愛情のこもった手付きで頭を二度撫でられると、バンタは諦めたのか渋々ながら小さく頷いた。
彼の反応にベンケイは満足そうな笑顔でもう一度車内へと戻って行く。バンタもケイの車へ向かって小走りで近付きドアを開けて中へ乗り込むと、助手席へやや乱暴に腰を下ろした。
「砂漠化を防ぐ為のあらゆる手段が積み込まれていますから、仕方がありませんよ」
「別に。気にしてないし」
あからさまに不機嫌な様子のバンタに、いつの間にか周りに合わせて迷彩服に着替えていたケイは小さく笑いながら前の車を追ってアクセルをゆっくりと踏み込む。
「ですが、私は反対したんですよ? 十一歳で防塵壁の外へ行くのはまだ早いと」
「俺、ケイより速く走れるよ」
「それはそうですが……バンタさんはまだ若すぎます」
「年なんて関係ない。父さんのプロジェクトで、俺の手で、砂に沈みかけたこの世界を救うんだ」
決意に満ちた声と指が食い込むほどに太ももを握りしめるバンタに、ケイはそれ以上言葉を返さなかった。
若干十一歳にして世界救済を口にするバンタ。街を砂漠の侵食から守っている英雄の息子に生まれたこの少年の重圧と希望に、ケイは同情せざるを得なかった。
普通、人は様々な事柄を経験した上で己のやるべき事、人生の目的を見つける。ケイの場合、それが最終的に砂漠の脅威へ立ち向かうことだった。
だが、バンタは違う。この地球を覆い尽くそうとしている砂漠と生まれながらにして戦う事を義務付けられてしまっているのだ。そして、その事実をバンタは当然の如く受け入れていた。
ベンケイの一団は一列に並びながらバラック小屋の間を縫うように敷かれた道をゆっくりと防塵壁へ向かって下って行く。路肩には小屋に住んでいる住民達が続々と現れて街の外へ向かう一行に対して口々に声援を送り始めていた。
「ベンケイさんアンタが頼りだ!」
「砂漠での生活はもう飽き飽きだよ!」
「ベンケイさん街を救ってくれ!」
進むにつれてさらに大きくなっていく声援を車内で聞きながらもう一度自分の感情が昂ぶっていく感覚をバンタは感じる。自分が今から父親と成し遂げようとしていることが皆からこんなにも期待されている。父親が行っていることはとても立派な事なのだと、直に肌と耳で感じる事が出来たバンタは非常に興奮していた。
一秒でも早く防塵壁の外へ出て皆の、世界の役に立ちたい。バンタは無意識に自分の太ももを掴んだ両手へさらに力を込めていた。
「バンタさん、落ち着いて」
いつの間にか気持ちに引っ張られる形で助手席の背もたれから背中が離れ、前のめりになっていたバンタを冷静にケイがなだめる。
「私もこの街の人々の声援を聞いて非常に誇らしく思います。ですが、防塵壁の外へ一歩出れば、そこは人間を淘汰しようとする世界です。くれぐれも冷静な心を持ってください」
「うん、わかってる」
興奮した声でバンタは短く返事をした。彼の思考は声援の後押しもあり今は完全に街を救うという決意の元に生まれた高揚感に支配されてしまっている。それは、隣で運転しているケイにも瞳を輝かせて前のめりになっているバンタの姿勢から丸わかりであった。
一行はその後も多くの声援を受けながら坂を下って行った。しかし、真横から受けていた声援が背中へ向けられるようになった頃。突然、防塵壁を目前にして先頭の車が急ブレーキをかけて停止した。同様にその後ろを走っていたケイの車も急ブレーキを踏んだ為、ただでさえ身を乗り出していたバンタは勢い良くおでこを車内にぶつけて声を上げる。
「いて――ッ!」
「何があったのでしょうか?」
「~~~~~~ッ! 何なんだよ、一体」
痛がるバンタには答えず運転席の窓を開けて前方の様子を窺うケイ。すると、ベンケイの乗った車の目の前には地面へ座り込んでおでこを土へこすり付ける、白金色の長髪に浅葱色のリボンをカチューシャのように結いた少女がいた。
「お願いします! 私の村を救ってください!」
叫ぶ彼女の声は酷いほどに枯れ果てており纏う旅装も砂に汚れ所々破れている。ただならぬその様子からその場にいた全員がこの少女は防塵壁の外から来たことを理解した。
なりふり構わぬ少女の嘆願に先頭のジープ車からベンケイが降りて少女へ近付いて行く。
「君、顔を上げてくれないか」
「お願いします――ッ、お願いします!」
頭を地面へ擦り付け土を握り締める少女の指からは血が流れ出していた。ベンケイはその事に気が付くと直ぐに彼女を抱き上げる。
「――――っ」
突然に抱き上げられ驚きの余り息を呑む少女。その顔は砂と泥で汚れ赤紫がかった碧い瞳から地面へこぼれ落ちた涙の通り道が、碧眼の下にくっきりと二筋浮かび上がっていた。
「お願いです、村を、村を助けてください!」
「……綺麗な瞳をしている」
ベンケイは抱き上げた両腕に縋って懇願する少女を抱えたまま車まで戻ると助手席の機材の上へ少女を乗せ、自らは運転席側へ回って車のドアを開けた。
ベンケイの行動にケイは驚いて制止するように疑問を投げかける。
「隊長、どうするつもりです?」
「無論、村を救いに行く」
ベンケイの返答に助手席にいた少女はさらに涙を流しながら大きく頭を下げた。お礼の言葉を言おうとするのだが、嗚咽で言葉にならず彼女はひたすらに頭を下げ続ける。
そんな少女の様子に話は済んだとばかりにベンケイはもう一度車へ乗り込もうとするが、運転席の足場へ片足をかけた所で焦った表情を浮かべたケイに後ろから肩を掴まれた。
「我々にはこの街を呑み込もうとする砂漠の侵食を防ぐ使命があります。それを隊長は放棄しようというのですか。この街を見捨てるおつもりですか?」
ケイの厳しい言葉にベンケイは後ろを振り返って肩を掴んでいる手を剥がすと、小さく笑って今度は逆にケイの両肩を力強く掴み返す。
「ケイ、お前は何の為に砂漠に立ち向かう?」
「それは勿論、砂に呑み込まれつつあるこの世界を救う為です」
「では世界とは何だ」
「世界とは、人間が生きる……この、地球の事です」
「そうか。ならこの街を救うのはケイ、お前の仕事だ。俺が救いたい世界は……子供が泣かずに済む世界だ」
肩から手を離し詰め寄ってきていたケイをベンケイは開放した。掴まれていた部分をケイが気にしている間にベンケイは車へ乗り込み運転席のドアを閉める。
「俺の息子はまだ幼いが優秀だ。お前と俺の息子、二人が力を合わせれば俺がいなくともこの街を守る事が出来る。頼んだぞ」
「任せて!」
いつの間にか車から降りて来ていたバンタがベンケイの言葉に力強く返答し、拳を作って頭上へ掲げた。
「父さんの帰る場所は俺が守ってみせる!」
息子の逞しい姿にベンケイは涙腺が緩みそうになるのを必死で堪えて前を見ると、運転席の窓から親指を立てた握り拳を付き出しそのまま車のアクセルを踏む。
走り出した車を呆然とした表情で見送るケイ。そんなケイを見てバンタは彼へ駆け寄り正面至近距離から喉仏が見える程に口を大きく開けて叫んだ。
「俺達なら出来る!」
その自分へ向けられた強烈な音圧にケイは小さく身震いをしながら我に返った。そして、何か覚悟を決めるかのように一度大きく深呼吸をし、バンタの力強い光を携えた両目の奥を真っ直ぐに見据える。相手の瞳を見据えるケイ自身の双眸の奥にも今までとは違う重みを持った光が生まれていた。
「バンタさんはこの世界を救いたいですか?」
「ああ、勿論!」
食い気味に鼻息の混じった返答をされたケイは思わず笑みをこぼしながら、一度バンタから視線を外してゆっくりと周囲の景色を眺めた。防塵壁内でのバラック小屋生活をこの街の大半の住民は強いられている。ケイにとって人間がこんな屈辱的な現状に甘んじている事は到底許せることではなかった。
もう一度、人間全てにかつての文明的な生活を取り戻す。それが、今のケイが心に誓い周囲へ宣言した自分の信念であった。
ケイは一通り見慣れた街を眺め終えるとバンタの頭に優しく手を置いて大きく頷いた。
「私達は私達でこの世界を救いましょう」
「ああ、俺達で救おう!」
待ち望んでいた通りの返答を聞いて満足気にケイから離れ、バンタは乗っていた車へ戻って行く。バンタが助手席に乗り込みドアを閉めた事をその場から動かないまま眺めていたケイは、車内から早く来いと催促するあどけない姿を見つめつつ小さく呟いた。
「……私は私のやり方で私の世界を救ってみせますよ、ベンケイさん」
言葉を終えると共にバンタへ背を向けてケイは車と逆の方向へゆっくりと歩き出す。その突然の行動にバンタが訝しげな表情をした瞬間。
足元に熱さと閃光を感じ取った時には既に遅かった。車外へ逃げようとするバンタを嘲笑うかのように光が、音が、熱が車内へと満ち、街中に轟く程の炸裂音を響かせてバンタの乗っていた車は爆発した。
1
見上げる者全ての不安を煽るような曇り空の下、水色の砂塵を巻き上げて体長三十メートルを軽く越えた駱駝色の超巨大なサメが宙へ跳ねた。
――――『地球は今、水色と黄色の砂漠によって覆われかけている』
超巨大サメの跳躍によって引き起こされた凄まじい衝撃は、近くを走行していた隊商の装甲車を砂の津波によって為す術もなく呑み込んでしまう。
突然に襲いかかって来た砂の脅威から生き残った迷彩色の大型トラックやバギーは次々と玉突き事故すれすれで急停止した。車内からは何人かの頭と顔にターバンを巻いた焦げ茶や白の旅装に身を包んだ商人たちが慌てふためきながら外へ飛び出して来る。
そして、彼等は唖然とした目で空中を泳ぐサメを見上げる。水色の砂漠を渡る隊商へ突然の混乱を与えた超巨大サメは空中で雲を払うかのように尾を何度か振り回したあと、再び大量の砂を巻き上げて砂漠へ潜って行く。
「砂漠にサメとかウソだろ!?」
車外にいた商人達の中で比較的若い声をした一人が焦ったように叫んだ。
「海が砂漠になったんだ、サメの一匹不思議なことじゃねえ」
若い商人の言葉に隣へ立っていたもう一人の商人が冷静なしわがれた声で答えつつ、旅装の内側から自動小銃をゆっくりと取り出す。それに倣って同じように武器を構え、次のサメの出現に備える商人達。
若い商人に比べて他の商人達は比較的冷静ではあったが、それでもこのような事態は初めてなのか周囲を警戒する彼らの目には隠し切れない不安の色が浮かんでいた。
「だから俺は水色砂漠を越えての商売は嫌だって反対したんだ!」
「おい、若えの」
「街も国も、砂漠ですら呑み込んじまう水色だぞ? おまけにここじゃ戦車よりはるかにデカいサメが平然と空を跳ねてる。おい、誰かこれは夢だって言ってくれよ!」
「若えの」
「なんだよおっさん!」
「…………もう遅い」
喚いていた若い商人がピタッと動きを止めた。振動を足元に感じたが故の静止だったが、次の瞬間には男をふらつかせてしまうほどに砂漠を震わして、再び大量の細かい水色を巻き上げながら宙へ跳び上がる超巨大サメ。しかし、今度は明らかに立ち往生している隊商へ向けてその身を叩きつけようと飛翔している。
商人たちが一斉に超巨大サメへ向けて発砲を開始したが恐ろしい事に命中した弾丸はことごとく頑丈な表皮によって弾かれ、商人たちはいよいよ冷静ではいられなくなった。
自分達へ迫る巨大な影に呆然と立ちつくす者、銃を投げ捨てて落下地点から逃げ出そうとする者、さっきまで喚いていた若い商人に至っては異色の砂漠へ膝を付いて何かに祈りを捧げている。
しわがれた声の商人も既に抗うことを諦めたのか両腕をだらりと垂れ下げて、空を覆い隠すのではないかという程の巨大な影を見上げていたが、不意にその肩を白い手袋を付けた何者かに叩かれて後ろを振り返った。
「おお、嬢ちゃんか。すまないな、『トウト』まで送ってやれなくて」
「ううん、こっちこそこんな事に巻き込んじゃって悪かったわね」
振り返ると後ろには白の旅装をフードまで目深に被った完全防備の一人の少女。
「あの若えのにも悪い事をした。アイツはまだ二十そこそこだし、嬢ちゃんなんかはまだ二十歳にもなってねえんだろ?」
「無理に頼み込んで皆を水色砂漠へ引き込んだのは私の責任よ。だから、おじさんが気にすることない」
巨大な影が刻々と近づいて来る中で少女は少しも焦るような声色ではなく、むしろ彼女の大人びた声は不自然なまでに落ち着いている。少女はゆっくりとフードを脱ぎ浅葱色のリボンをカチューシャのように結いている白金色の長い髪を露わにすると、まだあどけなさの残る整った顔の眉間へ少し皺を寄せた。
「何する気だい、嬢ちゃん」
「サンドシャークは私が責任を持つから」
少女はそう言うとマントの下からとても女性が持つとは思えない、幾何学的な紋様が施された円盤が銃の上部に付属した黄金色の大型銃を取り出した。
「その銃は一体……」
突然に少女が取り出したグレネードランチャーにデザインが近い物騒な武器を見て困惑するしわがれた声の商人。だが、彼の戸惑いなどお構いなしに飛翔を終えてどんどん加速しながら落下して来ているサンドシャークに対して、補助グリップをセットし両手持ちとなった銃を構えて少女は狙いを定める。
「……もうアンタを見ても震えたりしないから」
片膝を付き標的の腹部へ銃口を向けた少女が静かに言葉をこぼした。片目を閉じて標的を見据えるその瞳は、同時に彼女の心に映った現実とは別の情景も捉えているようだ。
周囲を覆う影が広がり商人達の悲鳴が交錯する中で、少女は優しく引き金を引いた。
すると、構えていた銃口からは空間を切り裂くかのような衝撃を伴って一筋の光線が放射された。その衝撃は少女の旅装を吹き飛ばし隣に立っていたしわがれた声の商人も踏ん張りきれずに尻もちをつく程の威力。
上空へ向かって放たれた光線は少女の狙い通り横腹へ直撃すると、落下していたサンドシャークを回転させながら弾き飛ばして、そのまま一直線に空を覆う厚い雲までをも射線上から払い飛ばしてしまった。
やがて、光線は徐々に細くなり最後は淡い光の粒子となって大気へと溶け消えた。
目の前で起きた光景を商人たちは信じられないといった目で眺め、何人かの顔を覆うターバンを外していた商人たちはいずれも愕然とした表情で立ち尽くしていた。しかし、彼らもサンドシャークが少し離れた砂漠の上へ轟音を立てて落下したことで我に返る。
しわがれた声の商人は尻もちを付いたまま、大型銃を背中へ背負い直し膝に付いた砂を事もなげに払う少女へ一種の畏怖の感情を感じていた。
「おじさん、大丈夫?」
少女の気遣いに気の抜けた返答を返すしわがれた声の商人だったが、旅装が脱げてしまい私服となった彼女の出で立ちは、余計に彼の思考を混乱させた。
何故なら彼女はその発育の良い胸を砂漠に似つかわないピンク地に白の水玉模様が浮かんだフリル付きの水着で包み、その上からピンク色のミニ丈ジャケットを羽織っていた。その為、健康的な曲線美の腹部は露わとなり、派手な装飾のベルトで締めたベージュのミニスカートは彼女の活発さをより一層強調している。そして極めつけは脚に黒のブーツと赤と白のニーハイソックスを履いており、お世辞にもその格好は砂漠を渡る者の服装とは言い難いものであった。
「嬢ちゃん、アンタ一体……」
「ねえ、『トウト』はもうすぐ?」
「ん?……ああ、あとニキロもないが」
「そう。じゃあ、あとは歩いて行くわ。ここまで送ってくれてありがとう」
少女はそう言って軽く会釈をしたが商人たちは誰一人として言葉を返せないでいる。しばらく少女は頭を下げたまま返事を待っていたが、やがてそれが来ない事を悟ると顔を上げて少しだけ微笑み、商人たちへ背を向けて『トウト』の方角へ歩き出した。
その背後でやっと平常心を取り戻したのか、若い商人が少女の背中へ叫ぶ。
「ヴェラ、そのままの格好で行くのか?」
ヴェラと呼ばれた派手な装いの少女は立ち止まると、振り返って無邪気な笑顔で言った。
「オシャレは女の子の命よ?」
再び言葉を失くす若い商人の横でしわがれた声の商人や数人の男達が笑い声を上げて、砂丘を越えようと歩き出した少女――ヴェラの背中へ力一杯に手を振った。
ヴェラはその事に気付いていたが名残惜しくなる事を避けるために振り返らない。砂丘の頂上を見上げ、踏み込むたびに崩れる砂の足場を慎重に登り始める。
「まあ、耐熱性もある日焼け止めを塗るのはかなりの手間なんだけど……」
ぼやきつつしばらくの間、ヴェラは慎重に小高い砂丘を登り続けた。やがて、彼女が砂丘の頂上へ辿り着きその両目に収めた光景は、巨大な風車付きの防塵壁に囲われた一つの大きな街だった。
「五年ぶり……全く変わってない」
以前訪れた時と全く変わらない街の状態に感嘆の声を漏らしながらヴェラは街へ向けて今度は砂丘を下り始める。
「変わったのは周りの砂漠ね……あの時は、まだ普通の砂だった」
ヴェラは背中に背負っていた黄金色の銃をソリのような要領で器用に使い砂丘を下って行く。
『トウト』周辺に広がる砂漠は数年前までごく一般的な黄色い砂漠であった事をヴェラは知っている。しかし、突然変異した海が徐々に周囲を侵食し五年前に自分の住んでいた村を呑み込み込んで以来、とうとうこの街の近くまでその範囲を広げて来ていたのだ。
皮肉な事に水色の砂漠は黄色い砂漠に対して侵食スピードが極めて遅く、人間がここ数世紀で広げてきてしまった砂漠が今や人類の命綱となっていた。
――――そして今日まで、ヴェラを含め地球上で生きる人類は誰一人として海が水色の砂漠になってしまった原因が解らずにいる。
砂丘を下り終えたヴェラはかつて自分が育った村の事を思い出してしまい、思わず下唇を噛んだ。
五年前、ヴェラは今の目的地である『トウト』で砂漠化防止のプロジェクトを進めていた日本人『ムサシ・ベンケイ』へ、水色砂漠に呑み込まれつつあった自分の村の救助を求めた。ヴェラの必死の言葉に一度は彼女の村へ向かおうとしたベンケイだったのだが、その直後に起こった『トウト』での爆弾事件によって息子が瀕死の重傷を負ってしまい、苦悩の末に息子の為、ヴェラの村を救う事を断念したのだ。
その時の自身の無力さを思い出す度にヴェラは唇を噛まずにはいられない。結局、一人では何も出来ず村はヴェラだけを残して住民諸とも水色砂漠に呑み込まれてしまった。
砂漠に呑み込まれた村を前にして当時のヴェラは涙を流す事も出来なかった。何故ならそれまでに、彼女の涙はすっかり枯れ果ててしまっていたからだ。
自分の村が水色へ呑み込まれる以前から、拡大し続ける砂漠化と地球で或る日前触れもなく生じた突然変異、海が水色の砂漠へ姿を変えた事は、人類を滅ぼしかねない脅威だと世界中の様々なメディアが警鐘を鳴らし続けていた。
だが実際にその光景を目の当たりにしたヴェラの心に湧き上がった感情は、自然の猛威に対する恐怖でも地球に向けての畏敬の念でもなかった。涙を流す事も出来ずただ砂に呑み込まれていく村を眺めていたヴェラの心に産まれた感情とは、ベンケイに対する激しい憎しみと、自らの力で地球の自然を叩き潰してやろうという消し難い復讐の感情であった。
ヴェラは砂漠を歩きながら己の根源を再確認しているうちに、いつの間にか『トウト』の防塵壁の一部に作られた通用門の前に辿り着いていた。通用門はお世辞にも近代的とはいえず急ごしらえ感が否めない外観をしており、門は自動小銃を肩に掛けて軍服によく似た紺の制服を着用している数人の警備兵らしき男達が守っている。
「おい、お前。パスポートを出せ」
門を警備していた頭にバンダナを巻いた一人の男がヴェラの格好へ警戒の色を露骨に示して近寄って来た。男が差し出した手の平へ、腰に付けている焦げ茶色のポーチからパスポートを取り出し手渡すヴェラ。
パスポートを受け取ると男は中を開いて何ページか内容を確認し、無言でパスポートを閉じて警戒の色を緩めないままヴェラへ返す。
「滞在の目的は?」
「自分探し」
「隠し切れない個性を外見から感じるがな」
「裏返しってこともあるでしょ?」
不敵な表情をするヴェラに男は鼻で笑い、彼女の背中に大型銃が背負われている事に気付くと、値踏みするような目で銃を眺めながら指で自分の顎を撫でた。
「その物騒な銃は?」
「骨董品よ。今は古い物が富裕層の若い女性の間で流行ってるの、知らない?」
「いいや、知らない。それにしたって銃を持つか? 普通」
「アナタの頭に巻いてるそのお洒落なバンダナと交換してあげてもいいわよ?」
突然のヴェラの提案に困ったような笑みをバンダナの男は浮かべて背後の通用門を親指で指す。
「どうも」
ヴェラは男の動作に対してお礼の一言と共に、仰々しく手でドレスを持ち上げるフリをしつつ膝まで曲げて会釈をした。
それを見て男は声を出して笑い声を上げる。余程ヴェラの態度がおかしかったらしい。
笑う男に対して薄い笑みを貼り付けたままヴェラが通用門へ向けて歩き出すと、男は急に表情を殺して自動小銃を肩から降ろし彼女の背中へ銃口を静かに向けた。
「……このご時世、個性なんざ探したってどうせ砂に呑み込まれるぞ」
ヴェラに銃口を向けた男は喉を鳴らして引き金にゆっくりと指をかける。
「おい、お前何やってんだよ!」
だが、男の行おうとしている事に気が付いたのか、隣にいた同僚が血相を変えて男の構えた銃を地面へ向けて弾いた。
「ジョークだろ、ジョーク。こんなでっけえ棺桶に突っ込まれてんだ、ユーモアがなきゃ生きてけねえだろ、あァ?」
自分の行動を邪魔された為にヴェラの事は一瞬で忘れてしまったのか、バンダナの男は不機嫌そうに言葉を吐き捨てた。
ヴェラは男が銃口を下げた感覚を肌で感じ取ると、後方で発生した喧騒には目もくれずに門をくぐって街へ足を踏み入れた。
まばらな人通りの門の前から視界の少し先に見えているバラック小屋の密集地帯へ彼女は迷いのない足取りで進んで行く。歩きつつ周囲を見渡したヴェラは近くを歩いている町の人々の活気のなさに驚きを隠し切れなかった。俯きがちな道行く人々の服は古ぼけてくすみ、そして何よりもすれ違う人間全員の目に彼女は生気を感じる事が出来なかった。
五年前までのこの街には文明を砂に呑み込まれ滅亡の危機に人類が瀕していたにも関わらず、絶対に自分達は立ち直る事が出来るという希望があった。しかし、この五年の間に街からは希望の欠片すら根こそぎ奪われてしまったようだ。立ち並ぶバラック小屋の間に出来た坂道を登って行くヴェラには、五年前に人間の生命力の象徴にも見えたバラック小屋が今は人類凋落の象徴にも感じられる。
彼女は堪らずに近くを歩いていた一人の老人の腕を掴んだ。
「いつからこの街はこんな事になったの?」
いきなり腕を掴まれて老人は驚いた顔を見せるがヴェラの言葉に一瞬で表情を曇らせて彼女の腕を乱暴に振り払う。
「ベンケイさん、いや、ベンケイの息子が爆弾テロにあってからだよ。それからベンケイさんは変わっちまったんだ。息子が引きこもりになっちまった所為か、あの人は街を出なくなった。まるで、この街を棺桶にすることを決めたみたいに……」
老人は怒りにも悔しさにも聞こえる感情を道路へ向かって吐き出すと、そのままバラック小屋の中へ消えて行ってしまった。その背中へ何も言葉をかける事が出来ずに老人を見送って、ヴェラは乱れてしまった感情を落ち着けるために一度小さく深呼吸をする。
「落ち着け……私の目的は一つだ」
ヴェラは小さく呟くと坂道を前よりもやや足早に登り始めた。周囲のバラック小屋からは退廃の臭いが常に漂って来ていたが彼女はそれを必死に無視して進み続け、丘の上に建つ小綺麗なビルの入口まで辿り着く。ビルの大きな自動ドアを開けて開放感のある吹き抜けのエントランスへ足を踏み入れるヴェラ。そして、思わずビルと外との大きな格差に彼女は言葉をこぼさずにはいられなかった。
「中と外じゃ一世紀くらい違うじゃない……」
ヴェラはビル内部で働いている迷彩服を着た人々や制服のオフィスガールからの奇異の視線に晒されながらもエントランスを奥へ進み、アナウンスカウンターの前で立ち止まる。
「ベンケイさんと午後から商談予定の者だけど」
内外のギャップに戸惑いを隠し切れないヴェラではあったが、物言いは平然としていた。
「エリツィン様でございますね。お待ちしておりました、壁際にございますエレベーターで二十階へお進みください」
「ありがとう」
受付に座った女性から丁寧に案内を受けたヴェラはエレベーターへ向かうと中へ乗り込んで、二十階ではなく最上階のボタンを押す。ガラス張りのエレベーターはかなりの速度で上昇を始め、彼女の見ていた景色は見る見るうちにミニチュアサイズよりも小さくなっていった。やがて、エレベーターが停止し最上階へ着いたことを知らせる短いチャイムが鳴るとゆっくりドアが両側へ開く。
外へ出ようとしたヴェラだったが出入口の目の前には先程の門の前にいた警備兵と同じ格好をした男が立っており、目が合うと彼は驚いた表情を見せた。
「君、ここはベンケイさんのプライベートスペ――ッ!?」
言葉を言い終える前に素早く男の後ろへ回り込んだヴェラは肉眼では捉えることが出来ないような速さで、男の後頭部を小突く。糸が切れたように倒れた男をヴェラは手慣れた様子でエレベーターへ押し込み、次にポーチから何かシールのようなモノを取り出すとブーツの裏へ貼り付けて、ビル内の廊下を素早く進み始めた。何故かその足取りは初めて来たにも関わらず見知った廊下を歩いているかのように迷いがない。
プライベートスペースということもあり先ほどの遭遇以降誰とも鉢合わせずに廊下を進んで行くヴェラ。しかし突然、廊下を照らしていた天井が光度を失って辺りが薄暗くなる。
「あー……。マズいわね」
ヴェラが苦々しく言葉をこぼした刹那、天井から幾つもの銃器が現れ全ての銃口が彼女へ向けられた。
『――――侵入者へ告ぐ。そこからこれ以上一歩も動くな』
廊下へ何かしらのスピーカーによって音声を流しているのか、雑音の混じった若い男の声がヴェラへ警告の言葉を投げかける。
「そうもいかないのよね、私も仕事でここへ来てるわけだし」
『――――動けば命の保障はない』
「別にいいわよ。誰かに命を保障してもらわないといけない程、私――弱くないから」
言うが早いかヴェラは猛然と廊下を駆け出した。それに反応して天井から現れた銃火器達は発砲を開始するが、ヴェラは腰を低く落とし器用に弾丸を回避して前へと進んで行く。
背中を銃弾に追われる形でヴェラはT字に別れた廊下の曲がり角に辿り着くと、素早くブーツの裏に貼り付けたシールのようなモノを剥がして自分が曲がった道とは逆の方向へ思い切り投げ飛ばした。
すると、銃火器達は投げ飛ばされたシールを追いかけて銃弾の雨を降らし始め、セキュリティの攻撃を逃れたヴェラは涼しい顔をして衣服の乱れを直す。
「…………五年間、この日の為に生きて来た。こんな所で私が失敗するはずがない」
ヴェラは危機を回避した事で身体の内側から湧き起こる自信を強固なものとし、既に目的地を把握しているのか再び廊下を奥へ向かって進み始めた。そして、ヴェラは一つのドアの前に辿り着く。それはこの近未来的デザインのビルには不釣り合いなドアノブ式の木製のドア。ヴェラは立ち止まると躊躇なくドアを開けた。
そして、唖然とした表情で彼女は呟く。
「…………何なのよ、これ」
信じられないという感情を露わにしたヴェラの後ろにはいつの間にか彼女を軽く押し潰してしまいそうな程の巨躯の男が立っていた。さらに尚且つ男はヴェラの片腕を既に背中へ向けて捻じり関節を固めている。
「侵入者には当然の対応だと思うが……」
開けられていたドアが閉まるのを横目で確認しながらベンケイは冷静な声でそう言うと、ヴェラの身体を廊下のガラス壁へ押し付けた。
「息子の部屋に何の用だ?」
「十億、三十億」
質問に対し冷え切った声で短く答えるヴェラ。
「……俺と息子に賭けられた懸賞金か」
「そうよ。アナタは生け捕り、息子は……生死を問わず」
生死を問わずという言葉に思わずベンケイは力んでしまう。その為、関節を固められているヴェラは痛みで身体をよじり顔を後ろへ向けると、憤怒の表情をしたベンケイと目が合ってしまった。
だが、目が合ってしまった事で心に動揺を生じさせたのは意外にもベンケイの方で、彼は思わずヴェラから手を離すと明らかに狼狽えながら数歩後退る。
「赤紫がかった碧眼の瞳……君は」
「お久しぶりです、ベンケイさん。その節はお世話になれず大変残念でした」
ヴェラの煽るような言葉を聞き愕然とした表情でベンケイは動けなくなった。ついさっきまで燃え上がらせていた怒りは一瞬で跡形もなく消え去り、その様子は今のベンケイがどれだけ動揺しているのかを表している。
「自分は出来るって自己暗示掛けた途端にこのザマじゃ、昔みたいに泣き喚きたくもなるわ……全く」
「君は今、殺し屋なのか……?」
完全に気圧されたベンケイが事態を把握しようと務めて冷静な声でヴェラへ尋ねた。
五年前、自分が救えなかった少女が成長して自分達を殺しに現れた。その事実は例えベンケイが英雄と呼ばれる非凡な人間だったとしても動揺を隠し切れない事態であった。
人々の命を守る為に生きて来た人間が命を狙われたのだ、逆に言えばこれほど滑稽な事もない。ベンケイは動揺した脳内でそんな事すら考えていた。
「多少語弊はあるけど、簡単に言えばそうね。正確にはアナタの慈善事業のライバル、『AP保障株式会社』のエージェントって肩書きだけど」
「……AP保障」
会社名を聞いた瞬間にベンケイは奥歯を噛み締めて眉間へ皺を集中させた。その反応にヴェラは調子付いて言葉を続ける。
「社長とは旧知の仲なんでしょ? ここへ来る前に散々昔話を聞かされたから」
「ああ、かつての友だ…………今は、誰よりも殺したい男だが」
ベンケイの吐き出した言葉の重みが一瞬でヴェラの気勢を削ぎ、彼女は思わず唾を呑み込んだ。最も殺したい男だと語る前と後でベンケイが纏う雰囲気を豹変させていたからだ。
まるで直前までの動揺が殺されてしまったかのように、近付く者全てを殴り殺してしまいそうな程の空気がベンケイの周囲を漂っていた。
「君は……一つ、大きな勘違いをしている」
落ち着いた静かな口調のベンケイに今度はヴェラが気圧された。
「何、急に……。今更釈明でもするつもり?」
「五年前の爆発事件、首謀者は『AP保障』の人間だ」
ベンケイの発した言葉の意味を理解した瞬間、ヴェラはスカートの中から大型銃とは違う、黄金色の拳銃を素早く取り出して片手で構える。
「もっと、マシなことを言うと思ってたのに……がっかり」
冷たい温度で言葉を放ち銃口をベンケイの額へ向けるヴェラも、表情を殺して冷え切った瞳を対峙する相手へ向けていた。
「この期に及んでそんな幼稚なウソが通じるとでも思ったの?」
「君にも心当たりがあるはずだ」
「ない。ベンケイさん、私は今、アナタへの復讐を遂げる為にここにいるの。命乞いをするならもっとマシな――」
「実行者はケイ・ジェラード。首謀者はアーサー・クラウチ」
ヴェラの言葉を遮り極めて真剣な顔付きでそう言ったベンケイに彼女は一瞬呆気に取られたが、少しだけ頬を緩ませて笑みを見せると突き付けていた銃口を額からベンケイの片脚へ向けて躊躇いなく引き金を引いた。
驚くべき事に銃口から放たれたのは金属の銃弾ではなく、銃弾と同じ大きさをした光の弾丸。撃ち放たれた光弾はベンケイの右太腿を貫き廊下を抉って小さな爆発を起こした。
「ぐっ――――!」
信じがたい激痛に思わず呻き声を上げてベンケイは片膝を付いてしまう。しかし、彼は歯を食いしばって痛みを堪え同じ目線の高さとなったヴェラの瞳を見据えた。
銃口を突き付け冷淡な表情をしたヴェラの瞳にはいつの間にか燃えるような怒りが張り付いていた。
「二人共、全てを失って途方に暮れていた私を助けてくれた。特にケイさんは、沈んでいく村を呆然と眺めていた私を救ってくれた人。お前如きが二人を否定するな」
「だが、息子はケイの車に乗っていた。そして、ケイはその爆発以後俺の前に一度も姿を見せていない」
「爆発事件直前にケイさんはアナタと対立してた。それは私も当時見ていたからぼんやりとだけど覚えてる。それで、事件直後にアナタと決裂して街を後にしたと言ってたわ」
ヴェラの反論に埒が明かないと判断したベンケイは銃傷を物ともせずにゆっくりと立ち上がる。平然と立ち上がるベンケイの気丈さにヴェラは目を大きく見開いて一歩後ろへと無意識に後退ってしまった。
「話の食い違いはどうでもいい。君がケイの言ったことを信じるのも分かっている。だが、一つ聞きたい。君に差し伸べられたケイの手はちゃんと汚れていたか?」
「そんなの、汚れてるわけ――――」
そこでヴェラは言葉に詰まった。当時、沈んだ村の側で絶望に立ち尽くしていた自分に差し伸べられたケイの手は、文字通り砂汚れ一つなかった気がした。
希望を失ってどん底の状態にいた自分へ差し出された救いの手だったために、その光景をヴェラは今でも鮮明に覚えている。そしてそれは、ケイの言葉を信じるヴェラの中で或る大きな矛盾を生んだ。
「奴の言う事が本当なら、爆発当時ケイは誰よりも先に俺の息子を助けようとしたはずだ。息子は自力で上半身は車の外へ投げ出していたが、下半身はひしゃげた車体へ巻き込まれたままだった。その時、君ならどうする?」
ヴェラはベンケイの問いに答える事が出来なかった。
「……俺なら、手の平を焼け爛れさせても息子を車外へ引き摺りだそうとしただろう」
ベンケイの言葉は勿論憶測の域を出ない。だが、今まで無条件にケイを信じてきたヴェラの心に猜疑の芽を産み出すには充分な内容であった。
銃を持ったヴェラの手が、微かに震え出した――――そんな事はない、あり得ない。自分をこの五年間育ててくれていたケイがそんな非情な事をするはずがない。
「君からしてみればあくまで俺の主観による推測に過ぎないだろう。だが、このままでは君は真実を知った時に自分を殺すことになる」
「だから、今ここでアナタを見逃せって言うの?」
ヴェラの問いにベンケイは首を横に振った。
「いや。君に……俺の息子を頼みたい」
「……息子?」
意外過ぎるベンケイの提案に訝しげな表情を浮かべるヴェラ。そんな彼女へベンケイはポケットから古びた鍵を一つ取り出して、戸惑うヴェラに差し出した。
「息子と二人で世界を救って欲しい」
「気でも狂ってるの? 自分へ銃を向ける人間に向かって、息子を預けるから二人で世界を救えって……頭がおかしいとしか思えないわよ?」
「俺がさっき君へ伝えた可能性の話がウソだと解ったら、その時点で息子を裏切って構わない。だがそれまでは、息子を襲う全ての脅威から息子を守ってほしい……勿論『AP保障』からも」
次はヴェラが首を横に振る番だった。一方的なベンケイの言葉に対して付き合いきれないといった顔で彼女は二、三度首を振る。
「話にならないわ。そもそも、世界を救うって一体どうやって救うのよ? その古ぼけた鍵が世界を救う鍵だなんて言い出さないわよね?」
「その通りだ」
自分で言っておきながら予測した通りの答えを返されてヴェラは唖然として言葉を失くしてしまう。そんな彼女の様子にベンケイは少しも動じなかった。
「この鍵は、ムサシ家によって代々受け継がれてきたロストテクノロジーが安置されている遺跡の鍵だ。そこには、この地球を覆い尽くそうとしている水色の砂を、水と塩と黄色い砂へ分解出来る機械がある。ロストテクノロジーについては君もよく知っているだろう。何せ、君が構えているエネルギー弾を放つその銃も、現代科学では創ることが出来ない代物だからな」
言いながらベンケイは傍にある窓のディスプレイモードを起動し、ガラス面いっぱいに大きさが小型トラクター程の錆色をした四輪の機械を映し出す。映像を見たヴェラは機械の珍妙な見た目に、先程の表情に加えてさらに頭上へ疑問符を浮かべた。
まず画像を見るにこの機械のどちらが前でどちらが後ろなのかは判別できないが、片側に覗き窓付きの大きな球体が付属している。そして、側部からは三本指アームが飛び出し機械の上部には本体と何本ものパイプで繋がれた弾頭型の筒が二つ設置されていた。
「地球の二割が黄色い砂に呑み込まれるまでに数世紀、そして、地球の七割が水色の砂に呑み込まれるまでが僅か十数年の出来事だ。この事から考えて、あと何十年も経たずに地球全体が水色の砂に覆われてしまうだろう。それを防ぐ為にはこの機械が必要だ」
まだ表情を崩さないままでいたヴェラはベンケイの語る言葉によって心の中で当然の疑問が生まれていた。ヴェラは自分がバカにされているのではないかとさえ、今までの説明を聞いていて思うに至ったが、それについてはあえて触れずに極めてシンプルな質問をベンケイへ投げかける。
「だったら、どうして今までそれを回収しに行かなかったの」
ヴェラとしては確信を突いた疑問だったはずだがベンケイはその問いを予測していたようで平然と動じずに平然としていた。
「回収へ向かう直前に息子が死にかけたからだ。その後の事はむしろ君達の方が詳しいだろう」
「うんざりするくらい無差別妨害工作に遭ってたんでしょ?」
「俺と息子以外、この機械の存在は知らない。だからこそ、『AP保障』や人類救済をビジネスとして行う連中には、この機械を絶対に渡すわけにはいかないんだ」
「……仮にその話が本当だったとして、どうして私へ?」
ベンケイはそこで初めて、少しだけ弱々しさを微かに表情へ滲ませた。
「贖罪を、したかったからだ。勝手だとは思うが……あの時に救う事が出来なかった君と、危険に巻き込んでしまった自らの息子に。俺は二人に、この世界の英雄になってもらいたい」
依然としてヴェラは銃口をベンケイへ向け、ベンケイは古びた鍵をヴェラへ差し出したままでいる。ヴェラは直ぐに答えを返さなかった。
幼少時にベンケイから見捨てられて以来、ヴェラは彼へ復讐する為に生きて来た。だが、ベンケイがヴェラを見捨てなければならない理由を作り出したのが『AP保障』の人間だったとすると、彼女は今まで憎むべき仇によって育てられてきた事になる。
本来ならば迷うことなどなかったはずなのだが、ベンケイの仮説と息子を自分へ託すと言ったウソを付いているならば到底出来ない提案に、ヴェラの心は激しく揺れていた。
「よく考えてくれ。時間はあまりないが……君の未来を決める選択だ」
警戒を解かないまま悩むヴェラをベンケイは落ち着いた様子で待ち続けた。
「…………ウソだと解った時点で息子の命はないから」
やがてヴェラは誘拐犯のような言葉を吐き捨てるように言って拳銃を下げ、ベンケイが差し出していた古ぼけた鍵を握った。
「恩に着る」
「勘違いしないで、私は五年前の真実を知りたいだけ。このロストテクノロジーを捜しに行けば、答えが自分から寄ってくるって事でしょ?」
極論、ヴェラはケイへ連絡すれば直ぐに事の真意を確かめることも出来た。だがそうしなかったのは、一抹の不安がヴェラの胸の中に存在していたからだ。
――――ケイさんには、直接会って話を聞こう。それならきっと私の求める真実を彼は教えてくれるはずだ。そしてこの鍵と情報を渡せばきっとケイさんは喜んでくれる。
ヴェラの問いかけにベンケイは肯定の頷きを見せて窓のディスプレイを消すと、閉まっていた息子の部屋のドアをもう一度開けた。すると、部屋の中からはパソコンの排気音と何かを咀嚼する音が廊下まで漏れ聞こえてくる。
「今、息子を紹介する」
ヴェラがベンケイの後ろから薄暗い室内を覗き見ると、四角い部屋の一角に置かれたデスク上のパソコンに向かいながら、二人へ背を向けてデスクチェアに座り何種類ものスナック菓子を食べている長い黒髪の少年の姿が目に入った。
「おはよう、バンタ」
「おはよう、父さん」
「今、少しいいか?」
「出来れば後がいいかな、さっき露呈したこのビルのザルセキュリティを今の内に直しちゃいたいんだ」
生気を失ったようなバンタの淡々とした言葉は廊下でヴェラへ向けて警告を発した若い声と非常に似ていた。
「それは後でいい。それより、お前がもう一度英雄になる時がきた」
ベンケイの突拍子もない宣言にバンタはキーボードを叩いていた指を止めてデスクチェアの背もたれに寄りかかると、深くため息をつく。
「嫌だ」
明確な息子の拒否発言に、予測していたとはいえベンケイは困ったように片手で頭を掻いた。
「昔はお前も、俺と一緒に街の人々を救おうとしてくれていたじゃないか。確かにお前は死にかけた。だが、下半身不随が何だ。一度の挫折が何だというのだ。もう一度皆の為に立ち上がってくれ。な? バンタ、頼む」
最初は毅然とした声だったが話し続けるにつれてベンケイの声色は段々と懇願するような調子に変わっていった。
父親からの呼びかけにバンタは椅子を回転させ、初めて二人がいる部屋の入口へと身体を向ける。振り向いたバンタの肌の白さにヴェラは驚かざるを得なかった。恐らく、何年もこの部屋から出ていないのだろう。
バンタの身に着けた白の襟付き長袖シャツと肌の色がヴェラには殆ど変わらないように見える。履いている黒のスキニーパンツの色と肩甲骨まで届く黒髪もほぼ同じ色をしているのだから驚きだ。
ヴェラの驚愕をよそにゆったりとデスクチェアから立ち上がるバンタ。
「下半身不随ってさっき……というか、そうじゃなくて、まず、何て言ったらいいか」
「補助用のボディースーツを着せてある。一般生活には何ら支障はない」
ベンケイの返答にすっきりしない表情のヴェラであったがその間にバンタがベンケイの目の前まで、怪我の後遺症があるなどとは微塵も感じさせない足取りで近付いて来たためにヴェラは言葉を呑み込む。見上げる形でベンケイを睨み付けたバンタの様子を彼女は見守ることにした。
「世界を救おうっていう崇高な志を持ったムサシ・バンタはあの時の爆発で死んだんだ。ここにいる僕はいわば燃え滓みたいなもの。今だって、父さんが襲われてるのに僕はそれを黙って見てた。それに、皆って誰さ? 街の連中が再起を待っているのは僕じゃない、父さん……アンタだよ」
やや感情を露わにして吐き捨てたバンタに力なく項垂れてしまうベンケイ。そんな二人の光景を見てヴェラは『トウト』が希望を失ってしまった理由を悟った。
「それに僕は回復してから今まで、このビルのセキュリティや人員、武器の管理、裏での仕事で父さん達をサポートしてきたじゃないか。これ以上この僕に何を望むっていうんだよ? 僕は……父さんとは違うんだ」
最後は自嘲気味に笑いバンタは踵を返してパソコンの前へ戻ろうとする。しかし、バンタは不意に強烈な力で肩を掴まれて驚きながら後ろを振り返った。
するとそこには、項垂れていた顔を上げて何かを決心した目のベンケイの顔。
「もしお前が彼女と旅へ出ないと言うなら、俺はお前と親子の縁を切る」
ベンケイが見せた覚悟にバンタは直ぐに言葉を返すことが出来なかった。
ただの脅しであるなら一言で反撃出来てしまうだろうとバンタは考えていたのだが、彼が口を開こうとした直前。
彼は自分の視界の端に小さく震える父親の大きな拳が見えてしまったのだ。
ベンケイは本気で返答次第では親子の縁を切ろうとしている。それがはっきりと見えてしまい、バンタの心の中には爆発で死にかけて以来長い間感じる事がなかった心の葛藤が生まれていた。
正直な所、世界救済に燃えていた幼少期のバンタの心は瀕死の重傷を負って以来、本当に折れてしまっていた。しかし、それ以外に自分の新たな生き甲斐を見つけることも出来ず、今日まで何の目的もなくただ生きて来た。そして、それを父親のベンケイも良しとして来たのだ。
親子共々、心へ深い傷を抱えたままで癒やすことが出来ずにいたのである。
ただ、今日。とうとうベンケイがその傷を乗り越えようと一線を越える覚悟を決めた。
その覚悟を目の当たりにしてバンタの心は激しく揺らぐ。
一度折れてしまった心を、志を、あの時よりも衰えてしまった身体と意思でもう一度取り戻す事は可能なのだろうか。
「お願いだ、バンタ。頼む」
とうとうベンケイはなりふり構わずに息子へ向かって頭を下げた。しかも、ヴェラという他人がいる目の前で。
「…………分かった。父さんがそこまで言うなら」
「バンタ!」
父親の熱意に負けてバンタは俯きながらも条件を呑んだ。彼の返答にベンケイは頭を勢い良く上げて、感極まった表情で震えていた拳を強く握り直す。
バンタは結局、心に湧き起こった葛藤の結論を出すことは出来なかったが、一先ずは父親の為に部屋から出て行くことを決断した。
一時は英雄として扱われていた人間が息子へ向かってここまで必死になって懇願したのだ、バンタとしてはその悲哀に対しての罪悪感も多少あり父親の願いを拒絶し切る事は出来なかった。
ただ、バンタの了承は決して前向きなものではなく一度外へ出れば途中で諦めて帰って来たとしても、父親はきっと迎え入れてくれるだろうという打算的な考えの下であった。
表面的ながらも親子の絆が復活する瞬間に立ち会うことになったヴェラ。だがそれよりも、彼女はこの薄暗さでも分かるほどのバンタの病的な肌の白さに、二人の会話が途切れたのを見計らって直接バンタを問いたださずにはいられなかった。
「死にかけてから一度も部屋を出てないの?」
「ああ、一度も」
「それで、生きてるって思えた?」
「少なくとも死んでるとは思わなかったな」
「死んでるとは、ね……」
目線を逸らしてヴェラは言葉の意味を噛みしめた。ヴェラが何事か思案に沈んでいる間にベンケイは窓にかけられていたカーテンを開けると、再びディスプレイモードを起動し室内の大きな窓へ大部分が水色に染まった世界地図を表示する。
地図の裏側に広がる景色はいつの間にか夜を迎えていた。
「二人には『トウト』から南西へ五百九十四キロ進んだ『ナンバ遺跡』へ向かってもらう」
説明を始めたベンケイの口調はいつもの威厳を感じる声色へ既に戻っている。ヴェラは何故かその事にホッとしていた。
「計画は極めてシンプルで、遺跡内に安置されたロストテクノロジーを回収次第、二人がまたここへ帰ってくれば計画は完了だ。本当ならば俺自らが回収に行くのがいいのだろうが、今の状況でこの街を離れるわけにはいかない。それに俺は、二人に英雄になってもらいたいんだ」
「父さん、率直に聞くけど、本当にロストテクノロジーは存在するの? 僕はこの目で一度も見たことがないから」
いつの間にかスナック菓子を手にしている息子の疑問に対して答えの代わりとばかりに、ヴェラへ視線を向けるベンケイ。
すると、彼女はその視線に答えてスカートの中から黄金色の拳銃を取り出した。
「彼女の銃は実弾ではなくエネルギー弾を銃弾として発射する。これは現代の技術では確立されていない、れっきとしたロストテクノロジーだ」
半信半疑の面持ちで眠そうな目を拳銃へ向けるバンタに、ヴェラはついでに身体を捻って背負っていた大型銃も見せる。
「こっちはもっと威力がある。この大型銃が『ソドム』で、この拳銃は『ゴモラ』って私は呼んでる」
「銃に名前を付けてるの?」
バンタの疑問に「何か問題でも?」といった表情で答えるヴェラ。
二人の様子にベンケイは次に話を進めようと口を開きかけたが、不意に窓ガラスに何かが当たったような音が聞こえて三人は同時に音がした方向へ視線を移した。すると窓には、瓶蓋サイズの円形の何かが粘土のようなモノで一つ張り付いていた。
「伏せろ――ッ!」
ベンケイが叫ぶと同時にヴェラとバンタも床へ飛ぶように伏せる。それに少し遅れる形で大きなガラスの砕け散る音が室内へ響き渡った。
粉々の破片が床に飛び散り、窓を失った部屋の中には強風が吹き荒れる。
そして、冷え切った荒い風と共に黒髪をオールバックに固めて理知的な銀縁メガネをかけた一人の男が、中身を失った窓枠を跨いで三人の前に姿を現した。
「…………ケイ、貴様」
白い戦闘服で身を包んだ不遜な態度のケイを視界へ捉えた瞬間、ベンケイは怒りを露わにしてケイを睨み付けて素早く床から立ち上がる。
「お久しぶりです、隊長」
「お前に隊長と呼ばれる筋合いはない!」
額へ青筋を浮かべて怒りを爆発させるベンケイを目の前にしても、ケイは極めて冷静だった。
周囲の様子を見渡して自分を見上げているヴェラの姿を見つけると、彼女へ向かって優しく微笑む。
「無事で良かった、やはり一人では無理だと私は思っていたんです。ですが、足を一本潰したのは上出来ですよ」
ケイに指摘されるまでヴェラは自分がベンケイの片足を撃ち抜いていた事実を、その後のベンケイがあまりにも平然としていた為にすっかり忘れていた。
「ケイさん……一つだけ質問に答えてくれる?」
「随分と突然ですね、何でしょうか?」
ヴェラの言葉に薄い笑みを浮かべてケイが聞き返す。
予想していたよりも遥かに早い突然の再会にヴェラは戸惑いを隠し切れなかったが、彼女は意を決して喉を震わした。
一言、ケイが質問に「いいえ」とさえ答えてくれれば迷いなく再びベンケイへ銃口を向けるつもりで。
「……五年前の爆発事件を起こしたのはケイさん?」
「はい」
「…………え?」
あまりにもケイが平然と答えた為に少しの間ヴェラの脳は言葉の意味を理解する事が出来なかった。理解しても尚、心はその答えを呑み込む事を拒否する。
「冗談、よね……?」
「冗談ではありません。あの日、バンタさんの乗った車へ爆弾を仕掛けたのは私ですよ。ね? バンタさん」
まるで今日起こったなんて事のない出来事を説明するかのような口調でケイは、床へ伏せて身を縮め散乱したスナック菓子と共に小さく震えているバンタへ同意を求めた。
「ケイ――――ッ!」
堪え切れなくなりとうとうベンケイが吠える。そして、それと同時に拳を振り被ってケイへ迫るが、ケイは表情を変えないまま床と平行になるまで上半身を反らすと、振り抜かれたベンケイの拳を軽々と回避する。
「気丈に振舞っていても負傷の影響は隠し切れませんね」
反らした上半身を元に戻す勢いに合わせてケイは身体を捻り左腕を垂直に伸ばした。速度の乗った左腕はケイの上を通過したばかりのベンケイの後頭部へ直撃し、ラリアットの衝撃を何処へも逃すことが出来ず直撃を受けてしまったベンケイは、吐息を漏らす暇さえ与えられずにガラスの破片が散らばった床へと叩き付けられる。
「父さん!」
室内を揺らすほどの轟音を立てて倒されたベンケイへ、縮こまり怯えていたバンタが叫んだ。今すぐに父親の元へ駆け寄りたいバンタだが、恐怖が全身を駆け巡り身体が震えて思うように力が入らない。
そんな彼の様子を見てケイは不敵に笑う。
「さて、きっと昔のバンタさんでしたら、もう既に私へ向かって飛び掛かって来ていた筈ですが……今のバンタさんはどうするおつもりですか?」
試すようなケイの言動にバンタの手足がぎこちないながらも動いた。バンタは殆ど這うような姿勢でなるべくケイから遠ざかろうと部屋の隅へ逃げ出していく。
「そうじゃないですよ……違いますよバンタさん!」
失望と激高を同時に言葉へ乗せてケイが両腕を芝居がかった動作で左右へ広げた。
バンタはケイの声に身体をビクつかせ、何とか彼から逃げようと無様に這いつくばってデスクの下へと逃げ込む。
「僕はもう、父さんや、ケイが思う僕じゃないんだ……怖い。僕を……僕を殺したのは、ケイじゃないか!」
デスク下から聞こえる震え混じりの叫びに、バンタに近付こうと歩を進めていたケイがその動きを止めた。
ケイの表情には喜怒哀楽の全てが一度に表出してしまったかのような乱れが貼り付いていて、恐る恐るデスク下からケイの顔を見やったバンタは、その顔を見てしまった瞬間に言い知れぬ寒気を背筋へ感じてしまった。
しかし、バンタにとってケイが動きを止めている事は逃げる為の絶好の機会。バンタはこの機を逃さずに何とかベンケイを引き摺ってこの部屋から脱出することは出来ないか思案を巡らそうとしたが、そもそも手足に力が入らない状態が微塵も回復の兆しが見えず、彼は絶望的な面持ちで唇を噛んだ。
――――情けない。
今の自分の無様な状態を顧みて真っ先にそんな感情がバンタには浮かんできていた。
ただ同時に、仕方がないじゃないか。という、諦めの感情も彼の中には生まれてきていた。
――――期待を背負って期待に答えようといつも努力をして来た。
だがその努力が抗うことの出来ない暴力によって一瞬で無に帰してしまう事を知ってしまった少年は、瀕死の重傷から意識を取り戻した時に命さえも同じことなのだと理解してしまった。
その日から少年は、全てが怖くなった。部屋を出たら誰かが自分を狙っているかもしれない。迂闊に外へ出てしまったらどんな暴力が自分を待ち受けているか解らない。
――――なら、いつまでもここにいてこの部屋の中で生きていこう。退屈かもしれないけど、あんな怖い目に遭ったり死の恐怖を隣に感じるよりはよっぽどいい。
そんな思いを医師からの下半身不随の告知が後押しをした。
「本当に……ただの腰抜けに成り下がってしまったんですね」
不意に、暗い思考の海へ浸っていたバンタの頭上へ温度のない声が吐き捨てられた。
顔面に冷水を浴びせられたかのように現実へ引き戻されるバンタ。小刻みに震えながら上を見上げると、そこには銀縁メガネの奥で暗い闇を湛えたケイの双眸が自分を見下ろしていた。
「あ…ああ、あ……」
「安心してください。今度こそ、私が責任を持ってしっかりと殺してあげますから」
無慈悲な言葉と共に震えて動けないバンタの首へ、ケイの両腕がゆっくりと伸びていく。
ただし、その行為は唐突にケイの鼻先へ姿を見せたヴェラの踵によって遮られる事となった。
「――――ッ!」
ベンケイの拳を避けた時と同様に上半身を反らすだけでケイはヴェラの繰り出した回し蹴りを難なく避けてしまう。
「ヴェラさん、どういうつもりでしょうか?」
心底不思議そうな表情でヴェラを見るケイに、彼女は拳銃『ゴモラ』を向けた。
「これ以上、私の尊敬するケイさんを汚さないで」
あまりにも平然と、砂で作られた城をたやすく崩すかのように信頼関係と思い出を壊されたヴェラは、しばらく息をする事すら忘れていた気がした。
しかし、その間にも彼女の目の前では自らの育ての恩人が着々と標的を追い詰めており、同じ空間で動き話すケイが正真正銘の本物である事は、もはや疑いの余地がなかった。
そして、自分の恩人は今まさにヴェラ自身が今まで恨んできた人間をまとめて殺そうとしている。
気付けば自然にヴェラの身体は動き出していた。
「おかしな事を言いますね。私はいつでも変わらずにケイ・ジェラードで在り続けていますが……」
小首を傾げて言うケイにヴェラはそれ以降何も言わなかった。
こうなってしまった以上、ベンケイとバンタを連れてここから脱出するか、或いはケイを戦闘不能状態にするしかこの場を切り抜ける方法は存在しない。
ヴェラは動きを見せないケイに警戒しながら周囲へ視線を向ける。すると、倒れ伏していたベンケイが顔を上げてこちらを見ていた。
「…………頼む。バンタを連れてここから逃げてくれ」
壊れた笛の音のような息が混じった声でベンケイが床に倒れたままで言う。
「これで、信じてもらえたはずだ……あとを、息子を、頼む」
「まさか、彼女に向かって言っているのですか? それは無茶というものですよ」
片手の手の平で自分のおでこへ触れながらケイが小さく笑った。
ケイはそのまま床へ倒れたベンケイの横腹を蹴りあげ、呻き声を上げるベンケイを仰向けに転がす。
「バンタさんの成長を六年間見守って、隊長の元を離れてからさらに五年が経ちました。その最期が、こんな惨めなものだなんて、悲しすぎると思いませんか?」
「…………俺を隊長と、呼ぶんじゃない」
ベンケイの返答に満足そうな笑みを浮かべるケイ。だが、不意に視界の端で閃光を感じ取った彼は瞬時に身を翻した。
「…………本気で『AP保障』を裏切るつもりですか?」
光弾を発砲した『ゴモラ』を両手で構えて瞳に今にも溢れそうなほどの涙を溜めたヴェラが、引き金にかけた指へもう一度力を込める。
「一瞬で裏切られる事もあるって分かってたはずなのに、うぶな女の子みたいに、まだ心の何処かでケイさんはこんなことが出来る人じゃないって信じてる自分がいるなんて……本当、バカみたい」
「出来ないのではなく、アナタの前ではしなかったのです」
会話の間に放たれた二発目の光弾も難なく躱し、ケイは銀縁メガネの奥にある無機質な瞳で真っ直ぐにヴェラを見つめる。
目を合わせてしまった者を震え上がらすような感情のない双眸にヴェラは無意識に背筋へ悪寒が走るのを感じた。だが、歯を食いしばって再び引き金にかけた指へ意識を集中させる。
「出来れば、怪我もさせたくない……だから、大人しく――――」
こういった状況ではもはやお決まりとなったセリフをケイへと投げかけ始めたヴェラだったが、その言葉の途中で彼女はいつの間にか天井を見上げていた。
「えっ……?」
何が起きたのかを自覚する前に、まずヴェラの背中を床へ叩き付けられた事による激しい痛みが襲った。彼女は背中の激痛に小さく悲鳴を上げながらやっと自分がケイによって瞬時に床へ倒されていた事を理解する。
「弊社へ盾突く者は誰であろうと容赦する事が出来ません。何故ならそれが、我が『AP保障』の方針ですから」
霞む視力で天井を捉えていたヴェラの視界にケイの靴底が映る。どうやらケイはこのままヴェラの顔を踏み抜くつもりのようだが、背中を強打したヴェラはまともに息を吸うことすら出来ず、横たわったまま動く事が出来ない。
ついさっきまで仲間だったヴェラの顔を何ら躊躇いなくケイが足を踏み抜こうとした瞬間、ケイは自分が立っている為に不可欠なもう片方の足でさえ、宙へ浮いていることに気が付いた。
「あれだけ痛め付けたというのに、まだ動けるなんて腐っても英雄という事でしょうか?」
「ウオオオオオオオアアアアアァァァァァ――ッ!」
ケイの胴体を背中から両腕で抱えたベンケイは、事態に気付いてもがくケイを決して離さずに両腕で身体を締め付けたまま雄叫びを上げて一気に仰け反る。
鈍い音を立てて床へ頭部を叩き付けられたケイはベンケイの両腕に締め付けられたままで、力なく四肢を弛緩させて動かなくなった。
少しずつ息が吸えるようになって来たヴェラは未だにデスクの下で縮こまって震えているバンタへ視線を向けた後に、ジャーマン・スープレックスの体勢のままで動かないベンケイへ立ち上がって駆け寄ろうとする。
「俺に構うな! コイツの部下がまだビル内にうじゃうじゃいるはずだ、地下駐車場に車が何台か止まっている。バンタを連れて今直ぐ出発しろ!」
伸びてしまっているケイを床へ放おって立ち上がったベンケイは強い調子でヴェラの行動を制止した。
「で、でも……」
狼狽えるヴェラにベンケイは優しい声色で言う。
「息子と、世界の命運を頼む」
ベンケイの言葉に覚悟を決めたようにヴェラは頷くと弾き飛ばされていた『ゴモラ』を拾ってバンタへ駆け寄る。震えている彼に肩を貸して立ち上がらせヴェラたちは部屋の外へと歩き出した。
「……最後に、今まで一度も聞いた事がなかった君の名前を教えてくれるか?」
「ヴェラです。ヴェラ・エリツィン」
「父さん、僕、僕……」
二人の会話を聞いて不安げな表情で室内へ振り返るバンタ。彼の今にも泣き出してしまいそうな顔へ、ベンケイは叫んだ。
「バンタ! お前なら大丈夫だ、必ず英雄になれる!」
ベンケイの声に押されて二人は部屋を後にした。
そして、二人の足音が聞こえなくなった頃に弛緩し床へ投げ出されていたケイの四肢がピクリと動いたかと思うと、愉快で堪らないといった笑い声が室内中へ響き渡る。
「英雄から世界の命運を託された二人の男女が、冒険へと旅立って行く。一本映画が創れそうですね?」
「お前……わざと二人を逃したな? おかげで、息子達に別れの言葉を言えたが」
「……どうせ、すぐ同じ場所へ行く事になりますよ」
挑発するケイの言葉にベンケイは身構えようとするが、思いがけずヴェラによって撃ち抜かれた片足に痛みが走り、体勢を崩してしまった。
その隙を見逃さずにベンケイへ肉薄したケイは容赦なくベンケイの負傷した足へ蹴りを加える。
「がっぁ――!」
痛みによろめいて膝を付き、頭を垂れるような体勢になってしまったベンケイの頭上へケイが楽しそうに言った。
「隊長、良い事を教えてあげましょう。英雄がその真価を問われることになるのは――死んだ後の事です」
※
何十階分かの階段を一気に下ってヴェラとバンタはビルの最下層へ息を荒げながら辿り着く。
初めはエレベーターへ向かった二人だったが既にエレベーター前はケイの部下によって占拠されており、やむをえず階段を降って来ていた。
ドアを蹴破って二人が地下駐車場へ走りこむと、そこには広々とした空間に何台かの車がまばらに停車していた。
ヴェラは適当に停車しているうちのどれかに乗り込もうと車へ小走りで向かったが、突然バンタが震えながら自分の両肩を抱き締めて顔面を蒼白にし、その場へ座り込んでしまう。
「……どうしたの?」
「車だけはダメなんだ」
「何言ってるの、早くしないと」
「僕は死にかけた時、車に乗ってたんだ!」
それっきり身体を震わすだけで俯き動かなくなってしまったバンタを見て、ヴェラは直ぐに頭を切り替えると駐車場内を走り回った。そして、駐車場を支える大きな柱の影に止まっていた、うっすらと埃の積りが見える車高の高い五人乗りのオープンカータイプ車を見つけ、ヴェラは運転席へ飛び乗る。
車は車内に埃の積りはなかった。もしかしたら直前まで天井を張った状態が維持されていたのかもしれないとヴェラが考えながらエンジンボタンを押すと、奇跡的に一度で車のエンジン音が駐車場内へ鳴り響く。
その音を聞いてバンタが泣き顔を上げると目の前には蛍光色の黄色い車へ乗ったヴェラの姿があった。
「この車ならどう?」
「あ、ああ、これなら……」
弱々しい手付きで助手席のドアを開けて車へバンタは乗り込む。彼が座席へ座った事を確認してヴェラは一気にアクセルを踏み込んだ。
タイヤがアスファルトと擦れる甲高い音を駐車場中に響かせて車は急発進し、かなりの速度で出口へ向かって行く。
地上へ出る為の坂を一気に登り出口へ設置された安全バーをへし折って、ヴェラ達は一瞬車体を宙へ浮かしながら屋外へと飛び出した。
そして、その直後。車の通った直ぐ後ろの地面へ柔らかく着地するケイの姿がバックミラーへ映り込む。
二人はバックミラー越しに写るケイの不敵な笑みに背筋が寒くなる感覚を感じずにはいられなかったが、ヴェラは車の速度を少しも落とさずに走り抜け蛍光色のスポーツカーはバラック小屋の間に出来た夜の道へと消えて行った。
逃走する車を見送ってケイが遠くにも近くにも存在する闇へ小さく語りかける。
「どこまで文明が進化しようと、滅びかけようとも……人間は争いをやめられない。だから、私は私に出来る事をする。私の信念に従って」
ケイの背後ではビル内で警報が鳴り響き始めていた。逃走した二人を追って次々と地下駐車場から現れた4WD車がケイの横を通り過ぎては夜の道へと消えて行く。
しかし、そんな事は一切気にしていないといった表情で、ケイは視線を車が何台も消えて行った目の前に横たわる暗い道路へ戻すと、メガネの位置を中指で直してゆっくりと闇の中へ溶けるように消えて行った。
2
高層ビル最上階のオフィス。開放的なデザインの室内でデスク後方一面に張られたガラス窓から、途方もなく広がった黄色い砂漠を見つめて一人の男が葉巻を燻らせていた。
年齢を計りかねてしまうような中性的な顔立ちのこの男は、短い金髪をツンツンに整髪剤によって逆立て、両耳には碧眼の瞳と対照的な真紅の宝石がはめ込まれたピアスを付けて純白のスーツに身を包んでいる。
金髪の男が口から葉巻を離して煙を吐き出すと、突然、オフィス内へアラーム音が響き渡った。そしてデスク上には人型のホログラムが立体表示される。
鼻からも煙を吐き出しながら金髪の男が窓から振り返ると、そこに映し出されていたのは緩く敬礼をするケイ。
《……アーサー社長、お疲れ様です》
「おお、それでどうだったの?」
アーサーと呼ばれたその男は表出されたホログラムがケイだと解った瞬間にデスクへ置かれていた灰皿に葉巻を置いて、楽しそうに高級オフィスチェアへ腰をかける。
アーサー・クラウチ十世。『AP保障』の社長である彼への世間の評価は概ね一つの言葉に集約される。人々はアーサーをこう評した。
――――彼は、『残虐な子供』であると。最も、矢面に立ってアーサーの事をそう呼んだテレビのコラムニストは程なく行方不明となった為に、表立って彼の事をその名前で呼ぶ人間は、今はもう一人も存在しない。
《ベンケイのオフィスを制圧しました》
「イエスッ!」
報告を聞いてアーサーはオフィスチェアを弾き飛ばしながら立ち上がり、雄叫びを上げて大きくガッツポーズをした。唖然とするケイをよそに何ポーズもガッツポーズバリエーションを披露するアーサー。しばらくして一通りのポーズを出し切ったのか急に真顔に戻った彼は動いたことによって乱れたスーツの襟を丁寧に正す。
「で、ん? 捕まえたの? あの山みたいな男はちゃんと? ん?」
《はい、現在ビルの一室に軟禁しています》
「ん~流石、ケイちゃん! 俺が見込んだ男だわ~」
《ありがとうございます》
「ヴェラは? アイツは今回活躍した?」
上機嫌なアーサーの質問にケイは口ごもってしまった。その様子を察したのかアーサーは怪訝な眼差しでケイを見る。
「何? もしかして山男に殺されちゃった? せっかくの貴重な若い女だったのに……ケイちゃんも残念だったねェ」
《いえ、生きています。ですが……ベンケイの息子と共に逃走しまして》
「何それ」
キョトンとした顔でケイへ聞き返すアーサー。ケイは言いにくそうに説明を続ける。
《見つけ次第、捕らえて再指導しますので》
「いや、いいよ。殺しちゃって」
いともたやすく告げるアーサーの顔には何の表情も浮かんでいなかった。ただ、無機質に、事務的にヴェラの処分を言い渡す。
《で、ですが……ヴェラは私達にとって貴重な》
ケイがヴェラへの処分緩和を打診している間に、アーサーは置いていた葉巻を手に取ると、先端を灰皿の底面に必要以上に押し付けて火を消し、底冷えするような笑みをケイへ向ける。
「絶対に殺せよ?」
《…………分かりました》
ケイの反応にアーサーは満足そうに頷いた。彼は部屋の隅へ弾き飛ばされていたオフィスチェアを拾って来て再び腰掛けると、通信を切ろうとしていたケイを柔らかい動作で自分の顔の横に手を上げて制止する。
「ああ、後な。ベンケイの息子、ロストテクノロジーを探しに旅立ったらしいからそっちも宜しく」
《と……言いますと?》
「おいおいケイちゃん冗談でしょう?」
信じられない。といった感情を大袈裟に全身で表現したアーサーは何度も首を垂直に切るようなジェスチャーをした。
「消すんだよ、一々言わせるなんてケイちゃんは物騒だな~」
《…………では、ヴェラ共々始末します》
ケイの抑揚のない言葉を最後にホログラムはデスクの表出装置のレンズに吸い込まれていった。アーサーはオフィスチェアの背もたれに寄りかかって何度も椅子全体を揺らしながら、退屈そうに両腕を頭上に伸ばして大きく伸びをする。
「全く、ケイちゃんは甘いね~。釘を刺しとかないとすぐこれだ」
ゆっくりと息を吐きアーサーは両腕を頭上へ伸ばしたままオフィスチェアから立ち上がった。そして再び後ろを向いて窓の外を眺めると、スーツの内ポケットから葉巻とライターを取り出し新しい葉巻の先端に火を付ける。
「ライバル消滅祝いにもう一本……うん、悪くない。あとはアイツの息子が余計なモノを掘り起こさなければ、我が社は永久に安泰ってね」
アーサーは煙を燻らせつつケラケラと声を出して笑った。楽しくて堪らないといった様子のアーサーは、ふと視線を足元に落としてビルへ寄り添うように出来上がった町並みを眺める。
眼下に広がる風景は非常にベンケイのビルから見える街と形が似ていた。しかし、ベンケイが造り上げた『トウト』と違う点を挙げるならば、街を取り囲む防塵壁が存在しない事と、街を構成する建造物がアーサーのオフィスがあるビルと建築レベルが釣り合っている事だ。
そして、一番の違いはビルの最上階に位置するアーサーのオフィスから見ても、見渡すかぎりの範囲に水色が存在しない事。
アーサーは葉巻を咥えたまま両手で完璧にセットされた頭髪を後頭部へ向けて撫で付け、満足気に大量の煙を吐き出した。
「償うだけ無駄さ……どう足掻いてもお前は絶望に直面しその度に己の無力さへ怯えるだろう。むしろ、それでいい。お前が怯え竦み震え上がるほどに、俺の愛は満たされていく」
見る者全てを吸い込んでしまいそうな程の碧い瞳は窓から何処か遠くの彼方へ向けられている。言葉と共に視線は誰かに向かって注がれている事は間違いないのだが、窓から見渡せる景色にこれといった対象は見当たらない。
小さく鼻で笑いアーサーは言った。
「失望させないでくれよ? なあ、人間……」
※
突然の襲撃を受けて『トウト』を予期せず出発する事になった二人だが、彼女達は水色砂漠を蛍光色のスポーツカーで爆走しながら、迫り来る追手に四苦八苦していた。
「伏せて!」
ヴェラの叫び声にすかさずバンタが助手席で身を屈める。すると、数瞬の間の後に連続した発砲音が聞こえ無数の弾丸が二人を追い抜いて行く。
「やっぱり『トウト』に帰ろう、僕達良く頑張ったよ、ね?」
「無茶言わないで!」
早速バンタが吐いた弱音をヴェラがばっさりと拒否する。後方からの銃撃が収まったのを見計らって、流れるような動きでスカートの中からゴモラを取り出すと、ヴェラはあろうことか前を向いたままで肩越しにゴモラを発砲し始めた。
「ひっ――――」
間近で発射されるゴモラの発砲音に思わずしゃくり声のような短い悲鳴を上げてしまうバンタ。そんな彼の様子には一切触れずにヴェラは光の弾丸を撃ち続ける。
すると、狙いこそ無茶苦茶ではあったが砂漠へ着弾した光が順々に大量の水色を巻き上げて後を追う車達へ砂柱となって襲いかかった。
降り注いでくる大量の水色にバランスを崩す追跡者達。中には砂の隆起によって出来た段差に入り込んでしまい横転する車も現れた。
――――これなら逃げ切れる。私の腕を持ってすればこの状況を切り抜けられる。
一種の確信ともいえる何かがヴェラの身体を駆け巡った瞬間に、助手席で縮こまっているバンタへ彼女は大きな声で叫んだ。
「ハンドル任せたから!」
「えっ?」
言うが早いかバンタが顔を上げた時には既にヴェラはハンドルを握っていなかった。声にならない悲鳴を上げてハンドルへ飛びかかるバンタの横で、ヴェラは運転席の背もたれを倒して逆さまになった視界で後方を確認する。
すると、今にも発砲を再開しそうなマシンガンを構えている屈強な男が車の助手席から身を乗り出しているのを見つけ、ヴェラは車の速度、走行ルートを瞬時に予測し神業ともいえる射撃精度で走行中の追手が乗る車の眼前へ光弾を着弾させた。
布を殴った時のような低い音を立てて砂柱がジープ車の目の前に舞い上がる。当然ながら車は為す術もなく舞い上がった砂の塊へ突っ込み、マシンガンを構えていた男は衝突の際に、バランスを崩して砂漠へと転がり落ちていった。
その光景にヴェラは心の中でガッツポーズを作るが、まだ追手を数えると三台もいる。その内一台は射撃手を失ったとはいえ、依然として追跡を諦めるつもりはないようだ。
「速度を上げるわよ、ハンドルしっかり持ってて」
ヴェラはバンタへそう告げると彼の返答を待たずに寝転がった体勢のままでさらにアクセルを踏み込む。エンジンが唸りを上げてスポーツカーは加速し、バンタは異様に震えるようになったハンドルを必死で握った。
「ダメだ、僕、こんなの運転できないよ!」
「今更、泣き言言わないで。ベンケイさんの息子でしょ?」
ベンケイの息子。その事実が今のバンタにとってどれだけ重荷となっているかヴェラは充分に把握していなかった。
ベンケイさんの息子だから。英雄の息子だから。救世主の息子だから。
様々な親の威光を背負った言葉が瞬時にフラッシュバックしバンタの心へ襲いかかり始める。
「違うんだ……僕は父さんみたいに立派には……僕は……」
虚ろな目でいつの間にかバンタはハンドルを離してしまっていた。車全体が激しく揺れ始めたことでヴェラはそれに気付き、即座に運転席のシートを元に戻すと苦々しい表情でハンドルを掴み直す。
「何やってんのよ!?」
「僕は、違うんだ……僕は父さんじゃない、僕はダメなんだ!」
叫び声を上げて耳を両手で塞ぎバンタは再び助手席で縮こまってしまった。
まるで、自分だけを世界から隔離させたいかのように。
「重症ね……これは」
心内世界へ閉じ籠もってしまったバンタも何とかしなければならなかったが、追手も何とかしなければならない。
ヴェラは目の前に積み上げられた問題に脳が考える事を放棄しそうになったが、後方から再び銃撃音が聞こえてきた事によって、その正気を辛うじて保つ。
「……まずは、追手を何とかしなきゃ」
そう考えたヴェラは即座にアクセルから足を離して次の瞬間にはブレーキを踏み込んだ。急ブレーキがかかった車体は横転すれすれで横へ九十度回転し、追手の車のフロント部分に対して車の右側部を平行にしたヴェラは、運転席から両手で構え直したゴモラの引き金を連続で三回引いた。
瞬速の動作で銃口より放たれた光弾が三台のジープ車の左前輪へ吸い込まれ――――三台の車は勢い良く空中へと舞い上がる。
自分の行った大博打に大した感慨も抱かず、直ぐに車を再発進させるヴェラ。
車の走行音に混じり何か金属がひしゃげる音が耳を塞いでいた筈のバンタの鼓膜まで届いてきた。
恐る恐るバンタが顔を上げて後方を見やると、そこには砂漠へ叩き付けられ車体が潰れて歪んだ三台の車が砂漠に突き刺さっていた。
「あれ、君がやったの……?」
「私以外に誰がいるっていうのよ」
信じられないといった驚きの表情をヴェラへ向けるバンタに対し彼女は平然とした顔のままで事もなげに言ってのける。
自分の上司に裏切られたばかりだというのに気丈な態度を貫くヴェラをバンタはいつしか尊敬の眼差しで見つめ――より正確に言えば見つめかけた。
「そういえば君は、さっきの様子から察するにケイの部下なの……?」
先程の二人の会話を思い出し我に返ったように質問をするバンタ。
「君って呼び方は気持ち悪いからやめて。私はヴェラ。それと質問の答えに関しては……正確には『元』よ。元部下」
「…………止めて」
「えっ?」
「車を止めてくれ!」
叫ぶバンタの気迫にヴェラは思わず急ブレーキを踏んでしまった。
広大に視界を埋め尽くす水色の中で小さな蛍光色の黄色い点がその動きを止めると、バンタは息を荒らげたまま車のドアを開ける。
「ちょっと、何処へ行く気なの?」
「『トウト』へ帰るんだ」
言うが早いか水色の砂へと両足を浸すバンタ。そんな彼にヴェラは車内から『トウト』がある方向をいたずらっ子のような顔をしながら指し示す。
「この距離を歩いて帰るつもり?」
ヴェラの問いにバンタが後ろを振り返ると、既に『トウト』は地平線に呑まれてしまい何処にも見えなかった。
愕然とするバンタに今度は少しばかり楽しげに表情を緩めながら空を指差すヴェラ。釣られてバンタは指し示されるがままに夜空を見上げる。
「…………星が、見えてる」
バンタは故郷が既に見えない事と、さっきまでの曇り空が嘘だったかのように星空が見えている事から、既にかなりの距離を走って来た事を実感した。
実際、この得体の知れない砂漠を単身徒歩で戻ろうとするのは、考えるまでもなく極めて無謀だということをバンタ自身も理解している。
「だけど僕は、君を信用出来ない」
「ケイさんの部下だったから?」
「あんな奴をさん付けで呼ばないでよ!」
語気を荒らげるバンタにヴェラは目を丸くした。ビル内で見た時には気の弱いただの臆病な人間に見えたが、どうやらバンタの性格はそう一筋縄ではいかないらしい。むしろ、一つ一つの感情の振り幅が激しい人間なのだとヴェラは分析を改めていた。
「……いきなり怒鳴ってごめん」
「別に。でもアナタも見てたでしょ? 私はアナタ達の目の前で五年間お世話になった上司に裏切られたのよ。こんな屈辱的な話ないわ」
「ケイは、僕が五歳の時から父さんの部下として働いていた。約六年間もAP保障のスパイとして。そんな男の部下だった君を、そう簡単に信用できると思う?」
バンタから向けられた疑いに対してヴェラは無言のまま自分も車から降りて何故かミニ丈のジャケットを脱ぐと車内へ放り投げた。
彼女の意味深な行動にバンタは一層疑いの眼差しをヴェラへ向けるが、今にも泳ぎだしそうな彼の目にヴェラは一度艶めかしく笑って車の後部側に沿いながらゆっくりとバンタへ近付いて行く。
いよいよヴェラの考えている事が読めず全身を緊張させるバンタだが、そんな事は全くお構いなしにヴェラは鼻と鼻の先が触れてしまうほどの距離まで接近し、そして、バンタの耳元へ口を近付けると小さく囁いた。
「私が何でこんな派手な格好してるか解る?」
「し、知らないよそんなの」
「この方が男を操りやすいってケイさんから教わったからよ」
バンタの全身が耳にかかる吐息によって強張った刹那、ヴェラはスカートの中からゴモラを取り出し、突如バンタの背後の砂中から現れた体長三メートル程の巨大な漆黒のマンタを瞬く間に撃ち落とす。
突然の発砲音とマンタの悲鳴に何が起こっているのか全く理解出来ないバンタだったが、その間にもヴェラは既に素早くバンタから身を離して車のボンネットを飛び越え、運転席側に着地すると流れるような動きで運転席へ滑り乗った。
「信じてくれないのは勝手だけど、乗らないと死ぬわよ?」
一種の楽しさすら感じられるヴェラの言葉にバンタは一瞬思考を巡らしたものの、次々に砂を舞い上げて空中へ現れ始めたマンタの群れに慌てて車へ乗り込んだ。
「あのデカい奴等がいるって知ってたんだね?」
「どうせ言ったって信じなかったでしょ」
砂を大量に巻き上げて急発進する蛍光色のオープンカー。その周囲を巨大なマンタが取り囲むように水色の砂漠を飛び回って二人を追いかけて来る。
「せっかく追手を倒したのに……逃げ切れるんだよね、これ?」
「無理でしょうね、またハンドルお願い」
「え? ちょっと――」
言葉と同時か若しくは言葉よりも僅かに早くハンドルから手を離して先程と同じように両手でゴモラを構えるヴェラ。
脂汗を額へ滲ませながらバンタがハンドルを掴むと同時に、ヴェラは周囲をトビウオのように跳ね回りながら迫ってくる巨大なマンタを一匹ずつ撃ち落とし始めた。
「めちゃくちゃだ!」
「元は海だった砂漠よ? めちゃくちゃで当たり前じゃない」
「ああ……早く家に帰りたい」
「ビルはケイさん達が占拠してるでしょうし、この先にはきっともっとヤバい生き物が現れるわよ」
拳銃を発砲し周囲へ光弾をまき散らしながらヴェラはからかうように表情を緩ませて笑った。
そんな彼女の様子にバンタは本格的に旅へ出た事を後悔しながら、自分の命を狙ってきた女の子を過去に因縁があったとはいえ、旅の同行者に選んだ父親の神経が理解出来ないと視界を涙で滲ませてハンドルを握っている。
「何で、こんな事になったんだ……僕はただ怖い事から逃げていたかっただけなのに」
「逃げて引きこもってる内は、いつまで経っても英雄になんかなれないわよ?」
「僕は、英雄になんかなりたくない……そんなのは、僕みたいな臆病者の役割じゃないよ」
言葉とは裏腹にバンタの瞳はとても寂しそうにヴェラには見えた。
確かに彼の口から語られる言葉も真実かもしれない。だが、ヴェラには「英雄になんかなりたくない」と言った瞬間にバンタが瞳に宿した寂しさの色こそが、本当の気持ちに感じられた。
ヴェラの応戦もあり周囲を囲むように並走していたマンタの数がかなり減ってきた頃、突然マンタ達が踵を返して砂漠を逆走し始めた。バンタはやっと諦めたのかと安堵の溜息をついたが、対照的にヴェラは先程までとは一転して険しい表情で静まり返った水色砂漠の表面をじっと睨み付ける。
そして、自分達の遥か前方に小さな砂の間欠泉のようなモノを見つけると、血相を変えてバンタからハンドルを奪い強引に車を転進させた。
「何、突然どうし……」
急に助手席へ弾き飛ばされたバンタは抗議の声を上げたが、その声は地下駐車場での自分と同じような蒼白な顔でハンドルを握り、アクセルを全開に踏み込むヴェラを見た瞬間に尻すぼみとなる。
バンタには先程から一体何が起きているのか上手く理解できていなかったが、ヴェラの表情を見るに良くない事が起ころうとしているという事だけは解った。
そして、後方で水色の砂が空へ向けて一直線に吹き上がる様子をバンタが視界に捉えた瞬間。
一つの小高い丘が地殻変動で隆起したのではないかと疑うほどの何かが、砂の中から突然に浮かび上がってきた。それは周囲の地形を波打たせて変動させながら、大量の砂を背中に背負って神々しいともいえる姿をゆっくりとバンタ達の前に現していく。
突然に現れた小高い丘の正体は星空に向かって吠える純白の鯨。咆哮は空気を伝わって砂漠全体を震わし、空までも震わせた。
一瞬にして自分の耳まで届いた空気の激しい振動に思わずバンタは両手で耳を塞ぐが、ヴェラの両手は周囲の地形が変わる程に波打つ砂漠の上で横転しないように、煽られる車のハンドルを必死でコントロールしようとしていた。
すると、彼女の両耳からは真っ赤な血が滴り落ちる。
痛みに顔を歪めるヴェラの様子にバンタは焦ってハンドルを代わろうとしたが、伸ばしたバンタの腕が彼女の腕に交錯してしまい二人が同時に声を上げた時には、車はバランスを失って砂漠をスリップし勢い良く横転してしまった。
横転の衝撃でバンタとヴェラは身体を宙へ放り出されるが、幸い二人共受け身を取って直ぐに立ち上がる。
だが、車はそのまま数回砂の上を転がった後に大きな爆発音と共に火柱を吹いて炎上した。
煌々と輝く炎と立ち昇る黒い煙を見て焦ったようにヴェラが砂に足を取られながらも爆発した車へ向かって走り出す。
「ちょっと、君、何する気!?」
突然のヴェラの行動に慌ててバンタが背中へ向けて叫ぶが、白鯨の咆哮によって耳を痛めている彼女には聞こえないのか、ヴェラはどんどん車へ近付いて行く。
仕方なしにバンタもヴェラを追って砂漠を駆け出すが、足場が悪すぎて中々前に進むことが出来ない。バンタが砂漠に四苦八苦している間にもヴェラは器用に走り燃え上がる車へと迫って行った。
そしてヴェラは車の前まで辿り着くとあろうことか少し立ち止まって迷った後に、燃え盛る炎の中へ飛び込んでいこうとした。その飛び込もうと身を屈めた身体を寸前の所で後ろから掴むバンタ。自殺にも取れるヴェラの行為にバンタは血相を変えて叫ぶ。
「本当に何考えてるのさ!」
「ソドムがまだ乗ってるの!」
「ソドム……?」
「私の銃!」
ぼんやりとデジャブ感を覚えた名前にバンタは一度頭の上に疑問符を浮かべたが、上着と共に車内へ残っていた大きな銃の事だと理解すると、彼は尚更力強く暴れるヴェラの腰を引いた。
「この炎の中から持って来れるわけない! 残念だけど……」
「アレがないと私達二人共死ぬわよ? ほら、見て」
自分の腰を掴んでいた腕を強引に振り解いてヴェラが砂漠の一方向を指差した。その方向へバンタが視線を向けると低速ながらも砂の間欠泉を吹き上げて二人へと徐々に白い丘が接近して来ていた。
低速とはいえ、この砂漠上で人間が走るよりは遥かに速いスピードで。
このままでは巨大な自然の猛威を前に、二人は為す術もなく蹂躙されてしまう事は明白である。
バンタは迫り来る白い丘と依然激しく燃え上がる炎を数回交互に睨んだ後、突然自分の両頬を勢い良く両手で挟んで小気味の良い音を鳴らした。彼の奇行に目を丸くしたヴェラへ向かいバンタは左の手の平をぶっきらぼうに突き出す。
「……貸して」
「何を?」
「君がこの砂漠でそんな派手な格好でいられるのは、肌に直接薬品塗ってるからだよね?」
言葉の真意が掴めず訝しげな表情を見せるヴェラにしびれを切れしたのか、バンタは自分が着ていた白のシャツを脱いで中に着用している黒のボディースーツを彼女へ見せると、自分の胸を拳で数度強く叩いた。
「これで多少の熱には耐えられる。あとは顔さえ守れれば僕が銃を取ってくるって言ってるんだよ!」
ヴェラは既に涙目なバンタの申し出に一瞬躊躇するような顔をしたが、だんだん視界の隅で大きくなる白い丘を見ると、腰のポーチから銀色のチューブを取り出して蓋を開ける。
容器内から手の平へ肌色のクリームを出してヴェラは両手全体に塗り広げるとその手でバンタへ近付いて両頬を鷲掴みにした。
「いや、塗るのは自分で……」
「時間がないからちょっと黙ってて。あと、泣くのやめて。クリームが落ちる」
バンタの戸惑いをバッサリと切り捨てるヴェラの言葉に彼は数十秒間、黙って顔中から髪までクリームを塗りたくられた。そして、ヴェラがバンタの顔から手を離すと同時に二人の背後でさらに高く間欠泉が星空へ向けて吹き上がる。
「あとの事は君に任せるから」
ヤケクソにも聞こえるバンタの言葉にヴェラが黙って頷いた。
同意を確認した彼は、大きく深呼吸をして最後は吐き出さず、燃え盛る炎の中へと僅かな気後れも見せずにあっという間に飛び込んで行く。
火の中にバンタの姿が消えると思わずヴェラは小さく悲鳴を上げたが、彼女はグッと拳を握り締める事で残りの悲鳴を呑み込んだ。
既に目の前には白い丘がかなりの距離まで迫って来ていた。炎上する車内から戻らないバンタにヴェラは思わず唇を噛み締めるが、不意に頬へ熱を持った風を感じたかと思うと、炎の中からソドムを抱えたバンタが身を捩りながら飛び出してくる。
「バンタ!」
砂の上に倒れ伏してそのまま動かないバンタへヴェラは駆け寄ると、バンタの状態を確認する為に彼を仰向けに寝かせた。意識はなく髪の毛は所々焼けて縮れていたが、ボディースーツは何処も溶けておらず顔にも目立った火傷は見られない。
気を失っているだけのバンタにヴェラは一安心すると抱えて持ち出してきてくれたソドムを掴むが、銃自体が火で熱せられて高温になっていた為に熱さで顔を歪めながらヴェラはソドムを手放してしまう。
その間にも砂を吹き上げる白い丘はあと百メートルもない所まで近付いて来ていた。
このままでは二人とも白鯨に殺されてしまう。目の前の事態にヴェラは覚悟を決めると、白い手袋と一緒に皮膚が熱せられる感覚に耐えながらソドムを強引に持ち上げて後ろに倒れたバンタを見た。
「……もう何も守れない私じゃない」
ソドムを構え覚悟を決めたヴェラは白い丘へ向かって駆け出すと、巨大な相手の前頭部が自分へ衝突する直前に砂漠から飛び上がって大きな頭の上に着地し頭頂部へ向かって猛然と駆け登る。
そして、頭頂部手前にある大型戦車一台くらいなら問題なく呑み込んでしまう程の間欠泉を吹き出す穴へ辿り着くと、ヴェラは容赦なく穴の底へ向けて一筋の光線を放射した。
エネルギーが足りなかったのか以前サンドシャークへ向けて放った光線よりも大幅に照射時間は短かったが、ヴェラが引き金を引いたと同時に白い丘は激しく身体を振動させてその動きを止める。
すかさずヴェラが丘を下り水色の砂漠へ跳躍して飛び降りると、それに合わせたかのように白い丘の後方から巨大な尾びれが地上へ姿を見せ、次の瞬間には人間の背を軽く越すような水色の砂の波を引き起こしながら、白い丘は鼓膜を掻き毟るような咆哮と共に砂中深くに潜って行った。
白鯨が姿を消してもまだヴェラは安堵することは出来なかった。何故なら、その余波で発生した砂の波から逃げ切らなければならなかったからだ。
「お願いバンタ、起きて!」
バンタへ駆け寄りながら声をかけるが彼はヴェラの声に対してぴくりとも動かない。ヴェラが如何に特殊な訓練を受けて育ってきたとしても、物理的にソドムとバンタを抱えて砂の津波から逃げ切ることは不可能に近かった。
彼女は横たわるバンタの横へ滑り込むと振り返り、接近する砂の波へ再びソドムを構える。
しかし、ヴェラが引き金を引いてもソドムは無機質な機械音を発するだけで銃口から光を放射しなかった。どうやら、間欠泉へ向けて放たれた分でリロード分を使い果たしてしまったらしい。
いよいよ追い詰められたヴェラはバンタを引き摺って波に対し燃え盛る車を盾にしたがその行為は気休めにすらなりそうもなく、彼女は迫り来る砂の波から目を逸らすと気を失ったままのバンタの顔を見下ろす。
「白状すると、アナタが生きてるって知った時はベンケイさんよりもアナタの事を怨んだ。アホらしいわよね……でも、アナタが死んでさえいれば私の諦めも幾らかついたのよ? でも、アナタは生きてた。だったら、ベンケイさんは私の村を救いに来れたんじゃないかって昔は本気で考えてたのよ。でも当然、その考え方は間違ってる。だから、私はベンケイさんのさっきの申し出を引き受けて良かったと思ってる。八つ当たりであなた達を怨んでそれを生きる為の糧としていた事を償う為に」
「…………別に、償う必要はないんじゃないかな」
独白のつもりが思いがけず返答が返ってきたことにヴェラが驚いていると、仰向けに寝ていたバンタがゆっくりと目を開けた。
「もう一度言っとくけど、後のことは頼んだから」
バンタがそう呟いて小さくヴェラには聞こえない音量で吐息混じりに何言か一言吐き出した。すると、突然ボディースーツ全体に淡い光が広がりスーツが人体の形に沿って一回り大きく膨らみ始める。
ボディースーツの変化に目を丸くするヴェラは直後に脇腹へ腕が回される感触を感じた。それから驚く間もなく、彼女の身体は浮遊感を覚え、その瞳は眼下を通過する水色の波が燃え盛る炎を呑み込んでいく光景を捉えていた。
尋常ではない動きで波を飛び越えたバンタは再び砂漠へ着地すると、力尽きたかのように膝を付いてそのまま砂の上へうつ伏せに倒れ伏す。投げ出されたヴェラは直ぐに起き上がってバンタへ駆け寄るが、その時にはもうボディースーツは通常の大きさに収縮していた。
「どういう事なの、一体……」
湧き上がる疑問に脳が思考を試みようとしたが、その行為はヴェラ達の周囲へ再び現れた漆黒の巨大生物達によって遮られる。
白鯨が現れた後も、彼らは獲物を仕留めることを諦めていなかったのだ。
「くそっ、こんな時に――――」
砂上へ再び現れたマンタの群れに舌打ちをするヴェラ。先程とは違いヴェラの旗色は明らかに悪い。
何故なら大型兵器のソドムはエネルギー切れである上に、気を失っているバンタを守りながら戦わねばならず、走行中の車から一方的に狙いを付けていたさっきとは状況が雲泥の差だったからだ。
素早くヴェラは片手でゴモラを斜めに構え、様子を伺うように近くを跳ね回る一匹に向けて引き金を引く。
だが、火傷の影響か上手く狙いが定まらず、ヴェラが放った弾丸は狙いを付けたマンタのやや右へ逸れて水色の砂を巻き上げた。
そしてそれが、マンタ達にとって攻撃の合図となった。一斉に潜り込んでいた砂中から飛び上がる瞬間に跳躍の方向をヴェラへ向けるマンタ達。
彼らは漆黒の大きな弾丸と化してヴェラへ全方位から跳び、彼女は迫り来る黒い弾丸に対してまるでひれ伏すかのように膝を付いた。そして、上体を背中側へ砂漠ギリギリまでしならせることによって何とかマンタ達の突進を回避する。
自分の鼻の上ギリギリをマンタ達が通過して行くのを見送りながら、すかさず体勢を維持したままでヴェラは反撃に転じた。
引き金を引き、仰け反った体勢のままで視界に入ったマンタ達を華麗に撃ち落とすヴェラ。
二匹のマンタが悲鳴を上げて砂の上へ落下したが辺りを囲む群れはまだ五匹近く存在し、彼等は次の攻撃に備えて砂中を泳ぎ回っている。
超人的な身のこなしと戦闘センスによって反撃にまで転じたヴェラの一連の動きは神がかっていたが、それでも旗色の悪さは一向に変わらない。
苦虫を噛み潰したような表情で彼女は上体を起き上がらせると、一旦大型銃であるソドムをバンタの隣へと放おった。
エネルギー切れのソドムはもはや重りにしかならず、持っているよりは少しでもバンタの盾になればというヴェラなりの判断だった。
そして再度、砂を巻き上げる音がヴェラの鼓膜へ響いた。マンタの狙いはヴェラ一人のようで、砂上へ飛び上がった群れは全員で砂を撒き散らしながらヴェラへ向かい突進していく。
自分だけに敵意が向けられていた事を彼女は敵を一網打尽にする好機だと感じた。
迫り来る巨大な漆黒の弾丸に対してヴェラは先頭のマンタの頭部を足の裏が空へ向くように回転しながら跳躍して鷲掴みにし、掴んだ相手の身体を砂漠に対して無理やり直角に起こした。
長い尻尾が砂に突き刺さり露わになったマンタの腹部と背中へ次々と高速の突進をかましていく仲間達。
鈍い衝撃が立て続けに砂漠へ響いたかと思うと、マンタの群れは釣り上げられた魚のように砂の上へ落下してバタバタと弱々しく跳ね回る。
どうやら衝突の反動で怯んでしまったのか、砂に潜る事が出来なくなってしまったようだ。
弱々しく暴れているマンタ達。そして彼らの中央には仲間からの攻撃によって息絶えたマンタを足蹴にして、憮然とした表情のヴェラが立っていた。
「襲う相手が悪かったわね」
勝利宣言に近い言葉を吐いてヴェラは歩きながら一匹ずつ狙いを定めて引き金を引いていく。
さっきまで自分を殺そうとしていた相手とはいえ、無力化してからの一方的な殺戮行為はヴェラに少しばかりの罪悪感を生んでいた。
それでも気を緩めず歩き回り着実に一匹ずつトドメを刺していくヴェラ。だが、最後の一匹へ銃口を向けた瞬間に彼女の心の中にはやっと危険から開放されるという安堵から、僅かばかりの油断が生まれる。
そして、息を潜めていた悪意はその瞬間を静かに待っていた。
ヴェラの一瞬の心の弛緩へ合わせて全身打撲で死んだマンタの下から、一匹のマンタが突然飛翔して彼女の背中へ襲いかかる。
砂の弾け飛ぶ音を聞いて本来のヴェラであれば直ぐ様回避行動を取っていたはずだが、耳を負傷している今の彼女は聴覚が捉えた音の意味を瞬時に判断することが出来なかった。
「かっ――――!?」
背中に凄まじい衝撃を受けてヴェラは砂の上を弾き飛ばされる。衝撃による一時的な窒息と背骨が砕けたかのような激痛に彼女は一瞬パニック状態へ陥りそうになるが、噛み合わせた歯を砕かんばかりに食いしばると寸前のところで理性を噛み留めた。
体勢を立て直し立ち上がろうとする一瞬で三つの事柄を平行して思考するヴェラ。
一つ目は身体の損傷具合を確認する事――どうやら骨は無事らしい、呼吸は直に回復するだろう。
二つ目は己の油断に対しての嫌悪――普段、背中にソドムを背負っている事もあり二倍油断してしまったといっていい。今後こんな致命的な油断は許されないと自らを叱咤する。
三つ目は自分を弾き飛ばしたマンタに対しての反撃方法――とにかく撃ち殺す。
まるで最後の一つは戦場で発狂してしまった兵士のような思考を巡らして、ヴェラは立ち上がるや否や、先ずは怯んで砂の上を跳ね回っている最後のマンタを撃ち殺した。
パタリと動かなくなるマンタの姿にヴェラはもはや何の感情も浮かばない。
再び砂中へ潜り身を潜めているのか、今は視界に映らない最後の一匹をヴェラは瞳孔が開きかけた目で探している。
――――私は死なない。死ぬわけにはいかない。私の命を脅かそうとするものは何においても最優先で排除しなければ。
段々と思考が狭まっていることにヴェラは気付いていなかった。彼女の頭の中では今、外敵を可及的速やかに抹殺し束の間の安全を取り戻す事しか考えられなくなっている。
ヴェラの異常なまでの生存欲から発せられた殺気を最後の生き残りとなったマンタは機敏に察知したらしい。
そして動物的な本能に従い――――マンタは判断を誤った。
気を見計らい地上へ浮上しその身を大気へと晒す漆黒のマンタ。しかし、飛び跳ねた彼の標的はヴェラではなくバンタだった。
高速で滑空する自分の身体がどんどん砂漠へ横たわったバンタに近付くにつれてマンタは己の選択を後悔していたに違いない。
理由は極めて簡単で、相手の次の行動をこちらも本能的に予測していたヴェラが、ソドムの銃口側を掴んで野球のバットのように振りかぶり自分を待ち構えていたからだ。
宙を進む自分の身体を今更止めることは出来ない。そんな諦めが最後の生き残りであったマンタに存在したかは解らないが、低く柔らかい殴打音によって砂漠を跳ね飛ばされていったマンタは、勢いが死んで身体が静止する頃には黒い肉塊と化していた。
一方でヴェラは今度こそ危機を脱して気が抜けたのか、今更ながら徐々に染み渡るように全身を広がっていく痛みに気付き上手く脳が働かなくなっていく。
視界も霞みソドムを持っている事も辛くなり砂の上へ落としてしまうと、砂漠へフラつきながら膝をついた。
痛みと疲労で思考が切断されようとする半ばにヴェラはいつの間にか目の前に二人の人間が立っている事に気付く。彼女は気力だけでゴモラを取り出して構えるが、即座にゴモラは二人によって手から弾き飛ばされてしまった。
「大した」
「気力だ」
一つの言葉を二人で補い合う彼女らを見上げてヴェラは必死に意識を飛ばすまいと、揺れる身体を倒さないように腰へ意識を集中させて二人を睨み付ける。
すると二人の内、耳が見える程の黒髪のショートヘアに褐色の肌をした女性が、切れ長一重の目から黄色の瞳が見えなくなる程に笑って感嘆の声を上げた。
「この状況でコイツまだ」
「私達に反抗するつもり」
同じようなニュアンスの声で言葉を補ったのは後頭部で長い赤茶色の髪をポニーテールに結いた赤く焼けた白い肌のもう一人の女性。彼女の二重まぶたの中にある瞳は薄い翡翠色をしており、降り注ぐ太陽の光によって瞳の色が褪せてしまっているようにも見える。
二人は同じ白の旅装に身を包んでいたが褐色の肌をした女性がマントを外して倒れているバンタをくるみ始めたのを見ると、ヴェラは何とかして立ち上がろうともがくが結果的にバランスを崩してしまい、顔から砂の上へ倒れてしまった。
「連れて行かせる、ワケには……」
顔の半分を砂に塗れさせながらも必死に言葉を絞り出すヴェラ。だが、視界と意識が何処からか現れた暗いモヤに覆われていく。ヴェラは自分が何者かの肩へ担がれた事を腹部の感覚で認識した事を最後に、完全に意識を失ってしまった。
※
――――最初に村へ迫り来る水色の砂を見つけたのは、まだ当時十一歳になったばかりのヴェラだった。彼女はその奇妙な色をした砂を初めて見た時、
「何て綺麗な色をした砂なんだろう」
と、子供心ながらに感じていた。とても淡い色彩を持ったこの砂が人を脅かしているとは幼いヴェラには到底思えなかったのだ。
ヴェラは村に戻り自分が外で見てきた景色の事を好意的に大人達へ報告する。
すると、当然ながら村は緊急事態に陥った。子供の戯言だと自分の目で確かめに行った大人達も事実をありのままに村の上役へ報告し、いよいよ村中の人間全員が存亡の危機であることを認識した。
結果、村は『トウト』へ二人の若い村男と第一発見者であるヴェラを救援の使者として送り出すことを決定する。全員で避難しなかったのは、大勢の人間が備えもなしに水色の砂漠を渡る事によって生じる危険の為もあったが、本当の所は今や貴重な土地となった黄色い砂漠にあるこの村をそう安々とは手放したくはないという打算的な考えの元での決断でもあった。
荷支度を整えられたヴェラは何故自分が村を離れなければならないのか理解に苦しんだ。
「最初に見つけたアナタがベンケイさんへ話せばきっと助けてもらえる。だから、頼んだわよ」
そんな無責任な期待の言葉をまだ十一歳になったばかりの娘にかけて、ヴェラの母親は彼女を水色砂漠へと旅立たせる。ヴェラは別れの際に泣き喚いたが母親から期待を託されてしまうと駄々をこねきることは出来なかった。
村男が運転する四輪駆動車の後部座席へ乗り込み、母親へ手を振りながらヴェラは村を出発した。
道中、重要な使者の役を任されたまだ二十代程に見える若い村男達は、水色砂漠を走りながらも呑気に世間話へ花を咲かせていた。
「――で、何だって、その……ろ、ろさん」
「ロストテクノロジー。お前、俺が運転し始めてからこの事説明するの三度目だぞ?」
「わりいわりい、俺、頭弱いもんで……」
助手席に座った男が卑屈そうに笑いながら黄色い歯を露わにして後頭部を掻いている。ヴェラは後部座席へ座りながら、自分達が出発してから今まで二人が話していた話題の内容を頭の中でもう一度反芻し始めた。
――――お兄さん達が言うには、私が見たきれいな色の砂はロストテクノロジーという物によって、海を砂に変えてしまった事から生まれたらしい。私は海を見た事がなかったけど、お母さんの話によると海はとてもしょっぱいらしく、それが砂に変わってしまったのならあのきれいな砂を使って食べ物を育てるのは難しいんだと思う。これもお母さんから聞いた話だけど、砂にしょっぱい成分が含まれていると植物は育たないから。だから皆、私があの砂の話をした時に顔色を変えて慌て出したんだ。
「……でも実際、水色砂漠が発生した本当の理由は解ってない。解ってないからこそ、ロストテクノロジーなんていう非科学的な代物が原因だなんて、まことしやかに言われているのさ」
「でも実際、あるかもしれないんだろう? ロサンテクノロジー」
助手席の男は未だに重要な単語を覚え間違えていたが、運転席の男は呆れた様子を見せただけでもう訂正はしなかった。その代わりにバックミラーを通してヴェラを見ると、男へ発していたよりも幾分か柔らかい声色でヴェラへ微笑みかける。
「大丈夫? ヴェラちゃん疲れてない?」
「大丈夫です、お気遣いありがとうございます」
ヴェラの丁寧な返答に運転席の男はバツが悪そうに頬を指で掻いた。子供に接するつもりで話しかけたというのに、隣に座った間抜けな成人よりも遥かにマトモな対応をされてしまったので、次に何を話したらいいのか解らなくなってしまったのである。
「…………ヴェラちゃんは俺達の話を聞いてて何か気になった事とかあった? まあ、大半はくだらない眉唾な話ばかりだったけど」
「そのロストテクノロジーというのは、それ以外にもたくさんあるのですか?」
「ヴェラちゃん、ロサンテクノロジーだよ」
「お前はちょっと黙ってろ」
得意気に訂正を差し込んできた助手席の男を制して、男は饒舌に語り始める。
「噂や伝説は二十世紀から既にたくさん存在してたんだ。例えば、老化を止める機械とか、他人へ魂を移植出来る装置とか。まあ、ここらへんはスピリチュアル入っちゃってるけど、他にもエネルギー弾式の銃や炎を纏う剣の話なんかもあったな、確か」
「良いなあ~老化しないロサンテクノロジーかあ~永遠にモテちゃうって事か、俺」
「一度も女と付き合った事がない奴が何言ってんだよ」
直ぐ様抗議の声を上げる助手席の男だが運転している男は勿論、抗議の内容について微塵も取り合おうとしない。
和気あいあいとした雰囲気を醸し出す前部席の様子に、村を出てからずっと心細さを抱えていたヴェラは思わず自分の頬が緩んでいる事に気付く。続けて目からは抑えられない、しょっぱい水が流れ出している事にも気付いた。
「どうしたヴェラちゃん、俺、何か悪い事言ったかな?」
いち早くヴェラが泣き出している事に気付き運転席の男が気遣うように声をかける。
「俺達が言った事は全部本当かウソかも解っていない程度の話だから。何かその中に怖い話があったのならそれはきっとウソに違いないから安心して」
「大ァ丈夫、人間、大抵の事はのほほんと構えてたって死にやしねえからさ~、心配すんな。村の人もヴェラちゃんも簡単には死なないっ」
皮肉にも助手席の男がヴェラの気持ちを正確に察していた。ヴェラは自分のこれからと村に残っている両親の事を真っ先に案じていたのだが、それを見事に読み取られてしまったのである。
驚きで涙を止めたヴェラを見て運転席の男が前方へ視線を戻しながら、腑に落ちない様子で小首を傾げる。
「こういう時だけコイツの勘は頼りになるんだから憎らしいよな、全く」
「ん~? なんだい、褒めるならもっと堂々と褒めてほしいなあ」
ぼやいた言葉を逃さずに助手席の男はさらに詰め寄る姿勢を見せるが、追撃は、極めて唐突に遮られる事となった。
原因はいつの間にか車を取り囲むように現れていたサンドシャークの群れ。
突如、車の前方に現れた砂漠を切り裂きながら進む駱駝色の背びれにハンドルを切って男は叫ぶ。
「飛ばすぞ、捕まってろ!」
アクセルを全力で踏み込みヴェラ達の乗る車は先程よりも二倍に近い速度で走り出した。しかし、それにも関わらず後方を、真横を、駱駝色の背びれが幾つも同じ速度で追いかけてくる。
「サメ、なんですか……?」
震えた声でヴェラは前の二人へ疑問を投げかけるが男達は直ぐに返事をすることが出来なかった。二人共水色砂漠の生物について話に聞いたことはあったが、実際に遭遇したのはこれが初めてだったからである。
沈黙を守ったままで運転席の男は額に滲み出した汗を片腕で拭い、助手席に座っていた男は懐から拳銃を取り出す。
砂の上へ露出している背びれの大きさから、もしかしたら大きいもので体長数十メートルに達する奴がいるかもしれない。そんな相手に拳銃一丁でどうにか出来るなどと二人は考えていなかったが、今の状況ではないよりかは一丁でもあった方が精神的に断然マシであった。
「…………水色砂漠では、海で生きていた生物がそのまま生息している事が多いんだ。ただ、より大きく、凶暴になってだけどね」
ヴェラの質問にようやく答えた運転席の男はハンドルを握った手に無意識に力を込める。出発前からこの水色砂漠が如何に危険であるかは村長を含む年長者達から話では聞いていた。
だが実際にその脅威を目の前にすると、額と背中に滲み出してくるベットリとした汗を男は止められる気がしなかった。そしてそれは助手席に座る男も同じで、拳銃を握る手は汗で湿り今にも銃を滑り落としそうになっていた。
しかし二人の緊張とは裏腹に、徐々に自分達を取り囲んでいた背びれの数が少なくなっている事に男達は気付いた。
もしかしたら助かるかもしれない。
そんな二人の微かに生まれた希望に答えるかのように、走行する車の周囲からは次々と巨大な背びれが離れていく。
ヴェラには何故サンドシャーク達が突然に自分達から遠ざかり始めたのか理解が出来なかったが、彼女も二人と同じようにこのまま危険が去ってくれればいいと座席で体育座りをしつつ膝を抱き込んで縮まりながら祈った。
やがてヴェラの祈りが通じたのか自分達の視界から完全に背びれが消えたことを確認すると、前部席の二人は示し合わせていたかのように同時に安堵の溜息を漏らした。その後ろでヴェラも危険が去った事にほっと胸を撫で下ろす。
そして、三人は直後に未知の砂漠を甘く見ていた事を思い知る事となった。
最初の異変は全員が同時に車体を地鳴りのような振動が揺らしていることに気付いた時。男達はこの砂漠特有の地殻変動でも起きているのだろうかと推測したが、直ぐ様その仮説は真下から吹き上げられた大きな砂柱によって脆くも崩れ去る。
舌を噛みそうな程の衝撃が突然に車を襲ったかと思うと、次の瞬間には水色に何処までも広がる砂漠の遠景を自らの眼下(、、)に三人は収めていた。
「あァ~、これは俺でもヤバいって事、分かるよ。これがロサンテクノロジーってやつかな?」
余りの現実感のなさに感覚がおかしくなってしまったのか、必要以上に軽口風の言い回しで助手席の男は大きく首を横に振る。それに対して運転席の男は動転から水面へ浮かんできた魚のように口をパクパクさせているだけで何も答えることが出来ない。
ヴェラはただ、膝を胸の前で抱えたままで震えていた。
「子供が頼めば英雄だって怪物だって頼みを聞いてくれるかもしれねぇ。ヴェラちゃん、とりあえず頭を守れェ。防災ずきんの出番だ~ぁっはっはは」
気が狂れてしまったのか助手席の男は笑って言うが、勿論車内に防災ずきんなど存在しない。
咄嗟にヴェラは頭を守るように抱え座席へ蹲ると、全身に恐れていた浮遊感が襲いかかってくる。噴出していた砂柱が無くなったのだ。
落下を始める車内には助手席の男の狂った笑い声が充満し、ヴェラは固く目をつぶって直ぐに訪れるであろう途方も無い衝撃に備える。
鉄の呆気無くひしゃげる音がヴェラの鼓膜へ届くのと同時に、男の笑い声がパタリと途切れた。そして、全身へ広がる意識が飛んでしまいそうな程の衝撃――――。
大破した車内で不思議な事にヴェラは生きていた。全身へ泣き出しそうなほどの痛みが纏わり付いていたが、あの高さから落下したというのに意識ははっきりとしている。
「…………大丈夫か、ヴェラちゃん」
今にも消え入りそうな声に、ヴェラは自分が何故生きているのかを悟った。自分の身体を運転席に座っていた男が全身を使って包んでくれていたのだ。
「お、お兄ちゃ――」
「いいか、ヴェラちゃん……ここから這い出して必要なモノを持ったら一人で『トウト』へ向かうんだ」
「でも、お兄ちゃん達と一緒に……」
「お兄ちゃんな、身体の感覚がもう全くないんだ。正直……何で話せてるのかも解らない。あと、前の席は、見ちゃダメだぞ……もう誰もいない(、、、)、からな」
切れ切れと話す男の言葉にヴェラは震えながら頷く。この状況下においてどうするべきか解るはずもないヴェラには頷くしか方法がなかったのだ。
「いいか……ヴェラちゃん、生きろ。何としても生きるんだ……孤独は敵じゃない、寂しかったら泣いてもいい。でも……死んじゃうのだけは、ダメだ……」
再び自分の言葉を聞いて頷いたヴェラを見て僅かに男は頬を綻ばす。
「おかしいな……自分を殺した、砂漠だってのに……こんなに、綺麗に見えるなんて……」
静かに様々な抑揚を含んだその言葉を最後に、男の浅い呼吸音は完全に聞こえなくなった。
動かなくなった男の腕の中でヴェラは声も出せずにしばらく泣き続けた。どうして自分はこんな目に遭っているんだろう。村の大人達を恨みさえした。だがこのまま泣き続けていても状況が変わらない事を彼女は解っている。
一頻り泣き終えたヴェラは唇を噛み締め男の腕から這い出た。
後部座席の後ろへ積み込まれていた荷物から持てる限りの必要物資を持つと、車内を再び這ってヴェラは外へと脱出する。
砂の上で腹ばい状態のヴェラ。そんな彼女の視界には一面に地平線まで広がる水色の砂漠が映り込んでいた。
途方もないその景色に、何て綺麗で残酷な場所なのだろうと、ヴェラは胸が詰まる思いを感じながらゆっくりと立ち上がる。
星の見えない暗い空の下、目的地は未だ見えない。僅かな風に乗って空を漂う淡い砂の粒子に背中を押され、幼いヴェラは『トウト』へ向けて歩き出した。
※
幼少期の夢を見ていたヴェラが意識を取り戻したのは全身が小刻みな振動によって揺さぶられた時だった。
夢から覚めて目を見開いたヴェラが最初に目にしたものは、無骨な鉄板の天井へ幾重にも走る鉄製の細いパイプの数々。ヴェラは軋む上半身を起こしながら薄暗い辺りを見回した。
どうやら自分は漁船の船室のような狭い部屋でベッドに寝かされていたらしい。
室内には自分が今座っているベッドの他に目立った家具はなく窓もなかった。
鈍い痛みを感じてヴェラが両手の平へ視線を落とすと、火傷した部分には包帯が巻かれている。
どうやら気絶する直前に目の前へ現れた女性二人は少なくとも現時点ではヴェラ達に対し明確な敵意はないらしい。
そこまでの現状を確認してヴェラは同じ室内にバンタがいないことに気付いた。
心がざわつくのを感じて彼女はベッドから立ち上がるが、それと同時に部屋のドアが乱暴に開かれて白の旅装に身を包み頭にターバンを巻いた男が室内へ入って来た。
「気が付いたなら丁度いい。マダム・モートがお前に会いたがってんだ、付いて来い」
そう言って部屋を先に出て行く見た目は商人のようだが口調は盗賊のような粗雑な男に、ヴェラは現時点で抵抗するのは得策ではないと判断して無言で男の後に続き部屋を後にする。
すると、部屋の外には無機質な鉄製の通路が左右へ緩やかに曲線を描きながら伸びていた。頭上を見上げると天井も低く意識を取り戻した時から継続的に感じている微弱な振動から、ヴェラは自分が何かしらの乗り物に乗せられていると判断した。
冷静に周囲を分析するヴェラに気付いた様子もなく、男は振り返りもせずに通路をどんどん先へと進んで行った。そんな男の後に付いてしばらく歩いていたが不意に通路の少し先に円形の窓をヴェラは見つける。
思わず窓へと駆け寄って外を眺めると窓の外には地平線まで広がる水色の砂漠が変わらずに存在し、さらにそこから見える直下の光景に視線を向けると、自分は今、砂漠の上をホバー機能で走行する大きな船に乗せられている事が解った。
やっとヴェラの行動に気付いて戻って来た男の呼びかけに答え再び通路を歩き始めると、数分も経たずに少し広いスペースへ男とヴェラは辿り着いた。
自分が歩いてきた通路の向かい側にも同様の通路があり、どうやら左右の側面に沿って通路は存在しているようだ。ヴェラはその合流地点ともいえる場所に辿り着いたらしい。
ニ十メートル程の広さがあるこのスペースの奥側の壁には両開き式の鉄製の扉が設置されている。男が扉の横に備え付けられた網膜認証システムに顔を近付けると、緩慢な速度で鉄製の扉が鈍い音を響かせて左右へと開いた。
「入れ」
男が扉の中を顎で指したのを見てヴェラはゆっくりと開いた扉をくぐって薄暗い室内へと足を踏み入れる。
すると、室内はアラビア風の装飾が施されておりヴェラは瞬時にここが男の言っていたマダム・モートの部屋だと悟った。そして、無意識に身構えるヴェラをあざ笑うかのように扉が音を立てて今度は閉まり始める。
彼女は一瞬、扉が閉まる前に室内から脱出するべきか考えたが、部屋の最奥部に鎮座する異質な気配に気が付いて警戒を解かないまま扉が閉まるのを眺めていた。
やがて扉が完全に閉まると室内の照明に明かりが灯り部屋全体が照らし出される。
ヴェラは気配で感じた通り部屋の最奥部の一段床が高くなった絨毯が敷かれている場所に、胡座をかきながら瞑想している見た目四十代程の女性を見つけた。
この女性は何者で、敵意はあるのか。ヴェラは不意に攻撃を受けても対応出来るように相手を注意深く観察しつつ腰を落として瞑想を続ける女性に対して身構えた。
目を閉じたまま動かない女性――マダム・モートは、日に焼けた茶色いパーマがかった髪を肩まで無造作に伸ばしている。そして、スレンダーな身体には首元が鋭利なカットデザインの黒シャツを着て橙色のサルエルパンツを履き、彼女の太ももの上へ置かれた両手には、無数のマメや傷跡が存在しそれは荒事にも対応できる能力があるとヴェラに推測させるには充分であった。
部屋に入って来たヴェラへ反応せず黙々と瞑想を続けるマダム・モートに彼女はどうするべきか判断に迷っていると、不意に横から聞き慣れた弱々しい男の声が聞こえてくる。
「……君、無事だったんだね」
ヴェラを気遣う聞き覚えのある言葉に彼女は眼球だけを動かして横を向くと、そこには奇抜な模様のベッドに寝かされたバンタの姿があった。
「君じゃなくてヴェラ。お互い命を救い合った仲だし、そろそろ少しは歩み寄ってもいいんじゃない?」
「――――互いに命の恩人同士とは面白い関係だねえ」
突然のハスキーボイスにマダム・モートへ素早く視線を戻すヴェラ。どうやらバンタは身体が動かないのか意識は彼女と同じ方向へ飛ばしているが、顔はヴェラを向いたままだ。
いつの間にか目を大きく開いて茶色い瞳で二人を舐めるように見やるマダム・モート。そんな彼女の姿にヴェラはいざとなったらバンタを守ろうと、警戒しつつ彼の側へと移動して行く。
「あたしが危害を加えようとしたらその坊やを守ろうって寸法かい? えぇ、嬢ちゃん」
愉快そうに見た目よりも遥かに老けた口調で笑うマダム・モートにヴェラは一層警戒心を強めた。特に縛られる事もなく傷の手当てまでされていたが、ヴェラにとってそれが相手を敵ではないと判断する理由にはならない。
自分へ敵意を向けるヴェラの様子にマダム・モートは唐突にサルエルパンツのポケットからヴェラの拳銃『ゴモラ』を取り出すと、
「ほら、これ嬢ちゃんのだろう?」
そう言って無造作にヴェラへ向かい拳銃を放り投げた。突然、自分の愛銃を放られたヴェラは戸惑いつつもゴモラを受け取ると、瞬時に構えて銃口をマダム・モートへと向ける。
「狙いは何……?」
「はぁ……アンタも疑り深い嬢ちゃんだねえ。そんなんじゃ、あと数年も経たずにあたしよりも皺くちゃになっちまうよ?」
諭すように言葉を投げかけてくるマダム・モートの真意が読めず、拳銃を構える手に思わず力が入ってしまうヴェラ。
「私達を助けてくれたのにはお礼を言うけど、わざわざ私達を助けたのは何故? メリットが私には解らないわ」
ヴェラの頑なな態度にマダム・モートはがっかりしたような顔で大きく溜息をついた。そして、彼女はあろうことか銃口を向けられているにも関わらず胡座を解いて絨毯の上へ横になり寝そべると、しまいには大口を開けてあくびをし両目を涙で湿らせる。
「なんでそう、メリットとデメリットの天秤へ全ての物事を賭けないと人が動かないと思うかねえ」
退屈そうに言葉を続けるマダム・モートは頬へ滴り落ちた涙の雫を指先で拭った。
「アンタ、自分の銃に愛称を付けてるそうじゃないか。今、ウチの倉庫で保管してる大きな銃が……ソドム、 だったっけ? じゃあその拳銃の名前は何ていうんだい?」
「…………ゴモラ、だけど」
「じゃあ嬢ちゃんに聞くが、その無機物に名前を付ける事に何の意味があるんだい?」
自分が相手を問い詰める立場だったはずなのにいつの間にか質問を質問で返される事態となった事に、ヴェラはベッドで動けないでいるバンタを瞳に非難の色を浮かべて睨み付けた。何故なら、自分が愛銃に名前を付けている事は今のところケイかバンタとベンケイ以外は誰も知らないはずだったからだ。
「君が起きるまでの話し相手にされてたんだ、話さなきゃ殺すって」
「何でよりにもよってそんな話を」
ご立腹のヴェラにバツの悪そうなバンタの様子を見てマダム・モートは横になったまま静かに笑う。
「これであたしの考えが通じたと思うんだがねえ……別にメリット、デメリットの観点だけで助けたわけじゃない。あたしが助けたかったから助けたのさ」
世の中が砂漠に覆われつつある過酷なこのご時世にそんな突飛なことを平然とのたまってしまうマダム・モートへ、ヴェラは一種の尊敬の念を不覚にも感じてしまった。
勿論、まだ相手が言ったことを完全に鵜呑みにしたわけではなかったが、彼女が言っている事が本当だとしたらその行いは聖人のそれと何ら変わらない。
「分かった……一旦、アナタの言ってる事を信じる。銃を向けて悪かったわ、マダム・モート」
銃を下げて素直に謝罪の言葉を述べたヴェラに目を丸くするマダム・モート。彼女はヴェラの言葉に再び愉快そうな表情をすると起き上がってもう一度胡座をかき、勢い良く自分の膝を叩いた。
「気に入ったよ、嬢ちゃん。最近は自分の過ちを素直に謝れる奴が滅法いなくなったからねえ……最も、人間自体の数が減ってるって事もあるんだろうが。どうだい嬢ちゃん、いっそあたしの部下にならないかい?」
「……部下?」
突然の勧誘の言葉にヴェラは頭の上に疑問符を浮かべる。そもそも考えてみればマダム・モートが何者であるかをヴェラは全く把握出来ていないのだ。
にわかにもう一度警戒の色を見せるヴェラにマダム・モートは不敵に笑いながら立ち上がる。
「改めて言おう。水色砂漠で誇り高く生きる砂賊の頭領、このマダム・モートの部下として働かないかい? ロストテクノロジーの使い手、ヴェラ」
ニヤついたマダム・モートの言葉に急いでゴモラを構え直そうとしたヴェラだが、いつの間にか背後へ現れていた褐色肌の女性にあっという間に床へとヴェラは押さえつけられてしまう。
「シャレム、あんまり手荒く扱うんじゃないよ、あくまでその子らは客人だからね」
かなりの激しい勢いでヴェラを取り押さえた事にマダム・モートは褐色肌の女性に向けて釘を刺した。すると、シャレムと呼ばれた女性の隣にはこちらもいつの間にか何処から現れたのかポニーテールヘアの女性が立っていて、二人はマダム・モートの注意に小さく頷く。
「出来るだけ優しく」
「取り押さえるから」
「よし、いい子だね。シャレムはそのまま嬢ちゃんを押さえときな。シャヘルは坊やを見ときなよ」
取り押さえられたヴェラは激しい怒りを含んだ目でマダム・モートを睨んだ。だが、対するマダム・モートは涼しい顔でヴェラを見下ろしている。
「アンタが入ってくれたらこれからの活動が随分楽になるんだけどねえ」
「誰が盗賊なんかに」
「誓って言う」
「私達は義賊」
明確な拒絶の意志を見せるヴェラに対し反論を述べるシャレムとシャヘルだったが、その二人の意見に対してマダム・モートが困ったように首を横に振った。
「自分で義賊だなんて言い出す盗賊にはロクな輩はいないよ。アンタ等、話が終わるまで少し黙っときな」
シャレムとシャヘルは頭領直々のお叱りにまるで子供のように力なく項垂れる。一連の様子を眺めていたバンタは身体が動かない為にヴェラへ顔を向けたままながらも、マダム・モートへ一つの疑問を投げかけた。
「裏の商売をしてる奴だけを襲ってる、とか?」
「流石、坊や。鋭いねえ」
バンタの問いかけに対してマダム・モートは満足気に頷く。
「この世界に正義なんてモンは存在しない。要は、如何に自分を納得させられるかさ。あたし等の場合、その方法が狡い連中を襲って生計を立ててるってだけの事」
「それでも、盗賊には変わりない」
尚も怯まずに食ってかかるヴェラへマダム・モートは彼女の前に膝を付きヴェラの顎を強引に持ち上げて顔を近付けると、瞳孔の開きかけた瞳で呟く。
「元殺し屋紛いの会社員には言われたくないね」
その一言によって言葉に詰まってしまうヴェラ。そんな彼女へマダム・モートは容赦なく追い打ちをかける。
「アンタ等がこの期に及んでアホみたいな利益闘争をし続けるせいで、いつまで経っても砂漠に捨てられる子供が減りゃしない。そこにいるシャレム、シャヘルだってそうだ」
「ぼく達は」
「ママの子」
俯いていたシャレムとシャヘルはマダム・モートの言葉に素早く顔を上げて彼女を見た。その反応が予想外だったのか、マダム・モートはバツが悪そうに頭を人差し指で掻く。
「ああ、そうさ。アンタ達は紛れも無くあたしの子だよ」
返答に満足したのか満面の笑みで頷き合い再び顔を俯かせるシャレムとシャヘル。彼女たちの様子に気勢を削がれたのか、マダム・モートはヴェラの顎から手を離して再び一段高い絨毯の部分に戻るとさっきまでと同じように胡座をかき直した。
「なら、こういうのはどうだい? 次の一回だけアンタ達二人ともあたし等の仕事を手伝うってのは」
マダム・モートからの提案にヴェラは自分を向いたままのバンタを見る。すると、バンタはヴェラへ向けて困ったような笑みを浮かべた。
「選択の余地はないんじゃないかな……」
「もし私が断ったら?」
「その時は仕方ない。アンタ等二人をこの砂漠に放り捨てていくだけさ」
現在地も解らない砂漠に放り出される事ほど、この世界で恐ろしい事はない。未だ砂漠は着実に拡大を続けていて一度砂漠の中へ放り出されてしまえば、例えどの方角へ向かうにしても砂の終わりが一体何処にあるのか熟練者でも皆目検討もつかない時代だ。
「……分かった。アナタの仕事を手伝う。でも、一度だけよ? 一度手伝ったら私とバンタを大人しく開放して」
「よし、取り引き成立だね。シャレム、嬢ちゃんを離してやんな」
関節技から開放されて軋む関節を労るように回しながらヴェラは立ち上がる。そして、不満を露骨に示した鋭い視線でシャレムへ一瞥をくれベッドに寝かされたままのバンタの横に立つと、彼に向かって手を差し出した。
「立てる?」
「これが今は、顔以外ピクリとも動かないんだ」
バンタの答えに振り返ってマダム・モートをまたも睨むヴェラ。そんな彼女の様子にマダム・モートはお手上げだとばかりに両腕を上げて頭を力なく左右に振り、ヴェラの下からは申し訳無さそうなバンタの声が聞こえてくる。
「これはボディースーツの反動なんだ。元々動かないものをただでさえカバーして動かしてるのに、さらに限界までボディースーツを酷使したから」
「アイツ等に毒を盛られたとか、そういうのじゃないのね?」
「助けた相手に毒盛ってたら無駄な手間だろ? あたし等の事を少しは信用してほしいねえ、全く」
「ぼくたちは」
「敵じゃない」
背中へ飛んでくる砂賊一党の言葉には答えずにヴェラはベッドの横へしゃがみ込むと、指先がピクリとも動かないボディースーツに包まれたバンタの手を両手で優しく握った。
「ベンケイさんとの約束はちゃんと守るから、安心して」
一方、手を握られ真摯な言葉をかけられたバンタは握られた手の感覚はなかったものの、突然の出来事に顔が熱くなるような感覚に襲われる。出会い方は特殊過ぎたとはいえヴェラはバンタを含めて大勢の男が彼女を見たら間違いなく美人だと答える程のルックスとプロポーションを持った少女である。
だが、自分の手を握るヴェラの両手に包帯が巻かれている事に気付くと、バンタは上がってきた血の気が一瞬で引いていくのが解った。
白い丘に見間違うかのようなサイズの鯨から逃げる為に結果的には自分も命を張る事態となってしまったバンタだったが、そもそも彼は当初この旅を適当な場面でリタイアするつもりでいた。
しかしケイの襲撃の所為で、前準備なしでの出発を余儀なくされた上にリタイア不可の前途多難な旅へなし崩し的に身を投じざるを得ない状態に陥ってしまったバンタ。
彼は最初から命を賭けて世界を救う旅をする気など毛頭なかった。そして、大きな危機を一つ自分の力で乗り越えた今も、その気持ちが変わることはない。
五年の月日を経てバンタの心は自分でも把握しきれないほどに捻じ曲がり歪んでしまっていた。
おそらくは幼少時、何の不安もなくただただ希望と輝かしい未来を夢見ていた反動だろう。当時は声援や期待も全て力へと変換する事が出来ていた。
そんな突き抜けるほどに前向きな人間ほど、挫折した時の絶望は深い。ましてや、物心付いた時から自分の面倒を見てくれていた人間に裏切られたとあれば尚更だ。
希望に燃えていた当時、バンタは死に対して大した恐怖感を持っていなかった。自分は必ず世界を救う救世主となるはずだし、仮に志半ばで果てようとも、それは名誉であるとすらバンタは子供心ながらに考えていたのだ。
しかし実際、死を隣人として間近に感じその腕で両足を掴まれた瞬間、バンタの精神は見るも無残に足場から崩れ去ってしまった。
今、そんな自分の動かない手を痛々しい両手で握りながら目の前の少女は世界救済の重圧にも負けず、さらにはお荷物でしかないバンタを守ると言った。その感覚をバンタは羨ましくも、また恐ろしくも感じた。
何故、絶望を体験しても尚、彼女は気丈でいられるのか。何故、足掻いても奪われる現実に少女と父親は何度も立ち向かおうとするのか。何故、抗うことで命すら失ってしまう危険があるにも関わらず彼女達は戦う事をやめないのか。
――――何故、何故、何故、何故、何故…………?
事実、ベンケイの安否を二人は知らないしその事について口に出す事もなかった。もしかしたら既にベンケイはケイの手によって始末されているかもしれない。
裏を返せばヴェラはバンタにこれだけ酷い目に遭ったにも関わらず、挫けずに一緒に先を目指そうと諭してきている。
長い思考の末にネジ曲がった解釈をしたバンタは自分からの返事がない事を不思議に思い、顔を近付けて来ていたヴェラへ聞こえないよう、ほとんど吐息にしか聞こえない言葉を吐き出した。
「…………僕は、絶対に嫌だ」
「どうしたの、急に黙りこくって。大丈夫……?」
「僕のこの状態なんだけど、充電と食事が出来れば治るから」
ぼんやりとしていたバンタからやっと返ってきた返事にヴェラが直ぐ様後ろへ振り返る。
「マダム・モート、何よりもバンタの治療を再優先にしたいんだけど」
「お安いご用さね。シャレム、シャヘル、坊やを食堂に連れてっておやり」
マダム・モートの命令を受けて待機していたシャレムとシャヘルが機敏にバンタを抱え上げると、焦ったような表情を浮かべる彼をよそに扉を開けて二人でバンタを担ぎ上げたまま軽快なステップで部屋を出て行く。
三人が部屋からいなくなるとヴェラも外へ出ようと出口へ向かうがその背中へマダム・モートが制止の声をかけた。
「ちょっと待ちな」
「……まだ何かあるの?」
「嬢ちゃん、あの坊やを何処まで信用してるんだい」
「信用も何も、アイツはベンケイさんの息子よ。守るように頼まれてる私からすれば、そんな事は大した問題じゃない。もっとも、少しは信用出来るとは思うけど……」
毅然と言ってのけ最後には少し相手を褒めてみせるヴェラにマダム・モートは驚きの表情見せる。
そんなマダム・モートをヴェラは怪訝そうに見やるが、やがてマダム・モートから体感したことのない冷え切った何かを感じ取り思わずヴェラは少し後退った。
「何、急にどうしたっていうの」
「いいかい、嬢ちゃん。あの坊やから目を離すんじゃないよ。多分坊やは、嬢ちゃんが考えているよりも厄介な歪みを抱えてる」
「……歪み?」
ヴェラは引っかからざるを得ない言葉を思わず復唱してしまうがマダム・モートがいつの間にか何事もなかったかのように飄々とした顔に戻ると、立ち上がって強引にヴェラを引き寄せて肩を組み楽しそうに彼女を引き摺って歩き始めた。
「仕事まではまだ時間があるんだ。船を案内しよう」
「でも、バンタが」
「心配いらないよ、シャレムとシャヘルが付いてる。この船内であたしの次にあの子らがしっかりしてるからね」
あまり気乗りしないヴェラを強制的に引っ張ってマダム・モートは部屋の外に広がるスペースへ出ると、正面に見える昇り階段へ向けて大股で向かって行く。
「屋外デッキへ上がればこの船全体が見渡せる。どうだい、付いてくるだろう?」
出来ればバンタの所へ行きたいと考えていたヴェラだったが思わぬ提案に不覚にも惹かれてしまった。
船の全体像が把握出来れば脱出の時に役に立つかもしれない。
ヴェラは頷くと後に続いて階段を登り、先にマダム・モートがドア式のハッチを開けて屋外デッキへと上がって行く。その際に差し込んできた陽の光に驚いてヴェラは階段の途中で立ち止まり思わず顔を背けた。
警戒しつつ改めてヴェラは上を見上げ絶え間なく注がれる日光を腕で遮りながら、ハッチの外へ向かいゆっくりと一歩ずつ階段を上って行く。
そして屋外デッキへ出たヴェラは眼前に広がった景色にしばらく言葉を失った。
ウッド調のデッキへ上がり周囲を見渡したヴェラが見たのは、地平線と空の境界があやふやになっている光景だった。その遠景は雲一つない青空と水色の砂漠が混じり合って上も下もなく世界が何処までも続いているかのように見える。この空間にとって邪魔者は砂漠を割って進む自分達なのではないかと錯覚してしまう程に、ヴェラの目の前に広がった光景は果てしなく、そして幻想的であった。
「……いいもんだろう?」
言葉を失くしたまま立ち尽くすヴェラへまるで自分の宝物を見せびらかした子供のような顔でマダム・モートは目尻にしわを寄せた。
「私はもうこの砂漠を見て、二度と綺麗だなんて言わないと思ってた。でもまた、綺麗だって思うなんて……」
複雑な表情で地平線を眺め続けるヴェラへマダム・モートは何も言わなかった。ただ彼女を、子を見守る親のような眼差しで見ているだけ。
しばらくの間二人は無言のままで流れていく水色と船によって掻き分けられる砂の音に身を任せていた。
やがてヴェラの昂っていた気持ちが落ち着いてくるとそれを察したのかマダム・モートが舳先へ向かって走り出す。ヴェラは前方へ駆け出して行ったマダム・モートを黙って見送ったが、船首へ辿り着いた彼女が振り返り自分へ向かって手招きをした為、ヴェラもマダム・モートを追って船首へ向かった。
「こっから見ればあたしの家が一望出来るのさ」
同じように船首へ辿り着き後ろを振り返るヴェラ。マダム・モートの言葉通り舳先からは彼女が『家』と呼んだ船の全形が一望する事が出来て、ヴェラはまたも感嘆の息を漏らした。
「まるで砂漠に浮かぶ方舟ね……」
「そりゃあ、似てるのはウッドデッキだけだね。船自体は木製じゃないし、方舟にしては船底に取り付けたホバー機能の浮きが不釣り合い過ぎて目も当てられないよ。おまけに……乗組員は全員捨て子や孤児だしね」
茶化すようにマダム・モートが言う横でヴェラはこの船にかつての『トウト』の匂いを感じていた。
水色砂漠へ呑み込まれようとする世界で砂漠に抗うのではなく順応し、砂の上を航行する方舟。ヴェラは新たな可能性を感じずにはいられなかった。
「マダム・モート、この船はまだ何処かで手に入れられるの?」
「あたしがコイツをかっぱらった時には軍の基地に何隻もあったが、今やその基地は砂の下だからねえ」
「そっか……」
もしかしたらとヴェラは期待したがマダム・モートの返事はある程度予想できた答えだった。
ヴェラはこの旅を終えた後に持ち帰ったろ過機を搭載した方舟で世界を航海する自分を脳裏に思い描いたが、その夢は早々に砕けてしまう。
そして、ロストテクノロジーについて記憶を掘り起こした事により、ヴェラはある事を思い出し焦った様子でマダム・モートの手首を掴んだ。
「私のソドムは何処?」
「ああ、あのデカい銃なら倉庫にしまってあるけど」
「空がこんなに晴れるなんて滅多にないから」
「おい、何だい急に!」
ヴェラはマダム・モートの疑問を置き去りに舳先から開きっぱなしになっていたハッチへ向かい足早に階段を駆け降りて船内へ戻る。
目的は愛銃『ソドム』を充電する為だ。
丁度近くにいた先程の男に倉庫の場所を聞き、通路を船の後部へ向けて駆け足で進んで行くヴェラ。通路の内側には規則的に幾つものドアが設置されており、その中でも大きめの両開き式のドアを見つけると、ヴェラは中を覗いて内開きのドアを開ける。
広い室内には様々な生活用品や必需品が棚に並べられている中で置き場所に困ったのか、ヴェラのソドムが棚の側面に立て掛けられていた。
しばらくぶりの再会にヴェラはソドムを抱き上げて愛しそうに頬ずりをし、再び屋外デッキへ向けて走る。通路を抜け階段を駆け上がったヴェラがデッキへとんぼ返りすると、何故かそこには不機嫌そうなマダム・モートが舳先に胡座をかいてヴェラを睨んでいた。
「あたしを置いて行ったね……?」
「え、ええ……置いていったけど」
「あたしがこの世で一番嫌いなモノを教えてあげよう。それは、あたしを独りぼっちにする奴さ」
「…………え?」
四十を越えているはずのマダム・モートの耳を疑う言葉にヴェラは間の抜けた声を上げてしまう。しかし、相手を糾弾する至って真剣なマダム・モートの眼差しに、ヴェラはもう一度今の言葉を聞き返さずにはいられなかった。
「つまり、マダム・モートは独りが嫌いって事?」
「そうだが、何か変かい?」
独りが嫌だという点についてはヴェラも特に反論はない。自分自身も村を失って耐え難い孤独を味わった過去がある。だが、こうも面と向かって孤独が嫌いだと胸を張られると、しかも加えて相手が歳上とくれば、どうしてもヴェラは何かしらの可笑しさを感じずにはいられなかった。
必死にこみ上げてくる笑いをヴェラは寸前で堪える。目の前には大真面目に自分を非難するマダム・モートがいるのだ、ここで笑ってしまったらヴェラは船外へ放り出されてしまうだろう。
ジリジリと詰め寄ってくるマダム・モートの気配に俯きながら少しずつ逃げようとしていたヴェラは、堪え切れないと諦めてしまいそうになった時に、服を着直してデッキへ現れたバンタを発見して、渡りに船とバンタに向かって逃走した。
「バンタ、動けるようになったのね!」
必要以上に高いテンションで迫って来るヴェラに若干たじろぎながらも、バンタは照れくさそうに頭を指で掻きながらヴェラへ向けて口を開く。
「おかげ様で助かったよ。ありがとう……ヴェラ」
初めて名前で呼ばれた事に立ち止まりキョトンとするヴェラ。
「命の恩人同士だろう? そろそろ歩み寄らなきゃなって、僕も思ったんだよ」
「そ、そう! じゃあ改めてよろしく、バンタ」
お互いに慣れないのか二人共相手から目を逸らしつつ頬を染めてそわそわとした空気に包まれるバンタとヴェラ。
そんな二人の間を、驚いた表情をしたシャレムとシャヘルが大袈裟に音を立てながら横断して、マダム・モートへ駆け寄って行く。
「僕、驚いた」
「私も驚いた」
「相変わらずタイミングを読まないねえ、アンタ等二人は。それで何に驚いたんだい?」
マダム・モートの前半の言葉には何を言っているのか解らないといった顔の二人だったが、後半の問いに対しシャレムとシャヘルは二人同時にそわそわとした空気から開放されて舳先へ向かって来ていたバンタを指さした。
「ご飯食べたら」
「身体が光った」
恐らくボディースーツの事を言っているのであろうシャレムとシャヘルの説明に、マダム・モートは目の前で立ち止まったバンタの全身を眺め見る。
バンタはヴェラが意識を失っている間にマダム・モートへ希望していた新しい白の長袖シャツを着て黒のパンツを履いていた。特にその格好や身体に違和感はなくマダム・モートはもう一度説明を求めようとシャレムとシャヘルへ視線を向けるが、事態を把握したバンタが胸の辺りを拳で軽くノックする。
「このボディースーツは僕の生命維持にも干渉してるので……再起動したスーツに二人が驚いたんです」
「はあー、最近の科学ってのは腐っても発達してんだねえ」
感嘆の声を上げるマダム・モートはバンタのシャツを捲り上げて彼が着ているボディースーツをまじまじと眺めた。その後ろでシャレムとシャヘルも興奮した様子でバンタを観察していたが、このままではキリがないと判断したヴェラがソドムをデッキへ置いて短く深呼吸をする。
そろそろ自分達の目的を砂賊一党に伝えなければならないとヴェラは考えていた。
「マダム・モート。一度だけ協力する件だけど、私達にも目的地があって」
「『トウト』から南西へ五百九十四キロだろ? それもバンタから聞いて針路に織り込み済みさ。この船は今、『ナンバ遺跡』へ向かってるよ」
真面目な話を切り出そうとした矢先に内容を先読みされて肩透かしを食らうヴェラ。原因は明白でヴェラは依然全身を舐めるように見られているバンタを険しい顔付きで睨む。
「どれだけ話したのよ?」
「僕がマダム・モートの部屋に招き入れられてからヴェラの意識が戻るまでに、結構な時間があったから……」
「じゃあ逆に何なら話してないの?」
「アンタ達が眉唾のロストテクノロジーを探しに『ナンバ遺跡』へ向かってるって事以外はあたしゃ何にも知らないよ」
「…………ほとんどじゃない」
バンタの口の軽さに肩が震える程の怒りを湧きあがらせるヴェラだが、一通り吟味し終えたマダム・モートがヴェラの肩へ手を置いた事で、すんでの所で爆発は免れた。
「別にアンタ達がロストテクノロジーを見つけて何しようがあたしには関係ない。邪魔するつもりも毛頭ないよ。だから安心しな、嬢ちゃん」
「でも、そんな夢みたいな機械が本当にあったら高く売れるんじゃない?」
そう言って何度目かの警戒心を含んだ目で自分を見てくるヴェラに、マダム・モートは楽しそうに何度もヴェラの肩を叩く。
「発想が完全に盗賊のそれだよ。嬢ちゃん、もしかしたらあたし等より盗賊が向いてるんじゃないかい?」
そう言って率先してマダム・モートが意地悪く笑うと続けてシャレムとシャヘルが笑い、最後にはバンタまでもが申し訳なさそうに笑った。この四面楚歌の状態に引くに引けなくなったのか、ヴェラはムキになってマダム・モートへ詰め寄る。
「じゃあマダム・モートはあの機械を使って水色砂漠を消したくないわけ!?」
ヴェラの大声に全員が驚いて笑うのをやめるが、マダム・モートは落ち着いた表情でヴェラの肩に置いていた手を離し目尻を下げた。
「あたしは別に、それが自然の流れなら無理に抗うことはないんじゃないかと思うよ」
「なら、人間が皆、砂漠に呑み込まれても良いっていうの?」
「それが自然の流れならね。でも、人間は今までだって順応する事で生き延びてきた。今回だって、あたしゃ、人間は生き延びると思うよ? 例え地表全てを水色に覆われたってね」
何か確信めいたマダム・モートの言葉にヴェラは俯いて黙り込んでしまった。ヴェラにとって水色砂漠と共存していく事など到底考えられない。だが実際に水色砂漠の中で生きるマダム・モート達にそう言われてはヴェラも何も言う事が出来なかった。
甲板へ生じた沈黙に全員が呑み込まれかけたが、バンタは誰も話を切り出さないのを察すると唐突な話題で沈黙を破る。
「マダム・モートは水色砂漠が人為的に作られた説をご存知ですか?」
「何だい、そりゃ」
バンタが切り出した話題はその場にいた全員にとって衝撃的であり、シャレムとシャヘルを始め俯いていたヴェラまでもがバンタへ注目の視線を向けた。しかもヴェラにとってその話は昔に一度聞いた事のある話題でもある。
「ヴェラが意識を取り戻すまでに、古代人類の存在説と彼等が残したロストテクノロジーのお話はしましたよね?」
「ああ、そうだったね」
「僕達も」
「聞いた」
「これらを全て鵜呑みにした前提での説ですが、僕達が探しに行こうとしているロストテクノロジーは、水色砂漠に対抗する為の機械です。でも、大昔の地球に古代人類が生きていたとしても、少なくともその時代には水色の砂漠なんて存在しなかった筈なんです」
「あっ……」
何かに気付いて思わず声を上げるヴェラ。そんな彼女へ向かってバンタは頷くと、説明し始めた仮説の結論を述べた。
「地質調査でも過去に水色の地層が見つかった事はありません。つまり、水色砂漠は古代人類の手によって、もしくはその技術を使った何者かの仕業で、人為的に現代へ発生した確率が極めて高いんです」
「…………って事は、私の村も自然災害じゃなくて、誰かの手によって砂に沈められたって事?」
「自然災害だって元を正せば人災さ。細かく理由を述べるつもりはないが、地球で生きるって事はつまりそういうことだとあたしは思うね」
バンタの持ち出した説にマダム・モートが総括のような言葉を発するものの、デッキにいたマダム・モート以外の全員が気持ちと情報の整理に区切りがつかないのか口を閉ざしたままでいる。
辺りに立ち込める不穏な空気を感じ取ったマダム・モートは両腕でシャレムとシャヘルを抱え込むと、突然二人の髪を両手でくしゃくしゃにしてじゃれ始めた。
「ママ、いきなり」
「何するのやめて」
やめてとは言うものの満更でもない様子のシャレムとシャヘル。そんな三人の姿を見てバンタは穏やかに微笑むが、ヴェラはまだ浮かない顔で思考の海へ旅立ったまま戻って来ない。
マダム・モートはしばらくシャレムとシャヘルとじゃれ合っていたがやがて髪の毛に絡ませた手を止めると、勢い良く数度手を叩く。その音に気付いてやっとヴェラは、はっと我に返った顔でマダム・モートを見た。
「この日差しの下に長くいたら、難しくない事も難しく感じてきちまうよ。さ、全員そろそろ船内に戻ろう」
当然ながら誰も反対の声を上げる人間はおらずシャレムとシャヘルは真っ先にハッチへ向かい階段を降りて行った。バンタとマダム・モートも二人の後に続いてハッチへ向かうが、ヴェラだけはソドムを舳先のデッキへ置いたままで動かない。
「ヴェラ。さっきの話は、あくまで仮説であって決して君の村が誰かによって壊滅させられた事を言ってるワケではないから」
「うん、解ってる。私はソドムとゴモラの充電があるから、もうしばらくここに残る。いいでしょ、マダム・モート」
「…………好きにしな」
ソドムの横へ座り込むヴェラに、諦めた様子でマダム・モートはハッチへ向かった。一緒に歩いていたバンタはハッチの前で立ち止まると突然に踵を返してヴェラの横へ戻り、自分も隣に座り込む。
「僕も残ります」
穏やかなバンタの声にマダム・モートは背中越しに片手を振って船内へと降りて行った。
何故か心変わりし自分の隣に座ったバンタへ不思議そうな目をヴェラは向ける。
「何で残ったの。暑いわよ、ここ」
「解ってるけど、ヴェラとゆっくり話すなら今かなって思って」
バンタはヴェラの問いに彼女を見ないままぼんやりと青空を見上げて答えた。ヴェラにはそれがバンタのどんな気持ちを表しているのか良く解らなかったが、彼が自分と初めて腰を据えて会話をしようとしてくれた事はヴェラにとって純粋に嬉しい事だった。それに彼は砂漠での一件以来、少しずつ変わってきている気がする。
だが、いざとなると何を話したらいいのかヴェラは解らず、二人は無言のまましばらくぼんやりと上を見上げていた。
相変わらず空には雲一つ存在せず頭上には煌々と太陽が輝いている。バンタは降り注ぐ太陽の光に耐え切れなくなってゆっくりと頭を下げて足元を見た。
「今は、ヴェラの事を信じてもいいかなって思ってる」
その言葉にヴェラはバンタを見たが彼はウッドデッキへ視線を下げたままで言葉を続ける。
「考えてみたら、一緒に旅をするメリットがないもんね。僕の部屋まで来た時点で、僕達を殺そうと思えば殺せたわけだし」
「どうしてそうやって物事をメリットとデメリットで判断しようとするのか。だったかしら?」
何処かで聞いたことのある言葉にバンタは顔を上げる。案の定、マダム・モートの言葉を引用したヴェラは楽しそうに頬を緩めてバンタを見ていた。
「からかわないでよ、真面目に言ってるんだからさ」
苦笑混じりに言うバンタに優しく微笑み続けるヴェラ。出発直後にはあの途方も無い砂漠を歩いてでも自分から離れようとしていたバンタが、自分を信用すると言ってくれたのだ。ヴェラは自然と表情が柔らかくなっていた。
「私達まだ出会ってから三日も経ってないわよ?」
「でも、とんでもない密度だよ。まさか僕がもう一度部屋の外へ出るなんて思っても見なかったし、砂漠の怪物達には散々に襲われるし」
今度は苦笑抜きで小さく笑うバンタ。
「ケイにも……また狙われるハメになったしね」
「……私の小さい頃の夢はベンケイさんのプロジェクトに加わって村を豊かにすることだった。村を侵食する砂を撃退して『トウト』との交流ルートを作る。どう、素敵でしょう?」
「お互い小さい頃は身体に見合わない夢を持ってたんだね」
「世界を丸ごと救おうなんて考えてた英雄様には敵わないけどね」
多少なり自嘲めいたニュアンスを含みながらの言葉ではあったが、バンタもヴェラも互いの言葉に笑みを浮かべる。
子供心ながらに二人には当時から苦労する大人達の気持ちを汲み取ること出来た。だからこそバンタもヴェラも、幼い頃から砂漠へ打ち勝つことを夢見たのだ。
互いに何か言葉を続けようとするのだが、またも二人は何を喋ったらいいのか解らなくなった。再び現れた忌々しい沈黙にバツの悪そうな顔をして互いに目が合うと困ったように笑い合う。
柔らかい笑みを浮かべつつ指先でソドムに触れるヴェラを見て、バンタは考える。
自分が今まで感じて来た恐怖と彼女が抱えてきた苦悩を天秤にかけることは出来ない。ヴェラの苦悩はバンタの父親であるベンケイに裏切られた事から起因していると言っていた。なら、八つ当たりの罪滅ぼしだと言いつつもこの頼みを引き受けた事に後悔や戸惑いはないのだろうか。
「……ねえ、正直に答えて欲しいんだけど、ヴェラはこの確証のない旅の事、後悔してたりしない?」
バンタがヴェラへ問いかけるがしばらく待ってもソドムを見下ろしたままで微動だにしない彼女からは質問に対する答えは返ってこない。
「……ヴェラ?」
「全く」
短く重く断言するヴェラの一言にバンタは呆気に取られてしまい次に続けようとしていた言葉を失う。
「あ。でも、動機についてなら後悔してる。ベンケイさんやバンタみたいに、世界を救いたくて申し出を受けたワケじゃないし」
あっけらかんと言葉を続けたヴェラにバンタは己の卑屈さを感じずにはいられなかった。彼女はベンケイの申し出を受けた瞬間からほとんどブレずに自分の為すべき事が見えている。だが、自分は今この時においても葛藤に苛まれて直ぐにでも全てを放棄してしまいたいという気持ちに囚われているのだ。
「僕だって、世界を救いたくて了承したわけじゃない。世界を救いたいって心の底から思っていた僕は、あの爆発の時に死んだんだ。今だって……」
バンタはそこまで言って言葉を区切ると大きく息を吸って、ゆっくりと静かに息を吐いた。何かを吐き出そうとして躊躇し、バンタは喉元まで出かかった言葉を再び心の底へと呑み込んだのだ。
「…………逃げ出したい?」
しかし、呑み込んだ言葉をヴェラに優しく労るような声色で言い当てられる。
バンタは萎れた表情を浮かべて彼女を見るが、直ぐに答えを返すことが出来なかった。
隠すために喉元まで迫り上がって来ていた言葉をわざわざ呑み込んだのに、それを簡単に言い当てられてしまったのだから、バンタの動揺は当然である。
ヴェラは答えを急かさずにソドムへ手を触れながら静かにバンタの言葉を待った。すると、バンタ自身の心に決心が着いたのか、彼は耳まで紅潮させて赤裸々な心境を少しずつ吐露し始めた。
「…………ヴェラの言う通り、今直ぐにでも逃げ出したい。だって、僕の心の中には……この旅を乗り越えるために必要な物が一つも残っていないんだ。怪我と現実から逃げ続けた五年間で、僕はすっかり違う人間になってしまった。それは父さんが一番良く解ってる。だからこそ、父さんは最後の希望に賭けて僕をロストテクノロジー回収の旅へ送り出したんだろうけど、僕の中にはそもそも、旅によって蘇るような勇気や志すら残っていなかった。その点でいえば、父さんと僕は君に酷いことをした。申し訳ないと思ってる」
最後はヴェラへの謝罪でしめられたバンタの長い独白に、ヴェラは落ち着いた穏やかな動作でバンタの手へ触れる。
「でもバンタは、白い鯨を撃退する為に炎上した車へ飛び込んだ。あれは、幾ら追い詰められていたとはいえ誰でも出来る事じゃない」
「それは……ただ、死ぬのが怖かったから」
「どんな状況であっても、死のリスクを背負うのは並大抵の人じゃ出来ない。正直、私だって死ぬのは怖い」
「違うんだ、僕とヴェラとじゃ根本的に考え方が違うんだ!」
理解を示そうとするヴェラに激しく首を横に振って苛立ちを見せ始めるバンタ。
「そう、僕は死なない為に死を恐れてる。でもヴェラは生きる為に死を恐れてるんだ……」
言葉を発すると同時に堪えきれなくなったバンタの両目からは涙が溢れ出していた。
自分の中に存在していた筈の勇気や志が残っていない事に一番苦しんでいたのは他ならぬバンタ自身。旅の始まりは挫折を前提としてスタートさせたものの、心の隅では何処かで昔の自分を取り戻せるのではないかと微かに期待していたのだ。
しかし、ありのままの心境を目の前にいるヴェラへ向けて吐き出している今でさえ、バンタの思考は世界を救う事よりも死にたくないという本能的な恐怖の感情に支配されてしまっていた。
「逃げ出したい、世界なんてどうでもいい。期待がなんだ、希望がなんだ、死にたくないから逃げ出して何が悪いんだよ……」
止めどなく流れ出る涙をバンタは抑える事が出来なかった。そんな彼にヴェラは何も言わずに寄り添うとただ優しくバンタを抱き締めた。
抱きしめられたバンタは一瞬目を丸くしたがそれでも涙が止まる気配は一向にない。
雲一つない青空の下、一心不乱にヴェラの胸の中で泣き続けるバンタは周囲から誰かが目撃していたら一種滑稽にも見えただろう。だが、いつの間にか二人がいるデッキへの入り口のハッチは閉まっており、屋外デッキにはバンタとヴェラ以外誰も入れなくなっていた。
やがて、涙が枯れ果てて一滴も流れなくなったバンタはバツが悪そうにヴェラから身体を離すと、目を逸らしてウッドデッキの木目に視線を落とす。
「ごめん、情けない所を……」
「別に。私だって何回泣いたか覚えてないくらいだし」
事もなげにそう言ってヴェラは微笑むと横に置いていたソドムを抱えて立ち上がった。
「そろそろ戻ろっか。あんまり遅いとマダム・モートが様子見に来ちゃいそうだし」
「あ……ちょっと待って」
既にハッチへ向けて片足を踏み出していたヴェラは不思議そうな顔で後ろを振り向く。すると、バンタは立ち上がり喉を震わせながら両拳に力を入れた。
「これだけ泣いても、僕はやっぱり英雄願望より逃走願望の方が強いみたいだ」
「……恥ずかしがることはないんじゃない? それが何よりも正常な感覚だと思うし」
ヴェラは小首を傾げて事も無げに答える。しかし、それでもバンタは自分の中にある不安と恐怖を拭い去ることが出来なかった。
「僕はもしかしたら、命の危険を肌で感じた瞬間に次は真っ先に逃げ出すかもしれない」
「正常な人間の行動だと思う」
「僕はもしかしたら、ヴェラが危険な時に足が竦んで次は君を助けることが出来ないかもしれない」
「私がバンタを守る立場なんだから、そんな事問題ない」
「僕はもしかしたら、父さんの期待に応えられる人間にはもう一生なれないのかもしれない」
「ベンケイさんが望む人間になることだけが全てじゃない、そうでしょう?」
自分が逃げ出した時の言い訳を幾ら吐き出しても免罪符にならないことはよく解っている。だが、バンタは次々と喉元から飛び出していく弱音を引き止めることが出来なかった。
「もしかしたら僕は――――」
新たな弱音を吐き出そうとしていたバンタの口へ、不意に近付いたヴェラの唇が重ねられる。
全く予測していなかった事態にバンタは大きく目を見開いて全身を強張らせた。彼の弱音を大胆な手段で遮ったヴェラは、唇を離すとソドムを足元に置き両腕を左右に広げて見せる。
「例えベンケイさんが、世界がバンタを許さなくても、私がバンタを許す。だから一緒に『ナンバ遺跡』へ行くわよ。きっと上手くいくって」
根拠など一つもない筈なのに両腕を広げて屈託のない笑顔を見せるヴェラに、バンタは胸が熱くなるのを抑えることが出来なかった。
英雄失格の虚弱体質な臆病者でもヴェラは受け入れると、全身でバンタに向けて示してくれたのだ。
それだけでバンタは心が軽くなったのを感じた。ベンケイの息子に生まれ幼い頃から周囲の期待を背負って成長してきたバンタは、期待を裏切ってしまうことを何よりも恐れていた。そして、それは自分の努力や志とは全く縁のないケイの裏切りによって実現してしまう。
自分自身がどれだけ努力しようともそれが誰かの手によって簡単に壊されてしまう現実に、バンタは怯えていた。
世界を救おうとして死ぬ事と、部屋に閉じ篭もり人知れず死んでいく事に何の違いがあるのだろう。
独りでは答えを出す事が出来ない泥沼に嵌ってしまったバンタの心の中に、綺麗な白い手が差し伸べられていた。バンタの身体に纏わり付いた泥状の闇を振り払うかのように、その温かい光を携えた白い手はバンタの心に寄り添うように近付いて来る。
バンタは目をキツく閉じると勢い良く自分の頬を両手で挟んだ。小気味の良い音がデッキ上に響き渡り両腕を広げたままのヴェラは二度目のその行動に驚いた表情を浮かべ、バンタは顔にじんわりとした痛みを感じながら目を見開くと、真っ直ぐにヴェラの瞳を見つめる。
「――――俺、もう一度やってみるよ。父さんの為じゃなく、もう一度自分の為に」
真っ直ぐに濁りのない目をしたバンタにヴェラは優しく微笑んで片手を差し出した。そして、バンタも同じように笑うとヴェラが差し出した手を迷わずに身体でも、心の中でも握った。