壁打ちつこ部屋
煽り文句を並べ立てた事件|報道を一《 den Teppich 》掃するにもその結婚は功を奏したと聞いている。
腎、腎よ。
O the kidneys, the kidneys.
わたしの奥深き場所。
My deepest place.
わたしの動機の座。
The seats of my motives.
おまえはどこを見ているのか。
What do you look at?
おまえはなにを考えるのか。
What do you think about?
黙して語らず、おまえはなにを思っているのか。
Be silent and do not speak, what are you thinking?
腎、腎よ。
The kidneys, the kidneys.
わたしはわたしをも理解せず、おまえが上げる声なき悲鳴を、聞き取りやしなかった。
I do not understand me, nor have I heard the voiceless cries you have uttered.
愚かなわたしはおまえになにを秘したのか。
What did I, a fool, conceal in you?
黙して語らず、おまえはおまえの内にわたしを掻き抱く。
Be silent and do not speak, and you will hold me in your midst.
腎、腎よ。
You are the kidneys, the kidneys.
おまえはわたし。
You are me.
沈黙と静寂の内に、おまえはなにを思うのか。
What are you thinking about in the silence and stillness?
わたしに隠した、わたしの気持ちを知らせてほしい。
I want you to tell me about my feelings that I have concealed from me in you.
腎の澱 作詞者不詳
lees of kidneys
記憶に残っているのは頭蓋骨がはまった壁だった。
人骨が埋め込まれた茶色のレリーフ。
表現されているのはとある無益な戦争についてで、実際の被害者の遺骨が用いられているとの説明を受けた。
ひどくグロテスクで、けれど目を逸らせない。
それを見たとき僕はまだ幼くて、人が死ぬことについて深く考えたことがなかった時期だった。
仕事で世界中を飛び回っていた父と共に訪れた中で、一番強烈な印象として脳裏に刻みつけられている。
人は、死ぬ。
そして世界のどこかでは今この瞬間も誰かが殺されたり殺したりしている。
他人事としてただ退けるには小さな僕にとって衝撃すぎる事実だった。
自分がいかにちっぽけで、無力で、物知らずであるかを思い知ったのもそのときだ。
僕はいくらか自罰的な傾向を示すようになったと思う。
なにもできない、けれどなにかを為したいという渇望が僕の中に生じた。
僕の手の中にあるのはなんだろうと考えるようにもなった。
父のように優秀じゃない僕が自信を持って言えることはなんだろう。
多くの物事を見聞きして少しだけ斜に構えた子どもだった僕は、偉大な手本や情報を前に萎縮してしまって、なにかを選び取ることもできないでいた。
けれどあるとき、幼少期に長距離移動を繰り返した経験が、とても単純なことを僕に気づかせた。
「車が好き」
それはまるで平凡な家庭に育った子のようにありふれた嗜好で、自分でもあっけにとられるくらい素朴な気持ちだった。
そしてそれが僕自身の始まりとも言えるのかもしれない。
現地の案内人が運転する大きな車に乗って砂埃の舞う悪路を踏破したのは、不安ながらもわくわくするような体験だった。
おとなしくて手がかからない僕が述べた言葉に、父は後日その「大きな車」の十八分の一ミニチュアを取り寄せてプレゼントしてくれた。
白と茶のツートーンカラーのそれはランドクルーザー50で、父の当時の愛車でもあり、とても嬉しかった。
そのことは今でもずっと僕の心を牽引している。
幼少期をそうした特殊な環境で過ごしたお陰で、外国語への抵抗がなくて学生時代の成績はわりと良かったし、両親は愛情深くもそこそこ放任主義で、僕が進むべき道についてとやかく言うことはなかった。
小中高と無難に過ごし、人生を大きく方向づけることになったのは大学生のときだった。
家庭教師をした方がずっと実入りがいいのはわかっていたが、車好きが昂じて学生の間みっちりとガソリンスタンドで働いた。
初めてのバイトで右も左も分からないところから、出勤の挨拶が「(おはようご)ざいまーす」となるまでに一年かからなかった。
先輩方はみんな同じように車好きな方ばかりで、なんでも吸収しようとする僕へいろいろ教えてくれたし、働いてお金を稼ぐということがとても大変で、ときには理不尽な目に遭ってもぐっと堪えなければならないことも学んだ。
親のありがたみを深く実感し、初バイト代で欲しかったBlu-rayDiscと、両親へのプレゼントを買った。
お店の人に勧められた、少し高級なハンドクリームと小さな石のブレスレットに対する母の喜び方は尋常じゃなくて、たじろいだものだ。
父は単身赴任中だったけれど、迷いに迷って贈ったガラスペンを受け取り『うれしい』『ありがとう』のメッセージスタンプを送ってきたので、かなり喜んでくれたのだろう。
きっと二人には好みに合うかどうかではなくて、『息子がバイトの初給料で買って贈ってくれた』ということが重要なのだ。
バイト代を貯めて運転免許を取りに行き、取得後すぐに買ったのは十二万キロ走った八万円の中古軽自動車だった。
父は置いて行った二台目の愛車である白いランドクルーザー60を好きにしていいと言ってくれたが、車体を汚したりぶつけたりしたくなかったので運転練習用に購入したのだ。
あえて車体が小さいものを選んだのはどんな車でも乗りこなせたらかっこいいと思ったからで、多少傷がついても構わないという気持ちでどんどん運転や縦列駐車の練習をした。
軽自動車に乗車中ランドクルーザーが真横に来る威圧感も覚えて、自分はなるべく車高の低い車の隣には並ばないようにしようと決意もした。
もちろん軽自動車の運転に習熟したとしてもランクルを乗りこなすことはできない。
平日は軽を用い、休日はランクルで出かけるという生活に落ち着いた。
母を乗せて遠方のショッピングモールへ行くこともあったし、友人たちとキャンプに行くこともあった。
やがて車高や車体の大きさの違いによる感覚のブレも飲み込めたし、運転できるようになって改めて僕はランドクルーザーが好きだと実感した。
どちらをより運転したいかと問われると、圧倒的に周囲を見渡せるランクルの方だ。
それはもちろん僕の体つきに合うのがどちらかといえばそちらだ、ということもあるけれど、フロントガラスを通して見える世界が、子どものころに抱いたわくわく感を伴っていつでも僕の心を爽やかにしてくれたし、その景観の中を自分の意志で移動できるというのはすばらしいことだった。
次はこの車でどこへ行こう、と素直に思えるのだ。
ときどきひとりで出かけることもある。
海岸線沿いの国道をひたすら走って海の青を追いかけたこともあるし、曲がりくねった山の峠道の深い緑もたどった。
ランクルが見せてくれるすべての風景は切り取られた写真のようで、けれどどこまでも続いている。
その先が見たくて、遠くへ、遠くへ、と走るのは、僕にとって美しい時間だった。
大学生生活が二年を経過したころに僕はバイトリーダーになっていて、職場での実務経験により三級の整備士資格を取得していた。
資格はあって困るものではないし取れる状況だから取ったのだが、そのことで僕は大学卒業後の進路について悩むようになる。
就職先としての選択肢は多い方ではあったけれど、僕は迷わずにトヨタ社に狙いを定めていた。
その中でもSUVを扱う部署に行けたらなおのこといい。
ランドクルーザーは僕の中に根付いていて、動かしようがなかった。
ただ、そのまま卒業してたとえ入社できたとしても販売に携わることになるのではないかと思われた。
もちろんそれはうれしいことだけれど、やはり車を直接触る仕事がしたかった。
父にメッセージで『整備士の専門学校に行きたい』と告げるとすぐに電話がかかってきた。
志望動機を問われて「ランクルいじりたい」と僕が言うと、父は笑った。
やがて僕は志望通りの進路をたどり、大学卒業後に整備士専門学校に入校し直して学んだ。
わがままを容認してくれた両親には感謝してもしきれない。
在学中に二級整備士資格を取得できて、それを持って本命一本の就職活動に臨んだ。
念願のトヨタ社の面接は、人生でこれほどまでに緊張したことは他にないほどで、落ちたら来年また受ける覚悟はできていた。
けれど無事に、新社会人としては少し年かさの整備士として採用してもらえてほっとした。
その日の夕飯は僕の好物ばかりが並んだ。
順風満帆の生活にしばらくは満足していた。
忙しくて以前のように遠出することも難しくなったけれど、その状況すら僕が望んで得たものだ。
けれど休日にランクルを触っていて、僕の中の言い様のない焦燥感が「このままではいけない」と叫ぶようになった。
それは多少なりともストレスはあれど、安らかな生活へと繰り返し与えられる内なる警告で、幼いときに見た茶色のレリーフに端を発しているに違いない。
ああ、僕はただ好きなことをして生を紡いでいる。
それは決して悪いことではない。
そう思いつつも、抱いていたのはまさしく罪悪感に他ならなかった。
子どものころに見た、聞いた、名も記憶されずに死んで行く人々のことを思い出す。
だからといってなにか大きく生活を変えたり、自分探しの旅に出たりするわけでもない。
僕は僕なりに謙虚であろうと心がけて毎日を過ごした。
変化のきっかけは、友人のひとことだ。
僕は二十九歳になっていた。
「覚えてるか、変人で有名だった医学部の土田。
あいつ、今スーダンに居るってよ」
同じ学び舎に通っていたのだとしても、そもそも学部が違うので名を言われてもすぐには思い出せなかった。
大学生協ですれ違ったときに「あいつ、土田だよ」と友人に耳打ちされたくらいの距離。
なぜそんな扱いを受けているのか興味もわかずに通り過ぎたが、その彼はとある国際的な医療集団に合流したらしい。
「『変人』は健在なんだなあ」
そう笑った友人の言葉に僕は賛同はしなかったけれど、一般的な感覚はもしかしたらそういうものなのかもしれない。
後進国で、紛争地で。
医療の手が足りない場所があればどこにでも向かう団体で、名称は聞いたことがあったし、その活動についても一般的なことは知っていた。
けれどわずかでも見知った人がそこに属しているというのは、とても不思議な感覚で僕は驚いてなにも言えなかった。
その組織について調べてみようと思ったのは好奇心からだ。
多少なりとも真っ直ぐではない道をたどった自覚がある僕は、『変人』土田はどんなあぜ道を行ったのか、ということに興味を持った。
そして心の警鐘が鳴り響いてもいた。
土田は、誰かの命のために行動している。
じりじりと、自分を費やさない生き方をしていることに僕は良心の呵責を覚えた。
公式サイトでの応募要項は、医師へかなり高度な技術力と実務経験を要求していた。
知人の知人程度の存在である土田の専門がなんなのかを僕が把握しているわけがないし、彼が大学後にどんな経歴を持ったのかも同様にわからない。
けれど少なくともその要項をクリアできるだけの優秀な人物だということで、僕は感心しきって彼のことをもっと知りたいと思った。
それがある意味僕の運の尽きでもあったし、声を大にして自分を褒め称えたいことでもあるのだ。
僕は本当に出来心みたいなやんちゃさで、トップページで案内されていたWeb説明会に申し込んだ。
正直、僕はその活動を甘く見すぎていた。
それはそうだ、言葉を交わしたことすらないすれ違っただけの人物の所属を耳にし、ただそのサイトを見ただけだ。
インターネット上での開催であったためかもしれないが、その説明会の参加人数は軽く三桁を越えた。
それだけでも驚いたというのに、参加者たちの熱気がチャット欄から溢れ、こぼれ落ちるかのようだった。
『サイトにある“応募から派遣まで”に語学試験が追加されているように思いますが、どのような試験でしょうか? 具体的な内容を教えていただけますか?』
『海外で業務経験があった方が派遣されたときに働きやすいですか? その場合海外での実務経験は、どれくらいあると良いでしょうか? 助産師です。』
『アドミニストレーターを志望しています。
経理や人事に関する専門用語は、どの程度英語で使える必要がありますか?』
僕のような物見遊山で参加した人などいない。
全員が切実な真剣さを以ってオンラインミーティングの画面に相対している。
それは僕にはとてもショックなことだった。
知らない世界がそこにあった。
スピーカーたちが、自分の経験からそれぞれ返答していく。
そしてひときわ僕の心をざわつかせたのは、書き込まれたひとつのコメントと、それに対する言葉だった。
『ロジスティシャン希望です。
車両整備に関する専門的なスキルはどのくらい要求されますか? 実務経験はどの程度の年数だと採用されやすいですか?』
「車両整備に関して必要なのは、日本で重視されるようなハイテクじゃない、あくまでトヨタのランクルを整備できる、いわゆるローテクだ。
その他に必要とされるものがたくさんある、水の確保のためのインフラ作り、セキュリティに他のメカニック……」
細かく求められる資質について現場の状況を交えて説明してくれているスタッフ男性の言葉は、僕に関わりのある部分だけが切り出されたように耳に飛び込んできた。
車両整備? トヨタ? ランクル? すぐに団体名と『ランクル』を共に検索窓に入れて画像一覧を表示する。
――70だ。
僕はまだ触ったことがない。
日本では2004年までの二十年間、そして再販で2014年頃に発売されていた。
パリのダカールラリーで用いられるくらいにオフロードに適しているランクルで、悪路の走破性の高さは折り紙付き。
深い河すらも横断することができるようにシュノーケル型のエアインテークが右前に着いているのが大きな特徴で、一見で他のモデルよりもさらに頑丈なのがわかる。
真っ白い車体が跳ね上がった泥を受けて汚れている写真すら美しく、まさしくランクルの中のランクルじゃないかと感じた。
いつかは運転してみたい、いじってみたいと思っていた車が、なぜここで話題に挙がるのか。
疑問と同時にそんなことはわかっているだろうと笑う……この組織は、そうした場所が活動拠点なのだ。
ランドクルーザー70の性能が存分に生かされる環境なのだ。
「……正直なところ、体当たりでやっていくような場面が多い。
言語も現場でのやりくりも、その場で努力し動いて身についていくものだし、初めて派遣される前には必要とされる技術の研修もある。
事前になにをどこまでできるかというよりは置かれた状況で工夫をして、自分をさらに成長させていくことが必須だと言えると思う」
ミーティングは規定時間を大幅にオーバーして終了した。
僕は熱気にあてられてしまって、しばらくPC画面を眺めてから公式サイトのスタッフ募集ページを見た。
さきほど耳にした単語を見つけて動悸を覚える。
僕と同年代の男性が日に焼けた精悍な笑顔の写真で紹介されていて、彼の職務が活動を支える大事な部分を占めていると書かれているのを読んだ。
頭を殴られたような気分だった。
僕は僕としての役目を果たしていたけれど、その笑顔の理由にはたどり着けていなかった。
きっと土田は、カメラを向けられたら同じように溌剌とほほえむに違いない。
僕は漠然といつも、自分がなにかを為し得ていないという不安感を抱いていた。
それは自分がとても幸せに暮らしていることへの感謝に比例しているようでもあって、うれしさや楽しさに陰を落とした。
誰にも言えなかった。
きっと笑われるに違いないから。
土田に会ってみたくなった。
なあ、もしかして君も感じていたのか、僕と同じように。
渇きを癒やしたいような欲求と、昏くて深い羨望が生じた。
サイトに載せられた言葉が目を引いた。
『誰かがやらねば』
その誰かは僕ではだめなのだろうか。
しばらくひとりで悩んでいた。
現職になにも不満はないどころか、とても楽しくて恵まれている。
けれど独身で身軽な僕になら、他にできることがあるかもしれないと知ってしまった。
その考えは骨の中に埋もれた熱のようになって、僕を突き動かそうとする。
ある日、仕事の終わりに上司が声をかけてくれた。
きっと僕の様子がおかしいことに気づいていて心配してくれたのだと思う。
差し出された缶コーヒーで唇がなめらかになってしまって、僕は考えていたことを洗いざらい吐いてしまった。
「なんだ」
ほっとしたように上司は言った。
「仕事が嫌になったのかと思った」
そんなことあるわけがないですよ、と僕は笑った。
上司も笑った。
応募専用フォームのチェックリストを何度も眺めて、僕がふさわしい人間かを自問した。
もちろん求められるのは整備士としての技量だけではないことは承知の上だ。
じきに職場内では、僕があの国際医療団体に参加したいという希望を持っていることが知れ渡った。
多くの人が僕のランクルに対する愛に若干引いてはいたけれど、チャレンジしたいという気持ちに一定の理解を示し、応援してくれた。
僕にとっては職場よりも家族に説明することの方がたいへんだった。
折り入ってと時間をとってもらって、父はネット回線越しに、母には僕の部屋に来てもらって思いを伝えた。
二人はそれぞれ違う意味にとれる沈黙で僕に応じた。
母は口元に手を当てたままじっと画面の中の父を見ていたし、父はおそろしく早いタイピングで調べ物を始める。
僕が重い空気に耐えきれなくなったときに父が口にしたのは、なぜ自分がそこに参加すべきと考えるのかの理由と、生じると想定される問題を二十挙げて、それぞれにどう対処するかの所見を英文でまとめて両親へ提出するように、との指示だった。
「少ないわ」
母が鋭い声で言った。
「五十よ」
僕がまず突破すべきなのは心配する両親という壁だった。
まずは母との面談。
プレゼンは抜かりなくやったつもりだったが、動機が漠然としているとの指摘を受けた。
父とのWeb面談はすべて英語で行われ、休憩なしで約三時間だった。
考えてみれば、そうやって二人は僕を整えてくれようとしたのだと思う。
結論としては両者とも「かわいい子には旅をさせよ」とのことだったから。
こんな歳でそんな言葉を言われてしまって恥ずかしい。
そして、ここまで育ててくれた感謝を感じた。
僕は多くの人に見守られつつ、医師団の採用面接に挑んだ。
過保護なのかスパルタなのかわからない両親は、英語でしか会話してくれなくなっていた。
そのおかげか余裕を持って語学試験に臨めて、後日無事に採用の連絡もいただけた。
やはりその日の夕飯は僕の好物ばかりが並んだ。
自分は本当に幸せな人間だと、心から思う。
それを感謝しつつも後ろ髪を引かれる気持ちを抱えるのは、もうやめにしよう。
そう決意する。
――そして今、僕はフランスで派遣前の事前研修を受けている。
土田とは違う場所に派遣されることになった。
お互い生きてさえいればそのうち会えるだろう。
そのときに「はじめまして、君の手本が僕をここに派遣した」と言おうと考えている。
話したいことが、ききたいことが、たくさんある。
幼いころに見たあの茶色のレリーフを思い出す。
死と無力さとを僕に教え、だからこそなにかを為したいと強く願わせた、頭蓋骨の埋まった壁。
僕は物言わず語るあの死者たちに、はなむけを差し伸べることはできるだろうか。
あのときの幼い僕へ、胸を張っていられるだろうか。
ボンネットの中を指差しながら、指導教官ははっきりとした英語で諭してくれる。
どんな言語を使っても変わらない価値観もあるし、手に取る人によって色を変える基準だってある。
僕は僕が正しいと感じることを為していこう。
目の前にあるのはあの白く美しいランドクルーザー70。
この後、忙しい日々が待っている。
きっとこれから美しくないものにも直面し、見たくないものを見るだろう。
けれど、どこへなりと僕を運んで、これまでもいろいろな世界をともに見てきたランクルが一緒なら、どうにかやりきれる気がしていた。
人々の命を救う業のために、僕はこの車とともに闘っていく。