004:モノノ怪のスペシャリスト
「菜々ちゃん、怪我はないかい? ……つーか、まだ腰抜けてんのかよ」
くらや巳との戦闘を終えた芳楼さんが服についた砂埃を払いながら、相変わらず地面にへたり込んでいる私の元へ戻ってきた。
息は乱れておらず、何事もなかったかのよう。
まるでコンビニから帰ってきたとでも言わんばかりの様相をしている。
「どうしたんだよ? モノノ怪を見るみたいな顔で僕を見て」
「今みたいなことを見せられたら、誰だってこんな顔になりますよ。……芳楼さん、本当にあなたは人間ですか?」
「当たり前だろ。僕は正真正銘、どこにでもいる普通の人間だよ──導師が生業なだけのね」
…………。
信じられない。
今の一連を目の当たりにしてしまうと、くらや巳とそれを圧倒した芳楼さんのどちらが化け物なのかもわからないし、少なくともあなたには人外という表現がお似合いだと思うが。
そんな疑いの目を向ける私に芳楼さんが口を開いた。
「いいかい? 導師を一言で表すならモノノ怪のスペシャリストだ。そしてスペシャリストってのは分野に限らず、素人からは化け物じみて見えるもんだろ」
「どういう意味です?」
「例えば菜々ちゃんにも縁日の職人がたこ焼きを器用にくるくると焼き上げるサマを見入ったことがあるだろ? とても自分には真似できないような、流れるような手捌きに見惚れちゃってさ。それと同じだよ」
「確かにありますが、それと同じ……?」
「要するに僕もこの分野に秀でているだけで、他は普通の人間と変わらないってことさ」
「暴論ですよ!」
というか詭弁だ!
……まあ、芳楼さんの言いたいことはわかる。
総じて何かのプロや達人の動きというのは、素人目には神業のように映るもんだ。
たこ焼き屋さんの例えも凄くわかりやすいし、危うく納得しそうになった自分がいた。
だとしても今回は絶対にその限りじゃない。
それくらい芳楼さんを普通の人間と定義づけるのは無理があると思う。
「どうも菜々ちゃんには知らないことを受け入れようとしないきらいがあるね。そんなんだと今後困ることになるぜ? 世界は未知なことばかりなんだから」
今日もひとつ、モノノ怪という未知に出会ったばかりじゃないか。
小馬鹿にするように笑った芳楼さんの言い分には一理あった。
私は言い返せずに俯いてしまう。
「でも知らないことがあるのは当然だ。菜々ちゃんもまだ若いんだし、これから時間をかけてゆっくりと見聞を広げるといいさ」
「それでも今夜のことは俄かに信じ難いですけど……。やっぱりこれは夢なんでしょうか」
「うん、そうだね。これは夢だ。だから僕が君の胸に飛びついても悪くないよね」
「それは悪夢になるんでやめてください!」
いや、もうすでに悪夢の部類なんだけどさ。
手をワキワキさせる芳楼さんから守るように、私は腕をクロスさせて胸を隠した。
……しかし、これが夢じゃないことだって薄々わかっている。
その証拠にさっき擦りむいた傷はちゃんと痛むし、何より、くらや巳を前にしたときに跳ね上がった拍動や動悸、早くなる呼吸に至るまでの全てが夢の中でのとまるで違った。
これはリアルなんだ、現実なんだ。
信じられない──信じたくなかったけれど、そうするしか私にはできない。
「……ところであれ、どうするんですか?」
私は地面に座りながら指をさす。
致命傷を負って動かなくなり、道路を塞ぐように横たわるくらや巳を。
「このまま放置する訳でもないですよね?」
「そんな訳ないだろ、飛ぶ鳥あとを濁さずだ。……僕としたことが最後にするべきことを忘れていたよ」
「トドメを刺すんですか?」
「物騒なこと言うなよ。言っただろ? 僕は導師なんだから導くだけだよ」
すると芳楼さんは、くらや巳に向かって片手を拝むように構えながら小声でぶつぶつと何かを唱えだした。
……知らない言語のように聞こえる。
と、耳を傾けたとき。
それが本能的に聞いてはいけないような音に感じ、私は咄嗟に耳を手で塞いだ。
そう、例えるならフォークで皿を引っ掻いたような音だ。
遺伝子から受け付けないレベル。
やがて芳楼さんはその不気味な何かを唱え終えると手をかざし、
「お憑かれさまでした」
と言った。
途端、くらや巳のその大きな体は淡い光に包まれて霧散する。
その光の粒子はタバコの煙ように空気中を漂い、しばらくすると消え失せた。
「誤解される前に断っておくが、殺したわけじゃない。まあ、もともと生死の概念がないモノノ怪を殺せやしないけど」
「……えーと、導いたんですよね?」
「そうだよ、くらや巳を導いただけだ」
どこへですか?
なんて無駄な質問はもうしない。
芳楼さんにそれを尋ねたところで私が求めるような答えが返ってこないのはわかりきっていたし、彼との会話は禅問答のようで疲れてしまうんだ。
もう肉体的にも精神的にも疲労がかなり溜まっている。
すごく眠い。いっそのこと、ここで寝てしまおうか思ってしまうほどに。
「まだ寝られちゃ困るよ、菜々ちゃん」
「流石にここでは寝ませんよ。家まで結構な距離もありますし」
「そういう問題じゃなくてね。あくまで僕のこれは仕事なんだ。菜々ちゃんから報酬をいただかないと」
……そうだった。
うっかりしていた。
言われて気づく。
あくまで芳楼さんのしたことはビジネスであり、お礼は必ずすると自分から言ってしまった手前、このまま帰るわけにもいかない。私は報酬を払わなければならないのだった。
…………。
大学生で一人暮らしをしているのにバイトをしていなかった私の懐にそれほど余裕はない。払えるだろうかと一抹の不安を抱きながら、恐る恐るその金額を尋ねた。
芳楼さんがその金額を言う。
それはとんでもない数字だった。
豪華客船を貸し切って世界を一周……いや、いっそ月の裏側まで行けるかもしれないほどの金額。
唖然とした。
0が並びすぎてゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
消費者金融に行ったところでこれだけの金額は借りれないだろうし、臓器売買の文字が脳裏をよぎったけれど、そもそもそのようなルートを私は持っていない。
「そんなに驚くなよ。これでも相場よりは安い方だぜ」
「嘘つかないでください! ぼったくりですよ!」
「この業界では普通さ。神に誓ってぼったくっちゃいない──まあ、僕は無神論者だがね」
どどどどうしよう!?
ローンを組ませてもらったとしても、いち学生である私には一生をかけても払いきれる気がしない……。
「そうだな、僕の提案を飲むのなら融通を利かせてやってもいいよ」
「の、飲みます! 丸呑みします!」
地獄に仏とはよく言ったもので救いはあった。
もとを辿れば芳楼さんに借金を背負わされたのだから、恩を感じるのはマッチポンプな気もするが。
しかし、今の私にとやかく言える資格はなく。
値踏みするようにジロジロと見下ろしてくる芳楼さんの提案を甘んじて受け入れるしかないのだ。
「菜々ちゃんには見所があるからね。今日から借金を完済するまで身体で払ってもらおうか」
「か、身体っ!?」
悪魔の提案だった。
どうやらこの世に仏はいなかったらしい。
「くっくっく。モノノ怪はいるけどね」
芳楼さんは、不敵な笑みを浮かべてそう言った。