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十二話

 針葉樹の森の奥、そこに面した岩壁にある窪んだ崖にスタリー達はひとまず身を隠していた。高い位置にあるので、森の頭越しにトルツ村が一望できたが、風向き次第では冷風が吹き付け、あまり長居ができる場所ではなかったが、そんなつもりもないスタリー達には一時のいい隠れ場所ではあった。

「では、抜くぞ」

 声をかけ、スタリーはテクラの腰に刺さったナイフを一息に引き抜いた。途端、鮮血が筋となって流れ出し、外套と地面を赤く染めた。その痛みに声を押し殺して耐えるテクラの目には涙が滲んでいたが、それもわずかな間だけだった。流れ出る血はすぐに止まると、傷口の痛みも徐々に弱くなり始めていった。吸血鬼が持つ驚異的な治癒力――それは以前スタリーが教えてくれたことで、テクラにも備わっていると言われていたが、これがまさにその証拠だった。

「傷は思ったほど深くはないようだね。これなら五分も経てば塞がるだろう。異物があるとその傷の治癒は遅れるから、治したいのなら痛くても異物は取り除いたほうがいい」

「わかりました……ありがとうございます」

 安堵したテクラにスタリーは微笑みを返した。痛みが弱まり始めた腰を改めて見ると、紺色の外套に赤い血の跡がうっすらと残り、その中央にはナイフが刺さった穴がぽっかりと開いていた。せっかく買ってもらったものなのにと、テクラは内心で残念がるのだった。

「はああ……やっぱり、あの人間はむかつくな」

 二人のやり取りを背後で眺めていたイサークは、大きな溜息を吐きながら苛立った口調で言った。

「むかついても、手だけは出してくれるなよ。そうなれば村だけの騒ぎではなくなるかもしれない」

「そんなこと知ったことじゃないね。人間が歯向かってくるなら、僕は喜んで受けてあげるよ」

「これ以上勝手な真似はするな。人間の生活を乱して一体何になる」

 これにイサークは片眉を跳ね上げた。

「へえ、あなたがそんなことを言うんだ。すでに生活を乱したあなたが」

 スタリーは横目でイサークを見やった。

「あの村に武装した人間がいるのは何でだったかなあ……下級吸血鬼が現れて、村人を襲うからじゃなかったか? しかもその下級を生み出したのは確か――」

「やめてください! 前にも言いましたけど、スタリー様は兄を助けてくれたんです。死にそうだった兄を――」

「テクラ、いいんだ。彼の言う通りだよ。私は人間の生活を乱してしまった。それに間違いはない」

「でも、スタリー様……」

 まだ何か言いたそうなテクラに、スタリーは力ない笑みを向け、その言葉を止めた。

「今回は嘘をつかず、素直だったね。そこはあなたも認めているんだ。でも、僕にはよく理解できないな。どうしてそこまで人間なんかに肩入れするの? あいつらは所詮、僕達の食料に過ぎないっていうのに」

「人間も我々と同じように、考え、悩み、生きている。その姿に我々との違いはない」

「まさか、スタリーは僕達と人間を同等とでも思っていたりするの?」

 これにスタリーは何も答えず、黙り込んだ。その様子を見たイサークは、面白そうに口の端を上げた。

「へえ、そうなんだ。……そう言えばあなたについて、あっちで聞いた話がもう一つあるんだ。ブランディスがずっと帰ってこない理由、それは、人間の女に心を奪われたからだっていうんだけど……この話って、本当なの?」

「……どちらだろうと、お前には関係のないことだろう」

 ちらと向けたスタリーの目には、明らかに不愉快な色が浮かんでいた。それに気付いたイサークはますます口角を上げた。

「そうか。だからあなたは肩入れをするんだね。人間の女なんかに惚れてしまったから――」

「黙れ」

 低く唸るような声がさえぎる。だがイサークは気にも留めず続ける。

「興味を抱くだけならまだしも、惚れてしまうなんて、僕には考えられないことだな。こっちで長年暮らしていると、吸血鬼としての感覚も誇りも薄れて、中身が人間染みてくるものなの?」

「黙れと言った。その口を強引に塞がれたいのか」

 スタリーの不愉快な色の目に攻撃的なものが見えると、さすがにイサークも大人しくなり、苦笑いを浮かべた。

「気に障った? それなら悪かったよ。じゃあ僕は退散したほうがいいかな」

 するとイサークは崖の縁へ歩き始めた。

「どこへ行くんだ」

「決まっているだろう。あの人間がいる村だよ。あいつは僕達を舐めているからね。二度と歯向かえないようにこらしめてくる」

「何度言ったらわかる。感情で人間に手を出すな。命を奪えば――」

「命を奪うなんて言っていないよ。僕はただこらしめに行くだけだ。人間は永遠に僕達には敵わないということを教えるためにね。無知な人間には直接言ってやらないと」

 そう言うとイサークはふわりと跳び上がり、そのまま崖下へと落下していった。スタリーが止める間もなく、その姿は森の中へと消えていった。

「スタリー様、追ってください」

 イサークの危うい行動にテクラは追ったほうがいいと判断し言ったが、スタリーはそれをためらった。

「いや、君を一人置いてはいけないよ」

「傷なら治りかけてますし、私のことは気にしないでください」

 痛みは大分軽くなり、見た目にも傷は塞がりかけていた。完治までは間もなくといったところだったが、それでもスタリーはテクラに大事を取らせた。

「追うのは君が万全になってからだ。それからでも間に合うだろう」

 イサークは命は奪わないと言ってはいたが、人間を食料と見る者の言葉だと、どうにも信用できない。テクラは自分のことより彼を追うべきだと強く思うのだが、間に合うとスタリーに言われては、そうしつこく言うこともできなかった。

 座る二人の間に静寂が漂っていた。時折吹く冷たい強風がかぶったフードをさらおうとする。テクラはそれを手で押さえながら、はす向かいのスタリーをのぞき見た。その表情はイサークと話していた時とは変わり、穏やかで、物思いにふけるような、落ち着いたものだった。黒い瞳は曇り空の彼方をじっと見つめている。スタリーは吸血鬼でありながら、本当に人間の女性を好きになったのだろうか――先ほどのイサークの話が頭によみがえり、テクラは興味本位だと自覚しつつも、おもむろに、それとなく聞いてみた。

「スタリー様は、あの、好きな方がいたんですか……?」

 すると空を見つめていた目はすぐにこちらへ向き、テクラを真っすぐに見据えてきた。やっぱり不快だっただろうか――慌てたテクラは視線を泳がせながら思わずうつむいた。

「ご、ごめんなさい。答えなくていいですから。変なこと聞いてしまって――」

「吸血鬼は恋をしないとでも思うのか?」

 不意に返ってきた声に顔を上げれば、そこにはいつもの微笑を浮かべるスタリーがいた。

「い、いえ、そういうつもりじゃ……」

「人間と同じように、我々の世界にも恋愛というものはある。ただそれが私の場合、人間の女性だったというだけだ」

 はっとして瞠目したテクラに、スタリーは優しい微笑みを見せた。

「それじゃあ、さっきの話は……」

「本当のことだ。まったく、一体誰が教えたのか……」

 苦々しい表情を作りながら、スタリーは再び空へ目を移した。厚い雲の向こう側、さらに遠くに見えるわずかな青空――思いを馳せるように見つめるスタリーの脳裏には、過去の思い出が懐かしく呼び起こされていた。

「その方は、どんな方だったんですか?」

「君とは正反対の、勝気で物怖じしない女性だった」

 この国がまだ戦乱のただ中にあった頃、その女性は避難民として、後のブランディス領へ逃れてきた。皆疲れ切り、水や食べ物も満足に口にしておらず、誰もが絶望して黙る中で、その女性だけは前向きに、周囲の者達を励まして回っていた。諦めるのは早い、生きていればどうにかなると、一人笑顔を見せて過酷な状況下で奮闘していた。

「周りに見せる笑顔が、やたら輝いていてね。私はそれが、なぜだか気に入らなかったんだ。だから少し脅かしてみようと……今思えば、当時の思考回路はイサークと変わらなかったようだ」

 こちらに来たばかりで、まだ若かったスタリーは、現在からは想像もできないほど粗野で、礼儀という言葉も知らないような、傍迷惑な悪ガキと言っても過言ではなかった。血の欲求にも従順で、はぐれた兵士でもいればすぐに捕らえ、その血を飲み尽くしていた。だが近隣の住人を狙うことはなかった。そうすればすぐに討伐隊が出され、数の力で追い出されることを知っていたのだ。その半面で兵士、さらに言えば敵兵だけを狙えば、大きく騒がれることもなく、穏便に血が飲めることを学んでいた。人間社会を観察し、考えて行動するところはイサークと少し違うが、人間に対する評価や見方はほぼ同じとも言える。だが吸血鬼の世界では人間は下等な生き物であり、自分達の食料になるという考え方は常識であって、イサークと当時のスタリーの思考は、吸血鬼から見ればごくごく普通と言えた。

 避難民が大勢やってきて、それを陰から観察していたスタリーだったが、疲弊した人間達の中で積極的に動き回り、笑顔を振りまくその女性は、すぐにスタリーの目に留まった。自分も疲れているだろうに、それでもそんな様子は微塵も見せず、避難所作りや食料の確保に日々走り回っていた。若いスタリーはそんな女性の姿が鼻に付いた。他の人間のように絶望していればいいものを、まだ先はあると皆を鼓舞し、希望を植え付けようとしている。こんな血なまぐさい世界に何を期待しているのか。か弱い人間ならそれらしくしていればいいのに――実に勝手で、おごった考えは、スタリーのいたずら心をくすぐった。あの笑顔が絶望に変わったらどれほど愉快だろうか。脅かして、希望などまやかしだとわからせてやろう。きっと笑えるぞ――スタリーにとっては簡単ないたずらのはずだった。突然現れて牙を見せ、襲うふりをして少し追いかければ、人間ならあっという間に恐怖で震え上がり、笑ってなどいられなくなるだろう。また襲われるかもしれないと思わせれば、それが徐々に絶望へと引き込んでくれる。それがスタリーの計画だったのだが――

「でも、女性は私の脅かしに平然としていたんだ。それどころか話しかけられてね。実が生る木を知らないかと聞かれて、私は思わずあっちにあると教えてしまったんだ。そうしたら笑顔で礼を言われて……唖然としてしまったよ」

 吸血鬼という存在を知らなかったわけではないだろうが、女性は目の前のスタリーに脅かされても、驚きも怖がりもしなかった。もしかしたらそれ以上に生きることに必死だったのかもしれない。避難所には飢えた者が大勢いたのだ。動ける自分が皆を助けなければ――そんな強い使命感が恐怖心を追いやり、逆にスタリーを驚かせたのかもしれない。

「そんな想定外がきっかけで、私とその女性との交流が始まったんだ。人間と面と向かって会話をするのは、それが初めてのことだった」

 森に隠れ住むスタリーの元へ、女性はたびたびやってくるようになっていた。当初は木の実やきのこ、食べられる野草のある場所などを聞くだけだったが、何度も会っているうちに、それ以外の話もするようになっていた。戦争のこと、故郷のこと、お互いのこと……。その頃になると、スタリーは自分の中の心境の変化に気付かないわけにはいかなかった。下等な生き物であるはずの人間だが、こうして話してみれば、その苦悩も感じる喜びも、決して吸血鬼の持つものからかけ離れてはいない。むしろ近く、多くが重なっていると感じられた。人間も吸血鬼も、その内面は同じなのかもしれない――そう知ると、女性の笑顔が鼻に付いていた頃の自分が不思議に思え、そんな女性を絶望させようとたくらんだことを後悔した。それが失敗してよかったと今さら安堵しつつ、周りを元気にさせる女性の笑顔は、スタリーにも欠かせないものとなっていった。

 表立って歩けないスタリーは、高い木の上から避難所を見下ろし、女性を眺めるのを日課にしていた。今日はここにいると伝えたことはなかったのだが、女性は不思議とスタリーを見つけ、目が合うと微笑んで小さく手を振るのだった。そのささやかな幸せは、次第にスタリーに特別な感情を抱かせた。吸血鬼が人間に惹かれるなど、常識では考えられないことだった。だがそれがすでに崩れているスタリーには関係のないことで、心はどうしようもなく女性に惹き付けられていた。そして女性の側も、また同じだった。

「本当に楽しい一時だった。時間はあっという間に過ぎ去り、また女性が訪ねてきてくれるのを心待ちにする自分がいた。私は、そんな気持ちを女性に打ち明けたんだ。すると女性も同じだと言ってくれて……心が通い合った瞬間だった。おおげさじゃなく、天にも昇る心地だった。しかし、幸せな時間ほど、やはり短いものだ。やがて女性は病にふせって、私に会いに来ることはなくなってしまった」

 スタリーが異変に気付いたのは、心を打ち明けてから数日後のことだった。訪れた女性はいつものように笑顔を見せていたが、心なしか弱々しく感じられた。翌日にまた見ると、今度は顔色が悪いように感じられた。だが女性は心配させないために、気のせいとか、大丈夫としか言わず、はぐらかし続けた。その後もスタリーの元を訪れていた女性だったが、ある日、明日は来られないかもしれないと言って、それから姿を見せることはなくなってしまったのだった。

 実はその頃、避難所内では感染症にかかった者がおり、女性はその病人の世話を買って出ていた。当初は風邪程度の軽いものと思われ、何の対策もせず付きっきりで看病してしまったのが悪かった。病はすぐに女性にもうつり、その体力をじわじわと奪い始めた。幸い感染症だと気付いた者が病人達を手早く隔離したおかげで、それ以上広がることはなかったが、仮設の避難所に十分な薬があるわけもなく、病人達にはそれ以上の手を施すことはできなかった。そんなことが起こっていたとスタリーが知ったのは、女性が来なくなってからしばらく経った頃だった。

「当時の私はまだまだ子供だったから、女性に嫌われたと思ってね。病という事情を知ったのは日が大分経ってからだった。夜陰に乗じて捜し回った私は、そこでふせった女性を見つけた。その弱り切った姿は、今も忘れられない……」

 隔離された天幕の中にこっそりと入ると、そこには数人の病人が寝かされていた。そしてその中に女性の姿を見つけたスタリーは目を見張った。皆を元気付けていた眩しいほどの笑顔の片鱗は、もはやどこにもうかがえなかった。仰向いた顔は土色に変わり、ばら色だった唇はくすんだ色でしおれていた。触れたくなるような丸い頬はやせこけ、首から胸元にかけては、すっかり肉が落ちて骨が浮き上がっていた。体には粗末な毛布がかけられていたが、そこからのぞく足も骨と皮だけのような状態だった。つま先や足裏は汚れたままで、それを洗ってやる者すらいないらしい。もう、見限られているのかもしれない。ここでは治せない病なのだと――スタリーは女性に歩み寄ると、そのひどく軽い体を抱え、森へとさらった。

「瀕死の女性を救えるのは私しかいなかった。その血を吸い、同じ吸血鬼に変える……そうすれば病は消え、また健康な体に戻れるからね。でも、女性はそれを拒んだんだ」

 スタリーに抱き締められた女性は、その腕の中で目を開けた。君を助けたいと、スタリーがその方法を説明すると、女性は嬉しそうに微笑んだが、答えは否だった。あなたのことは好きだが、私は人間のまま死にたいと願ったのだ。スタリーにはそれが理解できなかった。死よりも人間でいることのほうが大事なのかと。二人の時間が二度と訪れなくなることが、スタリーは何よりも恐ろしく、寂しかったのだ。だが女性は、それは仕方がないと言った。この世に永遠などないのだからと。

「あなたは、人間の私を愛してくれた。だから最後までそうしてほしい、と。そしてこうも言われた。私は、あなたの力で生まれ変わった時、今と同じ私でいられる自信がない――そう言われて、私は何も返せなかった。無様でも、もっと食い下がればよかったと思うこともある。だがそうできないほど、女性の意思は固かった。ここで命を終えると決心して……その通りにした」

 わずかにのぞいていた青空が雲に隠されると、スタリーは視線を足下へ落とし、うつむいた。

「……スタリー様は、後悔してるんですか?」

 恐る恐るテクラが聞くと、スタリーは力ない笑みを浮かべた。

「正直、そうだ。もう何百年と経つが、あの時の判断は間違っていたんじゃないかと思えてね。女性を助けられるのは私だけで、側にいてやれるのも私だけだった。強引にでも血を吸っていれば、少なくともこんな思いを引きずることはなかったはずだ」

「でも、その方自身が死を望んだんであれば、スタリー様が後悔する必要なんて……」

「私は死など望まなかった。命を救える術を持ちながら救わなかったんだ。私と女性の望みは真逆のものだった。そして、失った命は二度と戻らない……」

 スタリーは切ない表情で目を伏せた。その女性をどれほど思い、共にいたかったのか、聞かずともテクラにはひしひしと伝わってきた。

「そんなに辛い思いをして、帰ろうとは思わなかったんですか?」

「それはなかったよ。女性は様々なことを私に教え、残していったからね。その最たるものが人間だ。決して下等な生き物ではない人間、そして、女性が守ろうとしていた避難民――私はその意志を継ぎ、陰ながら彼らを守ることにしたんだ。その結果が、現在の肩書きというわけだ」

 かつてスタリーが敵兵の襲撃から避難民を助けたという話は、単なる気まぐれでも、人間に同情したからでもなく、愛した女性の意志を継いでの行動だったということに、テクラは小さな驚きを感じつつ、同時に納得もできた。

「避難民の子孫である私達に、スタリー様がよくしてくださるのは、その方の意志を引き継いでるからなんですね」

「そうしたからには途中で放り出すわけにはいかないからね。もう誰にも不憫な死に方はさせたくなかった。君にも、テオドールにも。だが……」

 犠牲者を出してしまった――同じ後悔をしないために、スタリーはテオドールを躊躇せず助けた。しかし、そのせいで他の命が奪われてしまったという事実は、スタリーを深くさいなんでいた。過去と重ねるべきではなかったのか。吸血で命を救うのは間違いなのか……その答えはまだ欠片も見えなかったが、それを探す暇は今のスタリーにはない。犠牲者を増やさないために、何よりもテオドールを見つけることが最優先されることで、思考に没頭するのはその後のことだった。

「……スタリー様?」

 言葉の途絶えたスタリーの顔をのぞき込み、テクラは呼んだ。

「……そう言えば、傷はもう治ったか?」

 急に話が変わり、テクラは戸惑いながらも腰の傷を確認した。

「あ……はい、もう消えてるみたいです」

 手で探ると、傷があるはずの肌は何の凹凸もなく、そこに傷があったと思えないほどさらっとした感触だった。押してみても痛みはなく、本当に数分で完治したのだった。

「少し話し過ぎたようだ……大丈夫なら行こうか」

 スタリーは立ち上がり、服に付いた砂を払い落とす。それを見てテクラもすぐに立ち上がった。だが、森を見下ろす崖に立っていることに、急に不安が込み上げてきた。

「あの、ここからどうやって下りるんですか……?」

 登ってきた時はスタリーに抱えられていたが、一人で下りるとなると、人間の感覚ではまず助からない高さで、足が自然と震えてきそうだった。

「イサークを見ていただろう? 飛び下りればいいだけだ」

 崖の縁に向かうスタリーだが、テクラはすくんでその後に続けなかった。その様子にスタリーは微笑を浮かべた。

「君は吸血鬼なんだ。この程度の高さで死ぬことはまずない」

「骨は、折れませんか……?」

「吸血鬼の体は人間のように柔じゃない。……そんなに心配なら、私の手につかまってごらん」

 差し出された手に、テクラはこわごわとつかまった。

「じゃあ、行こう」

 ぐんっと引っ張られ、テクラの体はスタリーと共に宙に躍り出た。一瞬の不快な浮遊感に包まれた直後、二人は冷たい風をまといながら勢いよく森の中へ落下していった。ほんの数秒間の落下で、テクラはもちろん怪我などすることはなかったが、しばらくの間、腰が抜けた歩き方をするはめになったのだった。

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