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ライラック色の少女たち  作者: 斉藤なめたけ
第十八章 すべての終わりの日
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3☆.嘔吐

☆注意事項:嘔吐描写

 死に物狂いで、かつ後方を過度に気にしながら五月の曇り空を駆けた岬は、帰路の半ば過ぎで、全力以上の無茶が膝にたたった。それでも歩くことはやめず、ようやく自宅が見えたときは、安堵のあまり眩暈が起きたほどであった。


 帰ってきたとき、両親はまだ外出中だった。そのことは最初から知っていたため、岬は死相を隠さずにそのまま自室に転がり込んだ。


 すべてが質の低い悪夢のように感じられた。


 部屋の真ん中で膝をつき、岬はうつむいたまま姿勢を硬直させた。何も考えたくはなかったが、思考が、光景が、水面に浮かぶ汚泥のように脳内を漂流し始める。


(先輩は……あの人は、最初からそのつもりで……)


 あたしを罠にかけたのだろうか。再会の電話を寄越したのも、甘いひとときを演じたのも、すべては大金をせしめるための布石に過ぎなかったのか。


 そう考えると、何食わぬ顔で誘いかけてきた彼女に改めて腹立たしさが募っていく。チョコレートを騙った添加物の塊を胃に詰め込まれたような気分だった。


 不快感の対象はかつての先輩相手のみにとどまらなかった。こんな奸計にまんまと引っかかってしまった自分自身に、岬は腹を立てずにはいられなかった。聖黎女学園では大抵の少女相手に優勢でいられたため、瑠乃亜からもたらされた絶望がかえって深く突き刺さり、驕りにも似た優越感に冷や水をかけられる結果となった。


 自己内省の沼に沈む前に、岬は今後について思考をめぐらせた。特に両親に黙っているわけにはいかないだろう。自分の半裸体の映像が他人の手元にあり、最悪の場合、ネットに拡散されてしまう事態も考えねばならない。それを一人で内密に処理するのは、とてもではないが無理がある。


 どのように打ち明けるべきかを考えているうちに、玄関の開く音が静寂を響かせた。


 岬は緊張のあまり心臓が破れるかと思った。


 こんなに早く帰ってくるなんてと大いに焦ったが、これは岬の体内時計の方が間違っていて、時計の針は正確に親の帰宅予定の時刻を指し示している。


 何も知らない母が穏やかな声で娘の名を呼びかけている。それに応えるため、岬はゆっくりと立ち上がり廊下に出ようとしたが、次の瞬間、体調が激変した。


「うグ……っ⁉」


 胃の底から急速に不愉快なものがせり上がり、全身が悪寒に包まれて歩くことすらままならない。

 片手で口を塞ぎ、逆流する汚物をどうにか抑え込もうとしたが、間に合わなかった。


「うぅッ……うげぇ! かはッ、ごボぉ……ッ!」


 岬は吐いた。母親の目の前で、異音と共に腹の中の物を床の上にまき散らした。指の隙間から吐瀉物としゃぶつがすり抜け、その臭いが少女の嘔吐感をさらに掻き立てる。


「岬⁉︎ どうしたの⁉︎ しっかりして!」

「ぐぅッ……うぁ……おゲぇっ……‼︎」


 娘の異常事態に母は動転もあらわに呼びかけるも、しっかりさせることは相当の難事であった。


 背中をさすられて岬の吐き気はようやく引いたが、代わりにあふれ出たのは大量の涙であった。汚れた口から嗚咽が漏れ始め、プルーン色の瞳から透明な熱い小川がとめどなく流れ落ちる。


「ぐあ……うぅ……ごめんなさ、ごめんなさあい……ッ‼︎」


 とんでもない事件に娘が巻き込まれたとさとり、母親が慄然とするのは当然のことだ。

 だが、岬の謝罪はそれ以上の意味が込められていたのである。


 この声を届けたい真の相手は、先ほどまで散々忌避していた先輩だった。悪辣な手段をかけてこちらを追い詰めたことは決して許されないが、本当に性根まで腐りきっているかと問えば、そうではなかったはずだ。


 唯一の家族が亡くなり、性悪な養親に追い詰められて、金儲けの手段を選んでいられないと考えれば、一片の慈悲を与えてもよかったのではないか。


 もっとも、彼女への憐憫が岬の精神によく働くとは限らなかった。むしろ憎悪と良心のせめぎ合いが生じ、彼女はさらに苦しみを抱えて泣き続けた。涙が枯れても嗚咽が止まらなかった。


 それでもどうにか親の献身によって落ち着きを取り戻すと、岬は床を綺麗にしてから、緊急の家族会議に加わった。


 岬は自分の身に降りかかった出来事を正直にすべて語った。内容はむろん、親に強い衝撃を与えた。そもそも娘が変態淑女の輝ける星であったこと事態、二人は知らなかったのである。


 話を終え、結論として、岬は説教を受けなかった。「私たちがどうにかする」と告げた母の口調が、岬にはわからなかった。娘の罪業はひとまず目をつむり、親として名誉を守ってみせるという意思表示だと信じたいが、絶対に幻滅しただろうな……と、うがった見方をしてしまう。実際そう思われても仕方はないのだが。


 これ以上親に愛想を尽かされないために、岬は模範的な娘であることを余儀なくされた。もっとも、それは親からの無言の圧力ばかりではなかった。


 岬自身、変態淑女を気取っていたことが忌まわしく感じるようになっていたのである。先輩から影響されたものは物質精神ともにすべて排除しなければ気が済まなかった。


 女の子どうしの濃厚な絡みが描かれた書籍はすべて売り飛ばし、後は白フクロウのブローチを残すのみとなった。


 先輩との唯一の接点は聖黎女学園の敷地内で処分しようと考えた。というより、地元でなければどこでもよかった。このブローチだけは特に先輩の念が強く感じられ、地元で始末するのが申し訳なく思えたのである。


 すべての準備を整えると、失意の少女は夜行バスの予定時刻になるまで連休のすべてを虚無に費やした。提出用のスケジュール表を捏造し、聖黎女学園に帰寮してからもプルーン色の瞳に光とぬくもりが戻ることは決してなかった。

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