5.そして過去へ
実はこのとき和佐は大きな嘘を吐いていた。
岬が一条邸を訪ねた目的を、黎明を通じて和佐はすでに知っていたのだ。
円珠が静かに寝息を立てている中で目を覚ました一条和佐は、バッグの中から自身の携帯端末が震えていることに気づいた。通知者が自分の姉になっていることに訝しみながら、小声で通話に応じる。
「ああ、エミリー。繋がってよかったですわ」
流麗な女性の声に、和佐は大きく胸を撫で下ろす五歳上の姉の姿を幻視した。「エミリー」は黎明が妹を呼ぶ際の愛称だが、なぜ本名と全く無関係の呼び名を使うのか、和佐としては今さらどうでもいいことだった。
「珍しく早起きなのね。一体どうしたというの」
「どうもこうもありませんわ。突然、シスター蒼山さんから岬ちゃんがやってくるという連絡を受けまして、しかもエミリーは岬ちゃんの実家にご挨拶にうかがっていると聞きましたから……」
そういえば、黎明に岬の変容について打ち明けることを和佐はすっかり忘れていた。黎明からすれば、いきなりシスターから電話がかかって、その通りに岬が異様な雰囲気をたたえて押しかけてきたのだから困惑の極みというものであろう。妹も週末は家に帰ることは滅多にないため、まさか遠方へ旅行に出ていたとは思わなかったに違いない。
やや非難めいた口調になるのは無理もないが、それ以上に姉の声は深刻に響いていた。
「それより、エミリー。岬ちゃん……一体何がありましたの?」
「話すと長くなるわ。そもそも事態をすべて把握しているわけでもないし……」
「あの子、ひいちゃんと同じ目に遭わせてほしいと言い出してきましたの」
「なッ……!?」
危うく携帯端末を取り落とすところだった。
黎明のいう「ひいちゃん」とは、かつて彼女に仕えていたメイド、夕霧火影のことである。メイド職を辞してすでに五年が経過しているが、いまだに音信不通の状態が続いている。
主従どうしで愛し合い過ぎたがゆえの悲劇だった。お互いがベッドの上で一糸纏わぬ姿となってもつれ合い、黎明が火影の肉体を激しく求めすぎたあまり、欲情を暴発させて彼女の右耳を食いちぎったのである。
気の触れた編入生は、その彼女と同じ末路を要求しているというのか。
大きな声が出ることを予期して、和佐は円珠の寝ている空間からそっと抜け出した。小声で会話を続ける。
「……それで、黎明はその岬をどうするつもりなの?」
「当然そんなふざけたお誘いはお断りいたしますわ。もっとも、今の岬ちゃん相手ではひいちゃんのような事態になることはあり得ませんけれど……」
欲情が暴発するような相手ではないということだ。
聞いていた和佐としては安堵すべきなのか判断に迷う事態である。
黎明の声が珍しくすさんだ調子でひそめられた。
「だいたい、わたくしがひいちゃんについて心を痛めていることを岬ちゃんはとっくにご存知のはずでしょう? それにも関わらず、あの悲劇を繰り返せと要求してくるなんて……。わたくし悪いけれど、一発あの子の頬を引っ叩かせていただきましたわ」
「間違った判断ではないわ。引っ叩くだけなら私もすでにやったのだから」
それどころか、私物を片っ端からぶん投げて荒れ狂ってみせたわけだが、あえて姉に言う必要は和佐は感じていない。
ともあれ、姉が岬を引っ叩いたと聞いて、和佐は意外の念と戦慄を感じずにはいられなかった。
黎明は柔和な性格で、へそを曲げることはあれど、実際に手を出したという話は聞いたことがない。その姉を打擲へと駆り立てさせるとはとんだ偉業であるが、もちろん賞賛する気にもなれない。
「とにかく、わたくしは岬ちゃんを屋敷に置いて、じっくりと事情を聞くことにいたしますわ。必要となれば、エミリーにも連絡をいたしますから」
「熊谷瑠乃亜の名を出して。岬の初めての女だから。そいつが彼女を変えた元凶であることは間違いないわ」
「ええ、わかりましたわ」
黎明は諒解し、妹の健勝を祈って通話を切った。
端末の電源を落とすと、和佐は早朝から疲労感を伴った息を吐いた。久しぶりに姉と屈折なく会話を進行できたというのに、その感慨も湧く余裕もなかった。
(岬のやつ、一体何を考えているのよ……)
かつて確執を抱いていたルームメイトに思いを馳せ、白髪少女は身だしなみを整えるために洗面所に向かったのだった。
◇ ◆ ◇
受話器を置いた黎明も、岬に懸念を抱いている点では妹と共通している。
だが彼女は岬よりも、彼女のことを本気で気にかけている妹の方に感銘を抱いていたのだった。
(人嫌いだったあの子が、こんなに立派になって……)
自分のもとから離れていくことに寂しさを感じつつも、何としても二人を救ってやりたいと思った黎明である。
一条黎明は現在二十歳で、聖黎女学園のOGの中でも、いまだに在校生に強い影響力を残している女性であった。最高の生徒に贈られた『聖花』の称号は二年前に彼女が賜ったのが最後で、これ以降は、いまだに彼女に続くお姉様は擁立されていない。
黎明は妹と同じ色の髪を腰まで波打たせ、さらに同じ色のドレスで全身をすっぽりと覆っている。垂れ目ぎみの金の瞳は柔和な光をたたえており、メイドの片耳を噛みちぎった猟奇的な印象はどこにも見当たらない。
自室を出ると、黎明は先ほどまで岬と話し合っていたダイニングに訪れた。
長い裾をゆったりとひるがえしつつ、ダイニングと地続きになっているキッチンに踏み込む。そこは静かな空間で、食器の洗う音だけが響きわたっていた。
食器を洗っているのは火影の後に黎明の専属メイドに就いた女性である。名前は子夜風月。黎明と同い年で、クラシカルなメイド服の似合う怜悧な印象の人物だ。
ご主人様の来訪を受けた風月は、勝手にキッチンに立ち入られたことを咎めることもなく、淡々と皿洗いをしながら問いかけた。
「お嬢様との通話はお済みになりましたか?」
「ええ、ふうちゃん。エミリーは岬ちゃんのご家族から事情をうかがうでしょうから、その間にわたくしたちもすべきことを果たしましょう」
「それについては異存はありませんが……」
風月の藍色の瞳に熱がほとばしった。
「正直なところ、今の岬様の態度は不快です。それが彼女の本意でないことは承知ですが、火影の二の舞を望むことが何を意味しているのか、彼女はわかっているのですか」
夕霧火影は風月の親友であり、火影が失踪したことについて風月は主人である黎明を憎んでいる。極端な話、風月が黎明の側仕えに徹するのは復讐の機会を狙っていると言っていいくらいだ。
その内心を知っていながら、黎明は風月に自分の身の回りを委ねている。
際どい関係性だが、白髪の主人は聡明なメイドが復讐心によって自分を見失うような女性ではないと確信していた。岬の変容は風月にとっても不都合であるはずで、和佐と編入生の仲を取り戻すことにおいては意を共にすることも厭わないに違いない。
シスター蒼山からの突然の通知は、黎明の朝食中に起こった。応対したのはメイドの風月であり、母校の寮の監督者からの連絡はOGのメイドを驚かせた。
「岬様が今からこちらへ……? しかも起こった出来事を伝えてほしいとはどういうことです?」
不可解な要求だが、寮母から編入生の事情を聞くうちに風月の表情は引き締まった。変容の事情も一条邸に訪れる目的も不明であるが、一条和佐が昨晩から問題解決のためにルームメイトの実家に突入するくらいだから深刻な状況であると認識せざるを得ない。シスターも何らかの事態の変化を期待して、早朝からの編入生の外出を許可したのだろう。
確約の意を示して通話を切ると、風月はその内容をご主人様に報告した。聞いた黎明は驚いて食事の手を止める。
「シスター蒼山さんも思い切ったことをなさいますわね。そこまで岬ちゃんの様子がおかしいとおっしゃいますの?」
「蒼山様の口ぶりから、そう判断せざるを得ません。ましてや、お嬢様の行動を見る限りでは……」
「エミリーが岬ちゃんのためにそこまでするなんてね。本来なら感激したいところですけれど……」
黎明も風月も、実際の岬の悄然ぶりを目撃しているわけではないから、漏れ出た反応も半生気味である。
その脅威を思い知らされたのは、シスターの電話からおよそ二十分後のことであった。
呼び鈴を受けて出迎えた風月は眼を細めた。
シスターが深刻な声で連絡するのも無理はないと思った。持ち前の明るさも変態的な気質も残らず摘み取られた抜け殻のように、メイドには感じられた。
だが一点、奇妙に感じたところもある。ダイニングで待っていた黎明も同じことを考えていたに違いない。心が死んでいる割には岬の容姿は小綺麗に整えられていたからである。
肌も黒髪もきちんと手入れされており、服装はノースリーブの前開きのミニワンピに薄手のパーカー、そして雪葉と同様に黒のニーソックスを履いていた。さらに黒髪の上にリボン付きのベレー帽も被っており、外見だけならデートに赴く衣装と思ってしまいたくなる。ただひたすら、表情と雰囲気だけがひたすらに食い違っている。
アンバランスな風貌の少女に、黎明の声は心配と不安を乗せて発せられた。
「岬ちゃん……少し痩せたのではないかしら?」
「そうでしょうか? 普通にご飯を食べて、普通に生活してるだけですけど」
可憐な声にも覇気がない。他の面々も感じていたことだが、普段の彼女ならたとえ不調でもそれをさとられまいと自らを取り繕おうとするものだ。それすらも投げ捨ててしまうとは、寮母の言うとおりただごとではない。
風月が硬質な声ながら、やはり少女に気遣って問いかける。
「それで岬様は一体どのようなおもむきでこちらへ? ご主人様に何かご要望でも……」
「黎明さまにあたしのことを抱いてほしいんです。そして狂うほど愛してほしいんです」
「何ですって?」
黎明の柳眉が吊り上がる。編入生の少女が好意を抱いているのは妹であって自分ではないはずだ。
だが、これで岬の愛らしい格好の意図も理解できた。確かに、誘う目的においては間違った判断ではない。さすがは腐っても変態淑女といったところか。
むろん、そのあざとさに打ち震えている精神的余裕は今の黎明にない。
白い重たげな髪を左右に揺らした。
「わかりませんわ。今わたくしが岬ちゃんを襲って何になるといいますの?」
「あの方と同じにしてください。五年前に耳を奪った夕霧火影さんのように」
二人の纏った雰囲気が一変した。衝撃も一瞬、見目麗しい主従から鮮やかな怒気が滲み出る。
風月は疑念と憎悪の視線で不快な発言をした少女を睨みつけたが、黎明はそれだけでは済まさなかった。乱暴に食器を置いて席に立つと、岬の前まで歩み寄って右の頬を張り飛ばしたのである。
岬はよろめき、肩にかけていたバッグを床に落とした。なかなかに痛烈な音で頬が鳴ったが、彼女が衝撃を顔に浮かべたのは物理的な打擲より、それに続く聖花さまのお言葉の方であった。
「あの子のことで苦しんでいるのを知っていながら、よくもまあそんなことを抜かせますわね‼︎ わたくしが好きであんなことをやっていたと本気で思ってますの!?」
美しいかんばせを紅潮させて声を張り上げると、怜悧なメイドも白いドレスの主人に同調した。
「岬様に本当にその覚悟がおありなら、入水なり線路に飛び込むなり、お好きになさればよろしい。いらぬ騒動にご主人様を巻き込むのはおよしなさい」
たしなめるというより軽蔑の口調で言い放つと、風月は「それに」と前置きして床に落ちた岬のバッグに手をかけた。メイドでなくともルール違反の行為であるが、風月は構わなかった。
落ちた際に異音を察知した彼女は、中身をまさぐってその正体を一同に晒した。
「あっ……」
「これは一体なんです、岬様?」
風月が取り出したのは一本の小ビンだった。いかにも胡散臭い精力剤の一種だ。一条邸に向かう途中でコンビニエンスストアで購入したのだろう。
そのビンを購入者の眼前に突きつけて、風月は白い目をしながら言った。
「こんなものをご主人様に飲ませようと思っていたのですか。さりげなく。私の目がある中でそのような真似を許すとお思いですか」
岬が気まずげにうつむくと、ようやく怒りが鎮まった黎明は疲れたような息を吐いた。
「岬ちゃん、あなたは本来そのようなことを言う子ではないはずですわ。何らかのショッキングな出来事で気が触れているだけ。どうか今後の処遇が決まるまで、客室で大人しく休んでなさいな」
ふうちゃん、お願い、とだけ命じて、メイドは立ち尽くす編入生をその客室へとうながした。抵抗する場合は意識を失わせて勝手に運ぶことまで考えていたが、このときの岬は黎明の言いつけに素直に応じていた。バッグを拾い、足を引きずるようにして歩き出す。
そして、朝食を済ませた黎明は自分の部屋に戻り、先ほどの内容を電話で妹に報告したのである。そしてキッチンで風月と合流してささやかな会話をしたわけだ。
風月の食器洗いが終わると、すぐさま岬のいる客室へと訪れた。
問題の編入生はベッドに座り込んでおり、感情の失った顔つきで虚無を眺めていた。主人とメイドの来訪にも最初は無反応であったが、二人が接近してきたことでわずかに視線を動かす。
プルーン色の光をさらに弱々しくさせ、力のない声で問いかけた。
「……何かご用ですか? もしかして、憂さ晴らしにさらにあたしを叩いてくださるのですか?」
「ご冗談を。これから身体を重ねようとする相手にどうして暴力など振るえますかしら」
風月がぎょっとなって隣の主人を見た。誘いに応じるとは話が違う、何を考えておられるのかと藍色の瞳を光らせている。
そして岬は要望を聞いてもらえたというのに大して嬉しげもない様子で頭を小さく縦に振ったのだった。
「……ありがとうございます」
「ただし、条件がありますの。熊谷瑠乃亜さんについて余すところなく話してくださらないかしら?」
岬の顔がこわばった。なぜ、彼女が熊谷先輩の名を……と思う間もなく、絶望が表情全体を蝕み、すぐにでも逃げ出したいとばかりにニーソックスに包まれた脚をもぞもぞと動かす。
黎明の優しそうに見える瞳を受けて、岬は震え声で尋ねた。
「なんで……そんなことを話さなきゃならないんですか?」
「事情がわからずじまいでは、気が散ってあなたを愛するどころではありませんわ。岬ちゃんが本調子を取り戻して、初めて愛し合うことができますの」
なるほど、と聞いていた風月は諒解した。情報を引き出すために交渉に応じるふりをするというわけだ。主人の決断に異論を挟む気はないが、これだけの頭の冴えを見せておきながら、妹やメイド(風月自身も含む)の関係がうまくいかないのは奇妙なものである。今でこそ妹と結託しているが、もともと二人は崩壊直前の関係にあったのである。
姉妹のこじれた関係を思わぬかたちでつなぎ止めた岬は、持ち前の聡明さに基づかない判断をとった。本来の彼女なら一歩引いて考え込む余裕はあったはずだが、よほど自分の妄執にこだわっているらしく、虚げな表情のまま、白髪の聖花さまの陥穽に踏み込もうとしていく。
「……それで、先輩についてどこから話せばいいんでしょう?」
「初めからですわ。あなたと熊谷さんが出会った瞬間から、すべてを」




