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ライラック色の少女たち  作者: 斉藤なめたけ
第六章 絶望の夜
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1.告白を終えて

 食堂がしんと静まり返った。一条家のメイドは表情に冷静さを装う意思もなく、焼き切らんばかりの視線で白髪のご主人様を睨みつけている。

 岬と和佐は椅子の上で身動きがとれなかった。声も出せなかった。タチの悪い冗談と信じたかったが、その黎明さまは慚愧(ざんぎ)に堪えない様子で肩を震わせている。


 先に立ち直ったのは和佐のが椅子から身を乗り出して姉に対して声を震わせた。


「火影の耳を食いちぎった……? 本当なの、黎明!?」


 問われた姉は頑として答えようとしない。

 代わりに風月が激情を押し殺した声で説明した。


「私はお師匠様の協力を受け、この件を極秘で処理いたしました。火影を秘密裏に病院へ送り、現場の痕跡を完全に消し去り、そしてお嬢様と学校の方々には、耳の持病が悪化したとだけ説明したのです」

「……私は、何も知らなかったわ」


 和佐の声は屈辱感にまみれていた。


「私も一条家の娘だというのに、家の事情を何ひとつ打ち明けてもらえなかった。あなたたちにとって、私はその程度の存在でしかなかったわけね」

「当時お嬢様はまだ十歳でございましたから、語るには重すぎるとお師匠様が判断なさったのです。……火影はそれまで仕える当初からご主人様にぞっこんでございましたが、治療を受けて戻ってきた後には偏愛した様子から一変し、まるで化け物を見るかのごとくご主人様に恐れおののき、失意のまま屋敷を去っていったのです」


 悪意を込めて説明し、悪意を込めてご主人様を見る。黎明は引き続き無言を貫いていたが、代わりにその向かいの席から尋常ならざるうめきが低く響いた。


「まさか、そんな……人間の歯で? それで耳たぶを噛みちぎるなんて、そんなことが……」

「過去にプロレスラー選手が興奮のあまり対戦相手の耳を食い破ったという事例もありますが……あ、いえ、これ以上はやめておきましょう」


 上野岬は四人の中で最もひどい顔色を浮かべていた。凍った汚水が溶け、それが体内に染み込んでいくような嫌悪感に彼女はとらわれていた。取り込んだばかりの夕食が逆流しないよう、必死にこらえる必要があったのだ。


「岬ちゃん、だいじょうぶ……?」


 今まで黙っていた黎明さまが、久しぶりに口を開く。


「もし苦しいのなら、客室に戻って休みなさいな。夕食なら後でふうちゃんに届けさせますから」

「いえ……最後までここに居させてください」


 岬は声を振り絞った。和佐のルームメイトをまっとうする身として、ここで逃げ出すわけにはいかない。風月は編入生の少女に対しては真摯に謝罪した。


「では火影の件はここまでにいたしましょう。ともあれ、これでご主人様がお嬢様に触れられない真の理由はおわかりでしょう?」

「まさか……」


 和佐は息を呑んだ。


「もし黎明に抱かれたら、私は火影の二の舞を演じることのなる……そう言いたいわけ?」

「二の舞程度で済むならまだましなほうです」


 風月の声は重い。


「私の目から見ましても、お嬢様のお身体は素晴らしいものと思われます。それはもう、火影の肢体などと比較にならないくらいに……。だからこそ、ご主人様の理性が飛んだ際の行動がまったく予想ができないのです。少なくとも、狂気に駆られた結果、右耳だけで済むとは思えません」


 和佐が姉によって体躯を欠損させられる様子を想起し、再び岬の胃が揺り動かされる。聖花さまの仰った「メチャクチャにしちゃうかも」の本当の意味を否が応でも思い知らされたのだ。

 岬の生理的嫌悪は、聖花さまのおぞましい真実のみに留まらない。長椅子の上で、もしそこで聖花さまの理性の(たが)が外れてしまったら、自分も火影と同じ目に遭ったのかもしれなかったのである。


 編入生の顔色の悪さも大したものだが、彼女と同じくらいかんばせを憔悴していたのが聖花さまである。潤んだ声で、ぽつぽつと当時のことを語り始めた。


「わたくしは……このとき、頭が真っ白になって……あまりにも気持ちよくって、自分で自分が抑えきれないくらいに興奮しちゃって……でも、あれは決してわたくしの意思でしたものではないですわ! そんなこと、ひいちゃんを傷つけるなんてこと、わたくしが望むはずが……」

「ご主人様が何を思おうが、火影の人生を狂わせたのは事実ではないですか。……まあでも、あなたにとっては幸運なことでございましょう。お嬢様にとってもです。もしご主人様が幼い妹に手を出すような節操なしならば、火影の代わりに耳が奪われたのは実の妹の可能性もあったのですから」

「やめて!!」


 半狂乱の様子で豊かな白髪を振り乱す。


「エミリーもひいちゃんも大切な存在ですわ! 不幸な目に遭わせたいなんて誰が望むといいますの!? 一体どうして! わたくしはただ、お二人のことを心から愛してやりたかっただけなのに……!! せっかくエミリーのほうから歩み寄ってくれたというのに、それに報いてあげられないなんて!!」


 悲痛げに叫んだ黎明さまはそのまま椅子にもたれかかって苦しげに胸を上下させたが、ふいに額を押さえながら立ち上がった。


「……申し訳ありませんが、わたくしはここで失礼させていただきますわ。これ以上エミリーの姿を見てしまったら、わたくしはもう、歯止めが利かなくなってしまいそう……」

「お姉ちゃん!!」


 椅子を蹴倒す勢いで和佐が立ち上がる。黎明は食堂の扉をすでに開けていたが、最後に愛する妹に向けて告げた。


「どうか、岬ちゃんとお幸せに。そして、大好きなあなたを愛してやれなくてごめんなさい……ッ」


 泣き出す衝動を語尾に連ねさせ、妹を愛する姉は逃げるようにして食堂を後にした。すぐさま和佐が追いかけ、風月、岬と後に続く。岬の移動速度が遅いのは、彼女の腹の具合を鑑みればやむを得ないことであった。


 ようやく追いつくと、そこには一足遅かった和佐が必死の形相で扉を叩き続けている。そこには冷静なお嬢様の面影はどこにもうかがえない。


「お願い! お姉ちゃん、開けて!! 顔を見せてよッ!!」


 このときの和佐のかんばせは、岬にきわめて深い感慨を与えた。五年間、ずっと不器用に塗り固めてきた知的少女の化粧が完全に剥がれ落ち、十歳から時を止め続けた、いたいけな少女の顔がそこに表れていた。

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