起
「さくらなのに夏が好きって、なんか変なの」
「いいでしょ別に。私だって好きでさくらって名前に生まれたわけじゃないもん」
「じゃあ何がよかったのさ」
「うーん、カルキとか」
「いやごめん、流石についていけない」
もっと色々あるだろう。夏海とか陽向とか、ちょっと小洒落て真凛とか、きっと似合うだろうに。
「えーなんで、プールの匂い、嫌い?」
「別に嫌いじゃないけど、特別好きでもないよ」
プールに行く度鼻を突く塩素の匂いは、確かに一抹の懐かしさを感じさせはするが、だからといって好みの匂いかと言われればそうではない。あれはプールで嗅ぐからいい匂いなのだ。
彼女——さくらの手元の問題集はほとんど白紙だった。数学が苦手だというから僕の問題集を貸してあげたのに、さくらはさっきから手よりも口を動かしていた。
「あのさ、もうすぐ期末テストなのに勉強しなくていいの? 前回怒られたんでしょ」
「私はいいの、天才だから」
「はいはい」
無視して手元の英単語帳に目を移す。日本語訳を赤いプラスチックシートで隠し、英語だけを見て脳内で訳を思い浮かべた。だが内容は頭に入って来ない。目の前で退屈そうに髪をいじるさくらが視界の端にちらつき、集中できなかった。
僕は、諦めて彼女に構うことにした。「あ、そうだ」と少しわざとらしく話しかけると、彼女の顔にぱあっと花が開いた。
「帰りに家寄っていい? この間言ってた漫画借りたい」
「うん、いいよ。私も借りてた漫画返すね」
このままここにいても勉強が捗らないと察した僕は、手早く荷物をまとめ、学校を出ることにした。
家までの道中、彼女は絶えず何かしらの話題を振ってくる。やれ彼女はできたのか、やれ昨日見たテレビ番組がどうだ、そんなことばかり。
様々な色の花を咲かせる彼女の表情を見ていると飽きないが、僕はというと、「あぁ」とか「そうだね」と相槌を打つだけだ。それでも彼女は、聞いてもらえるのが嬉しいのか、幸福感に満ちた顔で、右へ左へぴょこぴょこ軽快に跳ねている。
彼女の家のドアが開くと、中から少しやつれた初老の女性が姿を現した。1年ほど前は歳を感じさせないほど快活で、艶やかな黒髪を躍らせていたはずが、今はその元気にも翳りが見えた。髪にも、生気の抜けた白髪がちらほらと見えた。
「あら翼くん、いつもいつもありがとうね」
「いえ、今日はちょっと漫画を借りに来ただけなので、すぐ帰ります」
「えーすぐ帰るの! ゆっくりして行けばいいのにぃ」
さくらがむすっとした顔で膨れる。彼女の母親は、そんな娘を気遣うようににっこりと微笑んだ。
「ゆっくりしていってください。あとでお茶でも持って行くわね」
「さっすがお母さん! わかってるー! 私紅茶ね!」
「いやほんと、お構いなく」
玄関のすぐ横の階段を登り、突きあたりの彼女の部屋に入る。女の子らしく整頓された小綺麗な部屋だ。少し小綺麗すぎて彼女がここで生活をしているのか不安になってくる。机の上に写真立てが置かれているが、ここからは何が写っているのかまでは見えなかった。
「おーいそんなにジロジロ見ないでよ。下着とか落ちてたらどうするのさ」
「君のお母さんが掃除してるんだからそんなの落ちてるわけないでしょ」
「うっ……それはそうだけどさぁ。ってかお母さん! 思春期真っ只中の女子高生の部屋掃除しないでよって思わない!?」
「うーん、君が普段からちゃんと自分で掃除する子だったらよかったんじゃない?」
「それは……そうだけどさぁ」
ちょっと意地悪というと、彼女はわかりやすく凹む。それが面白くて、僕はふふっと笑った。
彼女からちょっと前に流行っていた少年漫画を借り、僕は暗くなる前に彼女の家を後にした。彼女は「えーもうちょっとゆっくりしていけばいいのに!」と小学生のような駄々をこねていたが、「今日の晩御飯は僕の好物の肉じゃがなんだ」と突っぱねたら食に従順な彼女はむぅと押し黙った。
家から出るとき、彼女の母親が「また来てちょうだいね」と疲れを押し隠したような笑みで言った。その木枯らしのような乾いた声に、僕は「はい」としか返すことができなかった。