08 シルバーライト男爵
最近十八歳になったシェリル・シルバーライト男爵は、貴族でありながらメイドだった。
働いているのは王宮。
しかし、王族に直接仕えているのではない。
この国の『王女殿下のメイド』をしている『公爵家の娘のメイド』という、とても悲しいポジションだった。
なにせ王女殿下のお世話をするには、それなりの身分の娘でなければ務まらない。
そして、それなりの身分の娘であるから、やはりメイドが欲しい。
ならば、シェリルもシルバーライト男爵家の家督を継いだ者としてメイドが欲しい……が、残念ながらシェリルは一番の下っ端だった。
自分の世話は、自分でやるのだ。
家もないので、王宮の隅っこの小さな部屋を借りて暮らしている。
王家のパーティーで余った食材などをもらえるので、それなりに快適な暮らしだ。
しかし、貴族らしさはどこにもない。
シルバーライト男爵家はこれでも、昔は領地を持っていたのだ。
いや、正確には今でもある。
しかし地下水脈が枯渇し、井戸が涸れてしまった。
もともと雨が少ない土地だったので、あっという間に人が住めないほど乾燥し、荒野になってしまった。
地図上ではシルバーライト男爵領となっているその土地は、この二百年ほど誰も住んでいない。
ただ廃村と廃教会があるだけだ。
一昨年に亡くなった父は、結局、一度も自分の領地を見ることなく一生を終えた。
そして家督を受け継いだシェリルも、おそらく領地を見ることはないだろう。
『王女殿下のメイドをしている公爵家の娘』の機嫌を損ねないよう、家事を行なう日々だ。
こうして王宮で働いているから、何となく貴族である気分を味わえている。
しかし、気分だけだ。
いっそのこと、実家に帰ってしまった平民の母を追いかけるべきかもしれない。
母の実家は猟師だった。
そうだ。私も猟師になろう――なんてことを考えていた、ある日。
同僚の下っ端メイドたちと世間話をしていると、妙な噂話が出てきた。
「ねえねえシェリル。知ってる? あんたのとこの領地の話」
「え、何の話ですか? 私の領地がどうしたというのです?」
「ああ、その様子だと知らないみたいね。いや、私も人から聞いただけなんだけど……シルバーライト男爵領って荒野じゃない?」
「はい。この目で見たことはありませんけど……二百年ほど前に地下水脈が涸れ、雨もほとんど降らず、無人の荒野になっているはずです」
「でしょ? なのにさ。旅人が近道だからってシルバーライト男爵領を横切ろうとしたら、なんか湖とか草原とかが広がっていたんだって」
「え、え? 湖? 草原? そんな、まさか。それでしたら私、今すぐにでも再開拓しますよ」
「だよねー。いやぁ、噂話ってアテにならないよねー」
その日の井戸端会議はそれで終了し、それぞれの仕事に戻った。
シェリルは初め、たんなる噂話としか考えていなかった。
だが、次第に「もしかして本当なのでは?」と思うようになった。
なにせ、シルバーライト男爵領などという忘れ去られた土地に関して、嘘の噂をわざわざ流す理由がない。誰の利益にもならない。
だからこそ、信憑性が出てくる。
シェリルは、現地に行って自分の目で確かめたくなった。
そうして悶々とした日々を送っていると、今度は別のメイドからも同じ噂話を聞かされた。
その瞬間、シェリルは決意した。
「お暇を頂きたいのですが――」
そう言ってメイドを辞めたシェリルは、ささやかな貯金で旅の支度をして、王都を出立する。
目指すは自分の領地。
もし噂が本当なら、自分は本当の貴族になれる。
嘘だったら……そのときは母の実家に転がり込もう。
いずれにせよ、あのまま王宮に残っていても、未来はないのだから。
△
そして五日後。
シェリルはようやく、シルバーライト男爵領にほど近い場所まで辿り着いた。
初めての旅だというのに、よく迷子にならなかったと我ながら感心した。
もっとも、それだけ、この国の街道が整備されている証拠だ。
分かれ道には必ず立て札があり、それさえ見ていれば、迷子になる心配はなかった。
とはいえ、街道が整備されているのはここまでだ。
見捨てられた土地であるシルバーライト男爵領へ通じる街道は、この二百年、全く整備されていない。
おそらく、道があったという痕跡すら残っていないだろう。
「ええっと……この大きな木を右に……ですよね?」
シェリルの目の前には、草原にそびえる一本の大木があった。
地図を見る限り、ここから右に行けば、シルバーライト男爵領に通じているらしい。
一応、そこには立て札があり、地図を裏付けることが書いてあった。
が、立て札があっても道はない。
いや、よく見ると、草の下に石畳が残っていた。
この石畳を辿っていけば、シェリルの領地があるのだろう。
「よし……行きますよ!」
シェリルは二百年前まで道だった場所を歩き始める。
いつか、この草むらが消え、荒野が現れるはずだ。
それこそが、シルバーライト男爵領。
あと半日も歩けば、到着する。
「……おかしいです。草むらがどこまでも続いています……荒野などどこにもありません……」
心細くて、シェリルは独り言が増えてきた。
そして実際、もういい加減、付いてもいい頃合いなのに、ない。
美しくすらある草原がどこまでも広がっている。
おかしい。
旅人の噂が本当だったとしても、草原は湖の周りにしかなかったはずだ。
しかし、これでは、地平線の彼方まで緑に覆われてしまったことになる。
もしや、どこかで道を間違えたのだろうか。
だが、足下の草の下には、石畳がある。
ここで正しいはずだ。
せっかくここまで来たのだから、石畳が消えるまで進んでみようと、シェリルは歩く。
やがて、森が見えてきた。
隣には美しい湖があった。
なだらかな丘もあり、その上には古びた教会が建っている。
「まさか、ここが、シルバーライト男爵領…………?」
あの丘も、教会も、シェリルは見覚えがある。
先祖代々伝わる風景画に描かれていたものと同じだ。
しかし、湖などなかった。森もなかった。
ここには小さな村と、ささやかな畑があったはずだ。
やはり道を間違えたのか。いや、ならばあの丘と教会もないだろう。
一体、いつからこんな緑豊かな場所になったのか。
シェリルは訳も分からず、湖へと歩み寄る。
信じがたいほど透明度が高い。底まで見えてしまう。
「……村が、沈んでいますね」
原因はわからない。
だが、これでハッキリした。
突如として地下水脈が復活し、地上に水が噴き出して湖となり、そして植物が育ち、草原と森が広がったのだ。
「こ、これなら人が住めます……この光景を見せれば、誰だって開拓の費用を貸してくれるに違いありません!」
シェリルは興奮して大声を出した。
心臓がバクバクする。
夢を見ているのではないかと疑い、頬をつねってみる。
痛い。これは現実だ。凄い!
「やりました! やりましたよぉ!」
と、叫んだ瞬間。
湖の反対側で、バシャッと水しぶきが上がった。
見れば、小さな女の子が裸で泳いでいた。
遠くなのでよく分からないが、十歳くらいだろうか。
銀色の髪を腰まで伸ばしている。輝くような白い肌。
人相が分からないのに、神々しいほど美しいと思ってしまった。
向こうもシェリルに気づいたらしく、こちらをジッと見つめてきた。
そして、シェリル以上の大声で叫ぶ。
「うわあっ、人間だぁぁぁぁアッ! 逃げろぉぉぉぉぉおっ!」
「ぷにー」
少女が叫ぶと同時に、湖から大きなスライムが飛び出した。
そして少女はスライムに飛び乗り、丘の上へと走らせた。
「え、そんな、人の顔を見るなりいきなり……ちょっと待ってください!」
シェリルも走る。
あの少女が何者か知らないが、もしかしたら、この場所がこうなってしまった理由を知っているかもしれない。
「にしても……あの子、わたくしを見て『人間だ』と……まるで自分は人間ではないとでも言いたげな……まさか、そんな」
この世界には、人間とそっくりな生き物がいる。
エルフやドワーフといった種族だ。
少女はその類いなのだろうか。
シェリルは疑問を抱きながら、丘へ向かって走った。