22 チョコレートバリア
自分は冷静な魔族であると、イクリプスは自負していた。
必要以上のことは語らず、与えられた任務を忠実に実行する。
それこそが自分の存在理由であり、誇りでもあった。
そう。開発主任の教育などなくても、カプセルの中で行なわれた機械的な調整だけで、イクリプスは生物兵器として完成していたのだ。
しかし、開発主任が『念には念を入れて、甘い物で釣ろう』などと余計なことを思いついたせいで、イクリプスの心は乱れてしまった。
冷静沈着になろうとしても、頭の隅に砂糖がチラついてしまう。
実際に差し出されようものなら、完全に思考が停止し、砂糖を食べることしか考えられなくなってしまう。
口調や表情も一変し、もはや別人。
イクリプスは、甘い物のことを考えている自分は、自分ではないと思っていた。開発主任のミスによって発生した欠陥である。
あんな、まるっきり子供のように砂糖を舐めながら、はしゃいでいる姿をイクリプスだと思われてはたまらない。
(あれは私ではない――!)
玉座の前で醜態をさらしてしまったことを恥じながら、イクリプスは命じられたとおり、アイリスがいる村へと向かった。
開発主任と大魔王に教えてもらった情報によれば、アイリスは丘の上にある教会でゴロゴロしていることが多いらしい。
一刻も早くアイリスをクリフォト大陸に連れ戻し、ご褒美の砂糖を――いや、違う。砂糖などもらえずとも、イクリプスは任務を果たす。
むしろ砂糖のことを考えているせいで、集中力が落ちている。
開発主任は何を考えてイクリプスに砂糖を食べさせたのか。
自分が作った生物兵器がどのくらい真面目なのか調べもせずに甘い物を与えるなど、短慮の極み。
遺伝子上の父親である大魔王もあまり知性的な感じはしない、もしかしたら魔族というのはアホの集団なのではないか――そんな疑惑がイクリプスの中に湧き上がってくる。
自分だけは違うぞ、という自負とともに、イクリプスは草原の上スレスレを飛行する。
上空から侵入するとアイリスに発見される恐れがあるので、低空から侵入するのだ。
更に、存在感を希薄にする魔術を使用し、気配を悟られないようにする。
この魔術があれば、たとえ目の前を通り過ぎたとしても、よほど注意していないと誰もイクリプスには気がつかないはず。
ここまでやらないと安心できない。
なにせアイリスは、任務を果たす気がゼロのぐーたら生物兵器らしいが、それでもイクリプスと同じ方法で作られた生物兵器だ。
新型である自分のほうが強いに違いないが、念には念を入れるのがイクリプスのやり方なのだ。
(村民たちが畑に何か植えている……どうやら甘い物とは関係なさそうだ)
もし村が甘い物であふれかえっていたら、イクリプスは冷静に行動することができない。
逃げることすらできず、ひたすら甘い物を食べ続けるだけの生き物になってしまうだろう。
それでは任務を放棄したアイリスと同じだ。
イクリプスは決して、そんな無責任なことはしないのだ。
断固として甘い物を回避し、誰にも気づかれることなく丘の上の教会に辿り着き、アイリスに拘束魔術の奇襲を加え、素早く連れ帰る。
(いくら認識妨害の魔術を使っているからと言って、真正面から入るのは危険だな……)
イクリプスは教会の裏口を発見したので、それを静かに開ける。
その瞬間、甘い匂いが鼻先をかすめた。
(っ!?)
教会の中にはアイリスの他にも、金髪の人間一人と、赤い髪の人間が二人いた。
いや、赤い髪のは人間ではない。気配からして、おそらくはドラゴン。
なぜこんな場所にドラゴンが二匹もいるのだろうか。
無論、イクリプスにとって、ドラゴンなど敵ではない。二匹同時でも余裕を持って勝てる。
しかし、それがアイリスの味方になっているというのは、実にうっとうしい。
連携されたら、やっかいなことになるかもしれない。
あと、大きなスライムがプニプニしているが……これは戦力として無視してもいいだろう。
だが、そういう真面目なことはどうでもよかった。
なにせ、甘い匂いだ。
そして、教会の中にいる連中は、その匂いの元を食べているのだ。
とても美味しそうな、焦げ茶色の板。
それを見た途端、イクリプスの理性は溶け去った。
「なにそれ、おいしそーう! 私にもちょうだぁぁぁいっ!」
ここまで誰にも見つかることなく接近できたのに、自ら大声を出してしまった。
これでは認識妨害の魔術も役に立たない。
アイリスを含む全員がイクリプスを振り向いた。
だがイクリプスはすでに甘い物のことしか考えていなかったので、気にせずパタパタと走って教会に入っていく。
「それちょーだい、ちょーだい!」
イクリプスはピョンピョン飛び跳ねておねだりする。
「……はて? この子、どこのどなたでしょう? この村にはいなかったはずですが」
そう言って金髪の少女は首をかしげる。
「あんたアホだから領民の顔を忘れたんじゃないの?」
赤い髪の少女が辛辣な指摘をする。
「ひ、酷いですね! いくらなんでも、こんな小さくて可愛い子を忘れたりしません! それにしても……どことなくアイリス様に似ていますね。髪の色も銀色ですし……」
「そうねー。もしかして、アイリスちゃんの家族? ……あら? アイリスちゃんはどこかしら?」
同じく赤い髪の、しかし大人びた女性が首をキョロキョロさせる。
そう。
アイリスはイクリプスが声を上げた瞬間、もの凄い速さで動き、スライムの後ろに隠れてしまったのだ。
もしや、イクリプスがアイリスを連れ去るために現れたと気づいたのだろうか。
だとすれば恐ろしい勘の持ち主。
教会に入る前はともかく、今のイクリプスの頭に任務のことなど一欠片も残っていないというのに。
「アイリス様。なぜプニガミ様の後ろに?」
「だ、だって知らない人がいきなり入ってきたから……でもその子……人間じゃないわね」
「そうねー。この気配は、アイリスちゃんと同じ魔族みたいねー」
「え? ジェシカさん、何を言っているんですか? アイリス様は女神様であり、この土地の守護神ですよ?」
金髪の少女はアホっぽい顔で疑問を口にする。
だが、アイリスは女神ではない。大魔王の遺伝子を元に作られた生物兵器であり、魔族である。
「だからさー。何度か言ったじゃないの。私、クリフォト大陸から来た魔族だって。シェリルったら全然信じてくれないんだから」
「ええ!? それは冗談ですよねっ? 魔族なんて千年も前のおとぎ話ですよ。まだ生き残ってたんですか!?」
「生き残ってるわよ。え、なに。人間的には、魔族ってもう完全に滅んだことになってるの?」
アイリスがスライムの影から金髪の少女に問いかける。
「いえ……今まで魔族について深く考えたことがなかったもので。大昔に人間と戦争してクリフォト島に追いやられたという話は子供の頃に聞いたのですが……普通に生きていて魔族と関わることなんてないですからね」
「そんなのはどうでもいいから、その美味しそうなのちょうだーい」
イクリプスは金髪の少女の前に立ち、両手を差し出す。
「チョコレートが食べたいんですか? 私の食べかけでよかったらどうぞ」
「わーい! ちょこれーと!」
そのチョコレートという食べ物を、早速口に入れる。
堅い食べ物だ。見た目通りの板。しかし簡単にかみ砕ける。
ボリボリ……。
「な、なにこれー! こんな美味しいもの、はじめて食べたー!」
チョコレートの味に感激し、イクリプスは飛び跳ねた。
飛び跳ねながら残りを食べる。
あまりの美味しさに飛び跳ねるだけでは飽き足らず、くるりと一回転してしまう。
「わー、すごい。元気な子ですねー。お名前はなんて言うんですか?」
金髪の少女はイクリプスの頭を撫でながら尋ねてきた。
「イクリプスっていうのー」
「イクリプスちゃんですか。イクリプスちゃんは、魔族なんですかー?」
「うん、そーだよー。アイリスと同じく、大魔王の遺伝子を元に作られた生物兵器なのー。人類を根絶やしにするために作られたんだよー」
「へー、人類を根絶やしに……って、ええ!?」
「でも大丈夫だよー。今日はー、アイリスを連れ戻しに来ただけだからー」
「そ、そうなんですか……それは一安心……いや、駄目です! アイリス様を連れて行っては駄目です!」
そう言って金髪の少女はイクリプスの両頬を掴み、むにーっと引っ張ってきた。
「はひー、なにしゅるのー」
「イクリプスちゃんが誘拐宣言するからお仕置きですよ!」
「誘拐じゃないもん。アイリスはもともとクリフォト大陸から来たんだから、家に帰るだけだよー」
「たとえ魔族だったとしても、今のアイリス様は守護神です! ずっとこの教会に引きこもってもらうんです! というわけで、イクリプスちゃんは遠慮してください! チョコレート上げますから!」
「わかったー。チョコレートくれるならアイリスのことは諦めるー」
「くっ、流石にチョコくらいでは懐柔できない……ん?」
「チョコちょうだい、チョコちょうだい!」
「は、はい……どうぞ」
金髪の少女はバスケットから新しいチョコレートを取り出した。
「わーい、おいしー! チョコがあればあとは何もいらなーい! アイリスもいらなーい!」
イクリプスは新しいチョコレートをもらって大満足だった。
本気で任務のことなどどうでもいいと思っていた。
普段の冷静なイクリプスは、どこにも残っていない。ただチョコレートを食べるだけの生き物になってしまった。




