ミセリコルデ
一九九一年十二月二十五日 シベリア上空
高度一万五〇〇〇メートルの高高度を黒く塗られたB-52が飛んでいる。
B-52は、全長四十八・五メートル、全幅五十六・四メートル。ターボファンエンジン八基を備え、最大搭載量は三一・五トンを誇る戦略爆撃機だ。
大きな搭載量と航続距離を活かしたB-52は自らの能力を十全に発揮せんとイルクーツクに向けて飛行を続けていた。
事の起こりはソヴィエトで八月に起こったクーデターにある。
八月十八日に発生したクーデターの動きは歴史通りの展開をたどっていた。書記長を軟禁した『国家非常事態委員会』は、市民と改革派の抵抗にあいクーデターは失敗に終わる――かに思われた。しかし、軍が八月二十日に国家非常事態委員会の支持を表明したことで歴史が変わる。
失敗するはずだったクーデターは成功した。
権力を完全に掌握した国家非常事態委員会はクーデターに抵抗した改革派を追放し、多くの市民を逮捕した。傍観を決め込んだ軍の一部は抗命と反乱の咎で武装解除され、彼らを阻むものは国内にいなくなった。
西側諸国は、これらの弾圧に対し非難声明を発し経済的な圧力を加えた。一部の国――主に米国――などは軍事力をチラつかせソヴィエト新政権に圧力を加えるに至った。
後世の視点から見るに、クーデター政権に対し圧力を加え、対話の場に引きずり出すことを狙ったものであると判断されるが、西側諸国の試みの多くは、新政権の態度を強硬なものに追いやるものであった。
西側諸国とソヴィエトとの緊張関係は増していくばかりだったが、新政権も徐々にではあるが冷静さを取り戻し、東西の緊張は緩和すると思われた。しかし、事態は急転回を迎える。
切っ掛けとなったのは、クーデターの成功により不首尾に終わったバルト三国の独立宣言である。多数の死傷者を出し独立派や改革派の逮捕で幕を閉じると思われた独立騒動は、新たな火種を国際社会に投じるに至った。逮捕された独立派の中に、米国のエージェントが確認されたのだ。新政権はソヴィエトの枠組みを破壊する敵対的な行為であると、米国を強く非難した。
外交関係は急速に悪化していった。国境の圧力は高まり、領空侵犯は相次ぎ、海上では拿捕事件が起こった。
ソヴィエト軍が動員を始めたとの報道により、西側諸国の市民はパニックになった。大多数の政治家や軍人は戦争を阻止するためにソヴィエトに対して働きかけを行ったが、新政権の西側諸国――とりわけ、米国への不信感――により、成果は得られず、いたずらに時間を浪費させるだけであった。
事態は加速していくだけだった。ソヴィエトの総動員は隠しようのないものだった。
危機に対抗するために西側諸国も動員をかけ、それが、より一層事態を悪化させていく。
そして、運命の時を迎える。
十一月七日。ワシントンD.C.に対し核攻撃が行われた。ほぼ同時刻、モスクワに核攻撃。ロンドン、パリ、ベルリン、ワルシャワ、アムステルダム、ブリュッセル、北京、上海、ソウル、ピョンヤン、東京…… 主要国の首都・大都市・軍事基地に対しても核攻撃が行われた。
核戦争――第三次世界大戦の勃発である。
互いの報復が広がり、各地の基地や中小都市にも核攻撃が行われ、破滅は連鎖的に広がっていく。
欧州には数百発の戦略核が放たれ、核砲弾と数千機の航空機に支援された数万両の戦車がスチームローラーとなってなだれ込み、日本では北海道と新潟に上陸したソヴィエト軍との熾烈な戦いが行われ、世界各地では西側、東側、双方の支援を受けた国同士が火花を散らした。
戦いは両者共倒れになると思われたが、ソヴィエトで一部の核弾頭が機能せず――後の調査で改革派のサボタージュと判明――戦いは西側優位で幕を閉じようとしていた。
開戦より六週間。世界では十数億人の死者を出していた。
わずか六週間の戦いでソヴィエトは風前の灯火に追い詰められていた。軍は一部を残し機能せず、市民の多くは強烈な放射線汚染に苦しめられていた。
十二月二十二日。アメリカ政府はソヴィエト政府に対し即時停戦を勧告。同日。ソヴィエト政府はこれを拒否。
十二月二十三日。四十八時間以内に停戦に受諾しなければ、ソヴィエト全土に再度の核攻撃を行うと通告。
戦いは終わりを告げようとしている……
△ ▼ △ ▼ △
「……そんなことだから、停戦勧告を無視したソヴィエトに核攻撃をするために俺らがここにいるってわけだ」
デズモンド・T・ドス大尉は目的地に向かって進撃するB-52の操縦席で小さくつぶやいた。
「どうしました、機長。何か考え事でも」
デズモンドの声に気が付いた、副操縦士のエドワード・トーマス中尉が話しかける。
「いや、何でもないさエド」
「何ですか機長。ここにきてブルっちまったんですか?」
航法士のデビット・ジャクソン上級曹長が軽口を叩く。
「我らが機長がブルっちまうだって? お前と違って、そんなこと空が落っこちてくるくらいにありえないことだぜ」
爆撃手のジェームズ・レイモンド曹長が声を上げて笑う。
「ジミー、空が落っこちてくるわけないだろ」
「空が落っこちてくるって言うのは、大昔の中国人が言ってたことなんだぜ。そうですよね、ダリル中尉?」
「中国の古いことわざで天が落ちてくると心配することを杞憂と言うんだ。取り越し苦労と言う意味だな」
電子戦士官のダリル・ロバーソン中尉は冷静な声で言った。
「流石インテリ。ジミー、俺の言ってたことは合ってるだろ」
「ああ、我らが機長がブルっちまうなんてありえないことだったな」
「お前たち、そろそろ目標だぞ。じゃれあってないで仕事にかかれ」
「わかってますよ機長」
「そうは言いますけどロシアに生きてる人間なんて残ってるんすか?」
「警戒レーダーに捕捉はされているから生き残りはいるだろう」ダリル中尉が割って入る。 「もっとも、迎撃レーダーの照射は一度も行われていないので、迎撃が行われるとは思えないが」
「我々は任務を全うするだけだ」デスモンド大尉は言った。 「だが、停戦が受諾されたのなら、すぐに引き返すぞ」
「機長も今回の任務は気が進みませんか?」
「エドワード中尉。どうして、そう思う」
「目標となっているイルクーツクはすでに核攻撃を受けています。通常攻撃を何度も受けていて、まともな反撃手段もありません。生き残っている人たちも、放射線で苦しんでいるだけです」
硬くなった声でエドワード中尉は言った。
「確かにそうだな。だが、我々は軍人だ。命令である限り拒否する理由は無い」
「それは、そうですが……」
「それに、今回の任務は出撃を拒否することもできた。だが、君は志願してここにいる」
「エド中尉は考えすぎっす」デイブは話に割り込んだ。 「開戦してからこっち十億人以上死んでるんすよ。今更、五〇万人増えたからって誤差みたいなもんじゃないっすか」
「そうです、エド中尉は気張りすぎです」
「エドワード中尉、あんまり思いつめないでください」
「そうだな。これだけの任務に思いつめすぎていたようだ」
エドワード中尉の張りつめていた声がほぐれる。
「大丈夫だな、エドワード」
「大丈夫です機長。やれます」
「時間だな」デズモンド大尉が言った。 「ソヴィエトは停戦勧告を拒否した。命令に変更はない。このまま、作戦を続行する」
「地形捜査レーダー作動」
爆撃手のジェイムス曹長が張りつめた声で言った。
「地形捜査レーダー作動確認。電子戦も行われていません」
ダリル中尉がいつも通りの落ち着いた口調で報告する。
「現在、イルクーツク南西三〇キロ。予定通りのコースです」
デビット上級曹長が言った。
「エドワード中尉。時間はどうだ?」
「機長。時間も予定通りです」
「よし、始めるぞ」
「はい」
「“B83”の安全装置解除に入ります」
ジェイムズは少し上ずった声で言った。
「ジミー、そんなに、緊張しなくても大丈夫だ。ここまで来たのに迎撃の気配もない。訓練通りにやるんだ」
「はい。機長」
二人は定められた手順を復唱して確認しながら安全装置を解除していく。
「爆弾庫の扉、開きます」
足元から爆弾庫を開かせるモーター音と振動が伝わってくる。計器盤のランプが緑に点灯し、開放を知らせる。
「爆弾庫の扉、開放確認」
「いいぞ、ジミー。こちらでも確認した」
「進路そのままです。爆撃コースに乗りました」
「投下は任せるぞ」
「任せてください」
「投下します。投下、投下、投下」
ロックが外れ爆弾が落とされ、機体が軽くなる。全長三・七メートル、重量一トンの水素爆弾が投下された。
「離脱するぞ! 各員閃光に気を付けろ」
放射線防護シールドに遮られ、届かないはずの光を感じる。数秒遅れて、地を震わせるような轟音が押し寄せ、機体を震わせた。
厚い雲は吹き飛ばされ、赤く染まっている。巨大な爆炎が大きく膨れ上がり、天に昇って行った。
周囲には同じような火柱がいくつも上がっている。生き残っていた都市に対し行われた核の――破滅の――炎だ。
「機長。我々のやったことは……」
「エド違うぞ。これは慈悲だ」
デスモンド大尉はエドワードに優しく語りかけるように言った。
「慈悲……ですか?」
「そうだ。これは慈悲だ。誰の助けもなく死んでいく者たちへの慈悲だ」
――そうだ、慈悲だ。慈悲の一撃だ。
機体はこの惨状から逃げるように機首を巡らせた。
赤くただれた大地を残して。
――神よ。どうか、どうか彼らに慈悲を与えたまえ。