第三話 『ノーブラザー・ノーライフ』
ある日の昼下がり。私は教室でとてつもなく飢えていた。
安らぎが欲しい。もっと直接的に言うなら、今此処に弟が欲しい。
抱きしめて撫で回してクンカクンカしたい。
「あ"あ"~……エトとイチャイチャしたいよ~……」
ぐでーんと突っ伏しながらそう独り言ちると、見慣れた巨漢が目の前に現れる。
熊切だ。
「毎日やってるじゃねぇか」
「はっ、甘いわね。毎日なんかじゃ足りない。毎時間、可能なら毎分毎秒常にエトに引っ付いていたい」
「引っ付き虫か何かかよ」
「そうね。いっそそれになりたいわ。身長百七十ちょいの引っ付き虫」
「待て待て怖い怖い怖い」
割と本気でそう思うくらいには引っ付いていたくなる。大抵の人にこれ言うと引かれるけど、あんな子犬のように「姉さん姉さん」と私の後ろを付いて回って趣味嗜好も似てる所が多々あって遊び相手にも付き合ってくれてサラサラの栗色の髪を乾かすも梳かすも自由にやらせてくれて更に晩御飯の準備とか積極的に手伝ってくれてご飯の感想訊くと毎回ちゃんと答えてくれる上に良い感じに背が小さくて容姿もどっちかっていうと男の子らしいというよりほんのちょっとだけ女の子っぽい雰囲気の可愛らしい顔立ちしてて……っていうところまで来たらもう抱く感情は『可愛い』と『大好き』の二つだけでしょって話なのに誰も同意してくれやしない。世の中狂ってるわ。
「……まあエトの可愛さを皆に知って欲しいと思う反面、私一人が独占したいっていう思いもあるから、逆にあの可愛さに気付いて欲しくないなって考えちゃう自分もいるのよねー」
「あ? 何だって?」
「気にしないでー。ただの独り言」
「そりゃお前のエトに対する愛のぼやきは耳にタコができるレベルで聞き飽きてるし、今更気にもしねぇよ」
「はあ? 少しは気にしなさいよぶっ飛ばすわよ」
「お前が気にするんじゃねぇって言ったんだろうが! 大体お前のその手のぼやきこれまでの数年何回聞かされたと思ってやがる」
「とりあえず確実に三年は言ってる気がする」
「三年間同じ事を毎日延々と聞かされる俺の身にもなれ」
「うむ。これからも精進せよ」
「何で上から目線なんですかねぇ?」
呆れるように溜息を吐く熊切。私とてそれなりの良識は持ってるし、熊切の言う事も概ね正論なのも理解してるけど、エト大好きアピールは今後も止める気はありませーん。今の私の唯一とも言える生き甲斐だからね。
「というか、あの荒くれ者で手がつけられなかった不良娘が、弟ができたってだけでこうも大人しくなるとはな」
「何よー。それは言わない約束でしょ」
「だが実際そうだろ。長らくお前とつるんできた俺ですら不思議に思うくらいなんだ。良い機会だし聞かせてくれよ。何がお前をそこまで変えたのか」
「……何って言われてもねえ」
全く予想していなかった質問に思わず口ごもる。
何でと問われても、明確に言葉に出来る程大した理由がある訳でもない。ただ一緒に過ごしてる内に、エトが喧嘩とかそういう荒事を好まない性格だと分かったからそういうのを避けるようにしてただけだし、あの子にとっての理想の姉がどんな感じなのか、会話を重ねていくにつれて少しずつ分かってきて、それに合わせて少しずつ言動を変えて……ってやっていった結果今の私になった訳で。
何が私を変えたのか、簡潔かつ明確に伝えるとしたら――。
「ただ純粋に、エトの存在そのものが私を変えた。としか言えないわね」
弟ができた後に何かがあって変わったのではなくて、弟ができたという事実そのものが変わった要因。
敢えて言葉にするとしたら、そんなところかしら。
「マジか。お前にとって、アイツの存在は本当にデカいんだな」
「そこは当然。あの子の為だったらいくらでも内面変えれるし、あの子が望む事なら何でもしてあげるよ」
実際何でも出来るかどうかは別として。
少なくとも、そういう気概だけは常に持って接してる。
「すげぇな。そこまで来ると最早すげぇとしか言えん」
「熊切にも好きな人とか、大切な人ができたら分かるんじゃない? 今の私の気持ちとか諸々が」
「好きな人ねぇ……イマイチ想像つかねえわ」
「あんたが色恋ってのは確かに想像出来ないけど、誰かいたりしないの? 気になる人とか」
「そうはいってもね~、別にこれといっては――」
「あらあら、何の話をしておりますの?」
熊切の言葉を遮るようにして、一人の女子生徒が近付いてきた。
アレは確かクローディア・R・アースベルグだったか。何処かの国のお金持ちの出だとか。何処の国かは忘れた。
本来私たちとは違うクラスなのだが、何故か偶にこうして遊びに来るのだ。私の周りには制服着崩してる奴が多いから、クローディアみたいに常にキッチリ正装として着ているのを見ると逆に新鮮に感じる。綺麗に肩口で切り揃えられた銀髪も相俟って、言葉にせずともお嬢様らしい雰囲気も醸し出している。
「お……おう、アースベルグ。急に来たから驚いちまったぜ」
「ふふっ。ごめんなさい。あと、わたくしの事はファーストネームで呼んで下さって構いませんのよ」
「いやぁ……それはちょっと気恥ずかしくて」
何やら熊切の様子がおかしい。いつもの無駄に出てる威圧感が今は全然無い。
「いやいや、私のことは何の気兼ねも無くロロって読んでるじゃん」
「お前とは腐れ縁で付き合いが長いからな。別なんだよ」
そういうものなのだろうか。納得しようとしたが、どうしてもちょっと解せない。
というか、熊切のこの態度……おや~? もしかして?
「ねえ熊切。あなたってもしかして」
「あん?」
「クローディアの事、すk」
「ああーっと! そうだ俺ちょっと隣のクラスに急用があるの思い出したわ! そんじゃ後でな!」
言うが早いか、足早に教室から姿を消す熊切。
いや誤魔化すの下手過ぎる。せめてもう少しバレないよう工夫しなさいよ。
「あらあら、熊切さんってばあんなに慌てて。本当に愉快な方ですわ」
「……あのさ、私らしかいないから率直に訊いちゃうけど、クローディアもしかして気付いてたりする?」
「んー? さて何の事でしょう? わたくし分かりませんわ~」
あ、これ完全に気付いてますわ。でもそうですよねー。あんなに分かりやすい反応してたら大体の人は気付きますよねー。
上品にクスクスと笑うクローディアを横目に、私は熊切が出て行った扉を眺めつつ心の中で応援した。頑張れ熊切。この箱入りお嬢様の気持ちがどうなのかは流石の私にも分からないけど、とりあえず頑張って。