その5 取り戻した力
この辺りではごく一般的な魔獣である灰色狼を、手傷を負わせた状態でペルルにけしかけたのであれば、『試験』としては妥当なレベル。
でも凶雲の下では、普段は起こらないようなことも起こる。
そんなことも分からないくらい、この試験官たちは焦ってたってことか……。
『さあどうする人間。報復から逃れたいのであれば、今すぐ我が子の傷を治してみせよ』
怒りと憎しみに満ちたその声に、俺は……小さく頷いた。
失敗すれば死は免れない。俺だけじゃなくペルルも、ここにいるヤツらも。
そして村人たちにも被害が及ぶ。
伝説級の危険な魔獣が近くに住んでいて、しかも人間と敵対したとなれば、あの村で平和に暮らしていける訳がない。討伐隊が結成されるにしてもいつになることか。藪をつついて蛇を出すくらいなら、この土地を捨てて逃げる方が楽だ。
つまり……皆の幸福な日常が、俺の肩にかかっている。
『無駄な時間稼ぎをするつもりなら、諦めた方が良い。お前の“村”の者は来ない』
北の方角を見やり、鼻をひくひくさせる銀色狼。俺は首を横に振った。
『そんなのアテにしてない』
『ではどうする? 我に手傷を負わせたその娘も、今や命は風前の灯火。そしてお前は力無き者――無能者だ』
今まで幾度となく告げられた台詞も、ひどく新鮮に響いた。
まさか魔獣の王にまで見抜かれるとは!
『どうして分かった?』
『我と思念を交わせるからだ。人間の持つ魔力は、我らの魔力とは違う。アレは意志疎通を阻害する』
『なるほどな……そういうからくりか』
無能者が神官や巫女になるのは、単に魔法が使えないからだと思っていた。弱いものを庇護するために、強い結界が張られた神殿の奥へ閉じ込めるのだと。
でもそうじゃなかった。
彼らは聖獣の声が聴ける。それはヘタな魔法にも勝る、確かな力だ。
つまり、俺がこうして会話できるのもあと少しってことで……。
『それじゃ先に言っておくけど、俺はアンタらに危害を加えるつもりはない。それだけは分かって欲しい』
『今さら言われずとも分かる。しかしお前、いったい何をするつもりだ……?』
魔獣の王が、片方だけ残った深紅の瞳を好奇に輝かせる。
会話をしながらも、俺は腕の中のペルルをそっと横たえていた。自分の着ていたローブを脱ぎ、少しでも痛みを与えないように、優しくくるんで。
紅葉のように小さな手を握ってみるも、ペルルは身じろぎ一つしない。固く目を閉じ、熱い吐息を漏らし続けるだけだ。
――どうすればいいかは、もう分かっていた。直感よりもさらに深い『本能』のレベルで。
一旦ペルルの手を離し、深呼吸する。
そして、高熱のせいで上気する柔らかな頬に手を添えて……。
『長い間、待たせて悪かったな。戻ってこい――俺の魔力!』
俺は何かに導かれるように、ペルルの唇に自分の唇を重ねた。
刹那。
暴れ狂う強大な魔力が俺の身体を駆け巡り、魂を粉々に打ち砕いた。自分を形作っていた全てが消え失せ……誰も知らない『俺』が生まれる。
生まれたての俺を支えてくれるのは、やはり女神の存在だった。
女神の教えは、絶対。
ペルルに分け与えた魔力は、倍の量になって戻ってくる。しかもペルルが地道な鍛錬を重ねて増やしたその総量は、俺の器には抱えきれないほどで……。
「グルルルルル……」
案の定、会話が通じなくなった銀色狼が獣の唸り声をあげる。
その声色から微かな不安を感じ取った俺は、あらためて敵意がないことを表すべく、両手を広げてみせた。
持ち上げた腕が、羽のように軽い。
今の俺なら空も飛べそうだな、なんて思いながら、俺は銀色狼の元へ歩み寄る。
全身から溢れる魔力は光の礫となり、勝手に周囲を“癒やして”いく。踏みしめた草も、激しい戦いに倒れた木々も、俺の身体から漏れ出す光に触れるだけでその傷を再生させる。
か弱い鳴き声をあげ続ける子狼の脚に、俺は指先をそっと触れた。
「ギャウンッ!」
辛そうな声は、矢を引き抜いたときのもの。すぐさま癒やしの光に触れ、無垢な子狼は安らかな微睡みへと落ちていく。
自ずと、赤ん坊だったペルルのことを思い出す。
あれから俺は、偽りの無能者として生きてきた。辛いこともあったけれど、全てはこの日のための布石だった気がする。
矢傷を一瞬で治すほどの魔力なんて、普通の人間じゃ有り得ない。これだけの力があれば、正面切って戦ったとしても良い勝負ができそうだ。
でもそんなことはしない。今の俺は慈愛に満ちた女神によって支えられている。
「ついでにアンタの瞳も治してやるよ。ここに伏せてくれ」
人間の声でも意思を汲み取れたのか、銀色狼は大人しく膝をつく。俺はトンッと地面を蹴り、前脚の上に飛び乗った。
そして、傷ついた左目に手のひらを翳すと。
「……うん、戻ったな。良かった」
斜めに走った鋭い傷は跡形もなく消えていた。鼻筋に残った血の涙も、この雨でいずれ洗い流されるだろう。
俺はふわりと地面へ降り立ち、今度はペルルの腹に触れる。時を巻き戻すかのように傷が再生されていくと同時に、全身にズシンと疲労感が生まれる。
今まで俺は『魔法』なんて一度も使ったことがなかった。だからやり方も分からないし、肉体に負担をかけているのも分かっていた。それでも目の前に倒れている人がいる限り、休む訳にはいかない。
鋭い爪に切り裂かれた『試験官』たち全員を癒やし終わった時には、意識が朦朧としていた。
最後の力を振り絞り、俺はペルルの傍らに膝をつく。
「ペルル……“お前の力”、勝手に借りて悪かったな」
そう呟き、もう一度ペルルに口づけた。俺の意志に逆らわず、体内に残る全ての魔力が本来の器へと戻って行く。
これでいい、と俺は思った。
最初に魔力を分け与えたとはいえ、それを育てたのはペルルだ。今さら返せなんて言えないし、言うつもりもない。今回はあくまでイレギュラーだ。
ペルルが死ぬなんて有り得ない。絶対あっちゃいけないんだ。
だからもう二度と、この“奇跡”は起こらない……。
そうして再び魔力空っぽの『無能者』となった俺を見て、銀色狼がいかにも愉しげな咆哮をあげた。
『面白い、面白いぞ人間! 我が子の脚と我が瞳を奇妙な魔法で治したこと、しかと覚えておく。この借りはいつか必ず返そう』
そう告げて、銀色狼の親子は森の奥へ立ち去った。
精魂尽き果てた俺は、その場に倒れ臥し……。
※主人公のモノローグを追加しました。
※「奇跡は二度と起こらない」の文言を追加しました。
※狼の台詞を一部修正しました。