幕間 老人と狼(後)
「はて、なぜワシはこの場に残ろうと思ったのやら……?」
若者たちが扉の向こうへ去った後、老人はあたかも他人事のように呟き、小首を傾げた。
そして、胸に湧き上がる不思議な感覚に戸惑いながら、視線をゆるりと持ち上げる。
すぐ傍には、伝説の聖獣がいる。
天井を突き破らんばかりの巨大な銀色狼は、間近で見るとやはり恐ろしく、それ以上に神々しい。なのに恐れよりも強く浮かぶ感情があった。
どこか懐かしいような気がする、と。
『久しいな、人間』
銀色狼の唸り声に、老人はすぐさま居住まいを正した。
折れそうなほどに首を捻じ曲げて、銀色狼の瞳を真っ直ぐに見つめる老人の表情は、新鮮な驚きに満ちている。
「聴こえる……今ハッキリと、貴殿の声が聴こえましたぞ!」
『あの骸へ祈りを捧げたゆえ、邪念が消えたのであろう』
「やはりそうでしたか、全ての神力は祈りのもたらす力……!」
老人はそう呟きながら目を伏せ、右手を胸に当てて再び女神へと祈った。今度は哀悼ではなく感謝の意味を込めて。
この右手へ特別な力を授けられたのは、初めて愛した女性が若くして命を落とした直後だった。女神は老人の祈りを受け入れると同時に、生きる意味をも与えたのだ。
じわりと涙が滲んだ目元を抑え、老人は回想を打ち切った。それはまた今夜、晩酌でもしながらゆっくり思い出せばよい。
再び銀色狼へと向き直り、疑問に思ったことを率直に問いかける。
「先ほどの〝久しい〟とは、どのような意味でしょうか?」
『人の時にして半世紀の昔、我らは一度邂逅しておる』
「ほぅ、それは気づかなんだ! ご挨拶もできず失礼をいたしました。よもや〝革命〟のときに降臨されておられたとは……」
老人の解説じみた台詞に、銀色狼はフンと鼻を鳴らす。
『あのようなものを革命とは呼ばぬ。子どもの喧嘩を制したのみ』
「なるほど、その通りかもしれませんな。だから貴殿は表舞台には出ず、姿を隠されていたのですね?」
『いや、別に我は隠れてなど』
「あの日のことは、今でも鮮明に思い出せますぞ。ワシはミストラルの若造を一発ぶん殴ってやろうと、単身王宮に乗り込んだのです……まさしく子どもの喧嘩を制しに行くつもりでした。ところがヤツの秘蔵っ子であった子狸めが、大人顔負けの魔法でねちねちと邪魔をしやがりましてね。蜘蛛の巣魔法やら落とし穴魔法やら、ヤツめは昔から碌な魔法を考えん……とまあ、そんなことはどうでもよい話ですな」
ぶるぶると頭を振った老人は、恍惚とした眼差しで語った。
「ワシはあのとき、生まれて初めてこの目で〝聖獣〟を見たのです。しかしその姿は、若かりし頃のワシにも素早すぎて捉え切れなかった……なんとその聖獣とは、一匹の虫だったのですから!」
『む、虫……?』
「その大きさは蝿のごとき極小。そして蚤のようにピョンピョンと跳ねまわり、図に乗って王座を奪いかけた――三種の神器の御箱を開けようとしたミストラルの額へバチンとぶち当たり、まんまとヤツを気絶させたのです! その銀蝿のごとき虫……いや、聖獣に対して虫呼ばわりはさすがに失礼ですな。〝豆〟と呼びましょう。聖なる豆と」
『豆……』
銀色狼の頭の位置が少しずつ下がって行くことに、老人は気づかない。熱くなった心のままに、『聖豆』の武勇伝を語り続ける。
そして、老人の話が終わるまで、子狼は父狼の足のあたりをペロペロと舐め続けた。
「……っと、つい話が長くなってしまいましたな。ワシものんびりしてはいられません、今回の件を〝上〟へ報告せにゃならんのです。とはいえ、いったいどこまでを伝えてよいものやら」
垂れていた頭をゆるりと持ち上げた銀色狼は、『豆の話は金輪際しないように』と前置きした後、ことさら重々しい声で告げた。
『好きなようにするがよい。ただし〝勇者〟と〝聖獣使い〟に関しては、くれぐれも丁重に扱うよう』
「ほぅ、ということは、ジロー君が勇者で、あの少女の方が聖獣使い――聖女ということになりますか?」
『否、かの二人は同じ運命を共有しておる。二人ともが〝女神の愛し子〟だ。いずれが欠けてもこの世界はままならぬと、我が祖先からも伝えられている』
「……それは興味深い話ですな。ぜひ詳しくお聞かせ願いたい」
老人の頬は紅潮し、瞳には溢れんばかりの好奇の輝きが灯る。銀色狼は小さく頷き、朗々と語り始めた。
『不浄の輩が世界を滅ぼさんとするとき、女神の愛し子たる勇者が現れる。そして勇者とともに我の声を聴く者――七賢人と呼ぶ。かの聖女を筆頭とし、残る六つの魂も自ずと女神に導かれ勇者の元へ集い」
「――ちょっと待ったぁぁぁ!」
『何だ、人間』
「つ、つ、つまりワシがッ、女神に選ばれし賢人ですとッ!」
『最後まで聴くが良い、その七賢人は勇者を守り、不浄の輩を』
「そうだったのか! だからワシはあの革命の日にも無傷で帰還し〝奇跡の男〟とまで呼ばれてリュミエール新聞の一面を飾り、その後女子にもモテまくり、結婚し可愛い我が子も産まれ……いや、あんなヤツは息子とは認めん! ワシの言うことなど全く聞かず、ド田舎の教会へ行ったきり音信不通で」
『おい人間……』
と、戸惑いを滲ませながら銀色狼が呟くも、老人の耳には届かない。
すると子狼がしごく冷静に告げた。
『だめだよ、お父さん。たぶんこの人、こーなったら何にも聴こえないよ?』
『全く人間とはやっかいな生き物よ。そういえば、確か半世紀前もこやつは……まあ良い』
銀色狼親子は互いに頷き合うと、檻の中にいる赤子の狼たちへかけていた強烈な結界を緩めた。
ようやく自由に立ち上がれるようになった狼たちは、若干の怯えと抑えきれない興奮を赤い瞳に滲ませつつ、ぶんぶんと尻尾を振る。
そして、子狼の一吠えで隊列を作ったところで、老人はハッと我に返った。
「あ、あの、もう行かれてしまうので……?」
『うむ。我もこの赤子たちを一人前に育てねばなるまい――革命の日が訪れるまでに』
祈りの力を失った老人には、銀色狼の言葉が単なる唸り声として響いた。
それでも、胸の奥に微かな不安の楔が打ち込まれる。
その不安を払しょくするかのように、老人は右手を胸に当て、力強く宣言した。
「不肖の身ながらこのビザール、命ある限り勇者殿とともに戦うことを誓いましょう」
老人の台詞が合図となり、聖獣は出発した。
子狼を先頭に、赤子の狼たちが粛々と通路を進んで行く。整然としたその行軍に感心しつつ、老人が見送っていると。
しんがりを務める銀色狼が、鼻をヒクつかせながら何かを告げた。
老人は、最後の言葉をこう解釈した。
――北へ行く、と。
次回から主人公視点のエピローグへ入ります。




