幕間 老人と狼(前)
「ま、まだですかね、ビザール先生……もうじき日が暮れてしまいますが」
「まあ落ちつきなさい。あの場所へ向かったのは勇者と銀色狼じゃ、不安要素など何一つないわい」
そわそわと視線を彷徨わせるローブ姿の若者を、白髭の老人がフンと笑い飛ばす。
しかしその台詞は、若者の心に火をつけてしまったようだ。いかにも疲労困憊といった、くっきりとクマの浮いた目をギラリと光らせて、若者が反論する。
「ボクは不安なわけではありません! むしろ一刻も早く彼らの雄姿を見たいだけなのです!」
「「「そうなのです!」」」
輪唱するのは、薄汚れた白衣を羽織ったひ弱そうな青年たち。彼らの瞳にも、若者と同じくギラギラした輝きが灯っている。
老人は嘆息し、再び彼らを諌めた。
「そう焦らずともよい。ワシの右手がうずいておるから、そろそろ終わる頃じゃろう……っと、ほれ、言った通りだ」
枯れ枝のような細い手をワキワキさせていた老人は、夕闇の中に浮かび上がる狼のシルエットを見つけて目を細めた。
老人の背後にズラリと並ぶ警備兵たちも、さらにその後ろにいる観衆も、一斉に歓声をあげる。
しかし、すぐに彼らは気づく。狼のシルエットがなかなか大きくならないということに。
『白髭のおじいさーーーーん!』
普通の人間が聞けば恐怖に震えあがるような遠吠えだが、この場に集う者にとっては正反対だ。
小さくとも凛々しい〝銀色狼の子ども〟が単身でやってきたことを知るや、女学生たちから「キャア!」「可愛い!」という黄色い声が上がる。
呼びかけられた老人は、立派な顎ヒゲをしゃくりながらニヤリと笑った。
「ふむ。どうやら銀色狼の子どもは、ワシのことを呼んだようじゃ」
「えッ、なぜ分かるのです?」
老人の羽織るローブの裾をむんずと掴みながら、若者がズイッと詰め寄った。老人は「何となくかのぅ」と惚けたように小首を傾げる。
その後も矢継ぎ早に飛んでくる質問を、のらりくらりとかわしつつ、老人は考えた。
――なぜかここ最近、自分の中の〝神力〟が高まっている気がしていた。
始まりはいつだっただろう? 数十年ぶりに面白い聖遺物を掴んだ日か、それとも愛弟子の女生徒が突然「魔法学校へ編入する」と報告してきた日か……。
「いや、あの日じゃろうな。狸めがワシに〝自慢話〟をしてきた日」
つまりそれは――勇者がこの王都へ現れた証。
そんな仮説を立てて悦に入った老人が、一人うんうんと頷いている間にも、通常の狼と変わらない体躯の銀色狼が到着した。彼らが手を伸ばせば触れられる距離まで。
キラキラと輝く銀の毛並みを見て、感激のあまりむせび泣く若者たちをよそに、老人はしゃがみこみ彼と目線を合わせる。
「おお、お待ちしておりましたぞ、若き聖獣殿」
『おじいさん、一緒に来て! お兄さん倒れちゃったんだ』
「いやいや、お兄さんだなんて照れますなぁ……聖獣殿からすればほんのひよっこかもしれんが、こう見えてワシもそろそろ八十で」
『おじいさん! そうじゃなくて、お兄さんが倒れちゃったから、運ぶの手伝って! お父さんじゃ無理なんだ。口に咥えると怪我させちゃうから。あと赤ちゃんの世話が大変だから』
「そうかそうか、やはりワシらは赤ちゃんか」
『もーやだ、ニンゲンの煩悩ちょー邪魔! 〝ちょっとでも若く見られたい〟とか思っても無理だから! あんた立派なジジイだから!』
銀色狼の子どもが吠えた瞬間、老人は「グフッ……」と呻いて胸のあたりを抑えた。意味はハッキリ分からずとも、言葉のナイフはグサリと刺さったらしい。
『とにかく、一緒来てよ。おじいさんだけじゃ頼りないから、後ろのお兄さんたちも!』
鋭い深紅の瞳を向けられた若者たちは、「こっち見た!」「目が合った!」と叫んでダバッと滝のような涙を流すばかり。
銀色狼の子どもは「ぐるるるるる……」と唸った後、彼らのローブ並びに白衣の裾を口に咥え、ぐいぐいと引っ張った。
全員がよろめいて一歩前へ出たところで、尖った鼻先をクイッと奥へ向ける。そして人の足でも追いつける程度の速度で歩き出す。
「ビザール先生、彼はボクたちに『付いてこい』と言っているのでは」
「うむ。そうかもしれんな」
「なにかマズイことが起きたんじゃないでしょうか……」
「そ、そんなことはないじゃろう、あの場所へ向かったのは勇者と銀色狼じゃ……」
『もー、もたもたしてないで早くッ!』
そうして子狼先導により、恐る恐るといった感じで前へ歩き出した五人。封鎖されていた工場エリアを抜け、研究塔を横目に通り越し、結界の消えたガレージをくぐり、闇に包まれる隠し通路を魔石の明かりで照らしながら進み――
地下道の突き当たりには、銀色狼の成獣が待ち構えていた。
しかし彼らが目を奪われたのは銀色狼ではなく、開かれた鉄扉の向こうにいたもの。
「こ、これは」
「まさか……」
「「「聖獣ッ?」」」
銀色狼が放つ眩い明かりの下、彼らが見つけたのは、大人しく『お座り』のポーズで居並ぶ五十頭もの灰色狼――否、自らの手で生み出した〝聖獣〟だった。
「お前たち、生きていたのか……?」
震える声で呟いた若者が、呆然としたまま再び涙を流し始めた。白衣の青年たちも同調する。
彼らは絶望していた。
全精力を注ぎ込んできた研究は、あえなく崩壊した。心を病み、聖獣を意のままに操ろうとしたリーダーは命を失った。恐ろしい魔獣へと堕ちた獣たちも、粛清される運命だと思っていた。
なのに生きている。穢れない瞳のまま彼らをジッと見つめている。
悪夢の中でもがいてきた彼らは、思わず互いに顔を見合わせ……驚きの涙を歓喜の涙へと変えて行く。
その間、老人は別のものを見ていた。
銀色狼の足元に倒れる、少年と少女を。
「ジロー君、と……〝聖獣〟と呼ばれる少女、か」
さきほど見かけたとき、少年が大事そうに抱えていたものがこの少女だと知った老人は、何かを察したかのようにニヤリと笑う。
そして二人へと近づき、彼らの額へそっと右手を触れる。
「うむ、熱は無い。ただ眠っているだけじゃな」
しっかりと互いの手を握り合ってすやすやと眠る姿は、まるで無垢な赤子のようだ。
老人は微笑ましい気持ちで少年と少女を見つめた後、狐につままれたような顔をしている若者たちに告げた。
「ほれ、ぼんやりしているでない。この二人を上の仮眠室へ運んでくれ」
神力の強まった老人の右手で肩を叩かれた瞬間、彼らはようやく気づいた。『奇跡』を起こした人物がいったい誰なのか……。
――今まさに、千年前のおとぎ話が再現された。
悪い魔法使いにより魔獣に堕ちたはずの狼たちが、聖獣へ還ったのだ。
「向こうの扉も開いておるはずじゃ。ここを突っ切って、階段を上って行きなさい」
「ハイ、ビザール先生」
しっかりと〝勇者〟を抱き上げた若者が、嗚咽を堪えながら頷く。そして残りの三人もおっかなびっくりといった具合で少女の身体を持ち上げる。
四人は、自分たちが『檻』と呼んでいた広大な空間へ、初めて足を踏み入れた。
ほんの数時間前まで、近づくだけで気が狂いそうなほどの悪臭を放っていた檻の中は、地上と変わらない澄んだ空気に満ちていた。
壁際にずらりと並ぶのは、飼い慣らされた犬のように大人しく座っている狼たち。
途中、小さな骸の前で立ち止まり頭を下げた後、少年と少女を抱いた彼らは突き当たりの扉の向こうへと消えていった。
大変お待たせしました、スミマセン。長くなってしまったため分けさせていただきました。後編は本日中に更新できるかと思います。
※一部誤字を修正しました




