その6 粛清の時
一歩ごとに地響きを立てる、巨大な獣の気配が近づいてくる。
姿形は見えないというのに、心臓が押し潰されそうになるほどの威圧感だ。全身を包む疲労をも吹き飛ばしてしまうほどの、強烈な存在感。
安らかな眠りの時は奪われた――いや「まだ休むには早い」と女神に叱咤された気分だった。
俺はローブを脱いでペルルの身体にかけてやった後、ふらつく足で窓際へと向かう。
「……手助けがいるかね?」
「ああ、悪いな」
横からにゅっと差し出された腕を、遠慮なく掴ませてもらったものの。
ものすごく違和感があった。やたら太くてぷにっとしているこの腕は……。
「学部長、いつの間にここへ?」
隣にいたのは、見慣れた狸顔のオッサンだった。
ポンチョを羽織った丸っこい肩の上には、小さなネズミがちょこんと乗っかっている。
『そっか、お前が連れてきてくれたのか』
『ハイ!』
ロドルフと対峙した際、ネズミには「この学校で一番強いヤツを連れて来てくれ」と頼んであった。タイミングは遅かったけど、まあ結果オーライだ。
とはいえ……血色の好いツヤツヤした肌を見ていると、嫌味の一つも言いたくなる。俺はちょっとツンな感じで尋ねた。
「っていうか、今まで何してたんですか? こっちは大変だったんですけど」
「いやぁ、軽く昼寝をするはずが、なぜかぐっすり眠り込んでしまってね。つい先ほどこのネズミに鼻を齧られて、慌てて飛び起きたというわけだ。正直まだ頭が惚けていて、いったい何が何やら……」
なるほど、ニンジャたちに一服盛られたか、眠りの術でもかけられたんだろう。他の生徒たちも同じめにあったのか。
それなら仕方ないと、俺はため息を吐いた。本音をダダ漏れにさせつつ。
「まあ、とにかく生きててくれて良かったです」
「生きてて良かったって……そんなに危険なことがあったのかね?」
「はい、下手したら全員殺されるとこでしたよ」
しかし、非情なテロリストとはいえ部外者の命を奪おうとしなかっただけマシ……と、つい生温いことを考えてしまう自分は、未だに女神とシンクロしたままらしい。
掴んだ学部長の腕からも、後悔の念がビシバシ伝わる。何だか可哀想なくらいの凹みっぷりだ。
「でも、もう大丈夫ですよ。女神のおかげでなんとかなったんで」
「キキッ!」
学部長の肩の上でネズミが誇らしげに鳴いた。自分も褒めてくれと言わんばかりに。俺は苦笑しつつお礼を言った。
『ありがとな、ネズミ。お前のおかげで本当に助かったよ』
『ソレハ、スキ、トイウコトデスカ?』
『ああ、好きだぞ』
『デハ、ケッコンシテクダサイ』
『……すまん、さすがに無理』
『デハ、ペットデモイイデス』
『ペット……まいっか。一応“先輩”がいるから、後で挨拶しておくんだぞ?』
『ハイ!』
ネズミが嬉しそうに鳴いて俺の肩に飛び移るのを、どこか寂しげに見つめる学部長。
「……あげませんよ?」
「べ、別に欲しいなどとは言っていない、ちょっと可愛いと思っただけだ!」
ツンっぽい逆切れをスルーし、俺は速やかに窓際へ。学部長はぶつぶつ言いながら付いてくる。
「しかし、どうせならもう少し早く起こしてくれれば……私はまたしても“奇跡”を見逃してしまったのか……」
「僕は奇跡を見ましたよ」
「わたくしもです」
振り向けば、金髪碧眼の美形兄妹、アンドレとアンジュがいた。
すっかり傷の癒えた二人は、白い頬をバラ色に染め、恍惚とした表情で俺を見つめている。なんだか今にもプロポーズされそうだ。
ちょっとビビった俺が一歩後ずさると。
「わ、わたしも、見た……気がする……」
二人の背後からアルトの声がした。
アンジュの背中に隠れてもじもじしているのは、クレールだ。俺を庇ってできた怪我も消え失せ、黒髪は元のサラサラ状態に戻っている。
俺があらためて、あの時のお礼を言おうとすると。
「ああ、最高の奇跡だったな」
と、一人涼しげな顔をした皇子が寄ってきた。俺と目が合うと、さすがに猫を被っていられなくなったのか、思い切り破顔する。
さらにその奥には、クラスメイトたちがズラリと。
全員の熱い視線を浴び、いたたまれなくなった俺は身体をくるんと反転。結界の消えた窓を開け放つ。
そして、未だに雨が降りやまない鉛色の空を見上げながら、誰に言うとでもなく告げる。
「安心するのはまだ早い。凶雲は去ってないんだ」
曇り雲の下に目を凝らせば、半透明の巨大なドームが映る。あれは神官学校を護る銀色狼の結界だ。
あそこで起きているもう一つの“事件”は、まだ解決していない。
だけど……不思議と不安は無かった。
今からここに、本物の『聖獣』が現れるはずだから。
「そろそろ、来る」
気づけばその場にいた全員が、俺と同じように窓へ張りついていた。
彼らはこの地響きの意味を知らない。俺の『予言』を受けて、次はいったい何が起きるのかと緊張した面持ちでグラウンドを見つめている。
そして、凶雲がもたらした本当の悲劇を目の当たりにする。
「あれは――」
「まさか……」
「銀色狼……ッ!」
周囲から聴こえる驚愕の声に、俺は小さく頷いてみせた。
悲劇の舞台に上がる役者は、無情なテロリストだ。
広大な芝のグラウンドに整列していた兵士たちは、まさにこの学校を脱出する直前だった。彼らの中心には第一皇子の乗り込んだ馬車があり、杖を掲げた多数の兵士が馬車を護るべく分厚い結界を張っている。
しかし、銀色狼を一目見るや――統率されていたはずの軍隊が、単なる烏合の衆と化した。
鎧を纏った屈強な兵士たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出すも、夜空から降り注ぐ流星のごとき光の矢に打たれ次々と倒れていく。
俺のローブに穴を開けるほど強烈な魔法だ。いくら鎧があるとはいえただじゃすまないだろう。
顔色をサーッと青褪めさせる学部長に「怪我人の手当てをお願いします」と伝えたとき。
視界の隅にぽつんと白い点が映った。
それは第一皇子だった。兵士はもちろん、頼りにしていたニンジャたちにも見捨てられた憐れな生き物。
薄闇の中、彼の羽織った純白の詰襟が、誘蛾灯に纏わりつく羽虫のように輝いて……すぐさま泥に塗れた。
幾度も転びながら、樽のような身体を引きずってのろのろと逃げ惑うその背中に、銀色狼の鋭い爪が突き刺さる。
闇を切り裂く大絶叫が、目撃した全員の心を凍りつかせる。
平常心でいられたのは俺だけだ。ヤツの背中から、禍々しい瘴気が解き放たれるのが視えたから。
やはりこれは単なる殺戮じゃなく“粛清”……にしても、その傷は深そうだ。
『おいおい……マジで殺すなよ? 一応女神が赦した相手なんだから』
『そうか、ではこの程度にしておこう』
胸の奥にズシンと響く声とともに、深紅の瞳がこっちへ向けられた。
銀色狼はヒキガエルをぽいっと転がすと、風のような速さで俺の目の前へ。この教室は二階だから、視線がぴったりと合う。
その瞬間、窓際ポジションから人が消え去った。
トラウマ持ちの学部長はもちろん、頼れるリーダーのアンドレも、気丈なアンジュも、芯の強いクレールも、飄々とした皇子も、その他クラスメイトたちも……全員が廊下側の壁にへばりついてしまった。
例外はたった二人。すやすやと気持ちよさそうに眠っているペルルと、虚ろな目でへたり込んだままのロドルフだけだ。
「あー……うん、大丈夫、彼は俺の“友達”だから」
クレールを落ちつかせる呪文を、皆に向かってテキトーに唱えた後、俺は再び外へ向き直った。
伝説の魔獣との二度目の邂逅。
妖しく煌めく深紅の瞳や、鋭すぎる牙を間近に見せつけられたところで、俺は恐怖を感じたりしなかった。
それどころか、旧友に再会したような不思議な感情に満たされる。
訊いてみたいことは山ほどあった。やっぱり女神に呼ばれてここに来たのか、本当は魔獣じゃなくて聖獣なのか……。
なのに銀色狼は、なぜかバツが悪そうに顔を背けて。
『此度は済まなかった、人間』
『えッ、なんでアンタが謝るんだ?』
『到着が遅くなった。“スグコイ”と言われたのに、三日もの時が過ぎてしまった』
……そういえば、確かにそんなことを言った気がする。いや、心の中で電報を打ったような。
でもそれは、狸オヤジに化かされてイラッとして、冗談半分で……。
だけど結果的にタイミングはベストというか、やはり全ては女神の導きというか……。
俺が悶々と悩む間、銀色狼も何やらぶつぶつと呟いていた。
『我が身一つであれば、一夜で駆け抜けたのだが、あちこち寄り道をしてしまったのだ。全ては我が子のわがままゆえ……』
『えっと、我が子って』
『やっほー、お兄さん元気ー? この前は助けてくれてありがとね!』
良く見ると、銀色狼の背中には子狼が乗っていた。まさに親子亀ならぬ親子狼だ。
普通の灰色狼サイズの子狼が、小山のごとき父親の背中をシュタタッと駆け抜け、開いた窓から俺の方へダイブ!
「うぉッ!」
『お兄さんの“力”すっごい気持ち良くて、ずっと忘れられなかったんだ! だからもう一回ちょーだい!』
有無を言わさず俺を押し倒した子狼が、顔のあたりをデカイ舌でペロペロする。
ペロペロペロペロペロペロ……。
『あれー? 無味無臭? さっきの光で全部使っちゃったの? ちょー残念……せっかくお父さんにわがまま言って連れてきてもらったのにー。まあいいや、次は絶対ペロペロさせてね!』
シュタタッ。
俺の顔をよだれでデロデロにして、子狼は再び窓の外へ。
お父さん狼が申し訳なさそうに頭を下げる。『また何かあったら助けに来よう』と言ってくれたけれど、たぶん子狼にペロペロさせてやりたいという親心なんだろう。
ひとまずブレザーの袖で顔を拭って立ち上がると。
『あと、我にもペ……いや、その手で触れてくれぬか』
『お、おう……』
父狼が窓から鼻先を差し出してくる。俺は精一杯の感謝を込めながら撫で撫でした。鋭い針のごとき毛が刺さらないように注意しつつ。
気持ち良さげに喉を鳴らす父狼に、俺は素朴な疑問をぶつける。
『つーか、けっこう大騒ぎになっちまったけど、大丈夫なのか? あの森で今まで通り暮らしていけるのか?』
『心配無用だ。人間ごときに我を捕えることなどできぬ。何ならこの地へ移住しても良いくらいだが』
『うぇッ?』
『冗談だ。今すぐにこの地から立ち去ろう……否、祖先の墓を“掃除”した後に帰る』
深紅の瞳が、意味ありげにスッと細められた。
言葉を交わさずとも、俺には全てを理解できた。彼が粛清すべき相手はまだ残っているのだ。
俺は真っ直ぐに彼を見据えながら、用意していた台詞を告げた。
『頼む、俺もそれに立ちあわせてくれ』
※次回で最終章は終了になります。
※一部描写を修正しました。




