その2 クーデターの始まり
※ライトな暴力描写があります。苦手な方はご注意ください。
ニンジャを従える『黒幕』のはずの彼が、力無く倒れている。
やはり凶悪な籠手を嵌められ、純白の衣装を血と埃で汚し、苦しげなうめき声を立てて。
「皇子……どうして」
頭の片隅にこびりついていた疑念は、音を立てて崩れ落ちた。
どう考えても、あの姿は演技なんかじゃない。
それにあの籠手をつけられているってことは、秘密が漏れたということだ。きっと屋上での会話をニンジャに盗み聞きされたんだろう。
従順な配下と見せかけておきながら、実は獅子身中の虫だったということか……。
「これは“クーデター”なのか? アンタらは、主を裏切ったのか?」
俺は首を捻じ曲げ、背後にいるだろうニンジャに向かって問いかけた。しかし答えは返ってこない。それどころか、話が通じたという手ごたえすらない。
ただ俺は直感した。ニンジャが下剋上を狙ったわけじゃない、と。
コイツらは主の意のままに動くマシーンだ。たぶんどこかに『指令』を出したヤツがいる。
自由のきかなくなった身体を何とか起こし、少しでも手掛かりを求めて視線を彷徨わせると。
ガラリ、と重たい音を立てて扉が開いた。そして一人の生徒が優雅な足取りで入ってくる。トイレにでも行っていたのか、その手にハンカチを握り、魔石の埋め込まれた杖を小脇に抱えて。
その靴先が、なぜかこっちへ向かってきた。
俺はとっさに立ち上がろうとしたものの、間に合わなかった。
「へへッ、お前のことも待ってたんだぜ、無能者」
史上最悪の、嫌らしい声だった。
「ロドルフ、貴様……ッ」
遥かな高みから俺を見下ろし、白い歯を見せながら笑っている細身の少年。
彼がこの世界の支配者だと気づいていながら、俺は叫ばずにいられなかった。
「何考えてんだよ! アンドレを殺すつもりかッ?」
「黙れ!」
ロドルフの靴先が俺の鳩尾へめりこんだ。まるでサッカーボールを蹴るように、歪みない動きで。
いくらこのローブが優秀でも、物理攻撃を防ぐことはできない。俺は糸の切れた人形みたいに床を転がる。
なのに、不思議とあまり痛みを感じなかった。
俺はちょっと微妙な気分で腹を見つめる。やはりこの腹の中に『結界』が張られているのだろうかと。
「ジロー……大丈夫か?」
微かな呼び声が、俺をリアルに引き戻した。
すぐさま上半身を起こし、ペルルを抱きしめたまま硬直するクレールに「大丈夫」と頷いてみせる。
その行動がマズかった。
「――このクズがッ!」
俺がさほどダメージを受けなかったのが気に食わなかったのだろう。激昂したロドルフが、手にした杖を掲げて迫ってきた。
今度こそ、逃れることはできなかった。
「役立たずの無能者! お前さえ来なければボクは上手くやれてたんだ、お前さえ来なければッ!」
貧弱な細腕ながら、やはり魔力による筋力補正は大きい。ガツン、ガツンと二回頭を打たれた時点で額が切れた。
流れた血がこめかみを伝い喉へ到達したところで……なぜか衝撃は止まった。
俺の身体は、柔らかなものに包みこまれていた。
「やめろ! ジローは関係ない、殴るならわたしを殴れ!」
女子にしては低いアルトの声が、澱んだ空間に凛と響き渡る。
か弱い女子たちの啜り泣きをも止めたその声は、誰よりも清らかで高潔な、本物の『勇者』の声だった。
しかし、悪魔のような笑い声がそれを塗り潰す。
「……そうだな、確かにお前の言う通り、全ての元凶はイヴェールだったな……それじゃ、容赦なくやらせてもらおう」
女子たちが再び泣きじゃくり始めるも、悪魔は止まらない。俺を打ちつけたのとなんら変わりない衝撃が、一人の少女の身体越しに伝わる。
「クレール、もういいから離せ! 離してくれ!」
どんなに叫ぼうとも、クレールは俺を腕の中に閉じ込めたままだった。
元々痛みに強い体質なのか、それとも腕輪により体内に封じられた魔力が痛みを中和しているのか。何十回と鉄槌が下されようとも彼女は折れなかった。
気づけば、俺の周囲にもどす黒い血だまりができていた。
「もうやめて……ッ!」
悲痛な声をあげたのは、倒れていたはずのペルルだった。
目覚めた直後のせいか、今にも転びそうに身体をふらつかせながら飛び込んでくる。
俺たちの間に割って入り、両手を広げて仁王立ちする『聖獣』に対し、さすがに杖を振り上げることはできなかったのだろう。チッと舌打ちしたロドルフは、杖についた血を水の魔法で洗い流すと、こっちを一瞥もせずに教卓前へ向かった。
「クレール、クレールッ」
無力な少女となったペルルが、懸命に呼びかけながらクレールの身体を床に横たえる。血でべっとりと濡れた黒髪に純白のハンカチを当てるも、それはすぐさま深紅に染まる。
「もういや、どうして、こんなことに……ッ」
マシュマロのような頬を伝う透明な涙。その涙に呼応するかのように、ポツポツと雨が降り始めた。
クレールの拘束から逃れた俺は、かろうじて自力で身体を起こす。
ぼんやりと霞む視界の中、皆の流した血の色だけがくっきりと紅い。
……いったいこれは何なんだ?
なぜロドルフが、この世界を支配している?
鎧の兵士たちを従え、腕輪を用意し、皇子直属の配下であるニンジャを操り、やりたい放題に振る舞っている……昨日まではアンドレの隣で震えあがっていた臆病者が。
宰相の忠臣であるヤツの父親が裏切ったのか? 「アンドレに見捨てられた」と泣きついたバカ息子にほだされ、このクーデターに踏み切った?
――いや、そんなはずはない。
この事件には、必ず糸を引いている黒幕が存在する。ソイツを見つけ出せば……。
「クソッ、頭痛てぇ……」
遠退きかける意識を止めるべく、強く唇を噛みしめたとき。
廊下からバタバタという乱雑な足音が聴こえた。
教卓の前で、意識のないアンジュの髪を弄んで愉悦に浸っていたロドルフがビクンと跳ね上がり、直立不動の姿勢を取る。
と同時に、再び教室の扉が開かれた。
そこから泥で汚れた太いブーツの先が覗き、丸々と肥えた白い樽のような巨躯が現れ……。
「皇子、なぜこちらへッ?」
ロドルフの一言に、その場にいた全員の眉をひそめた。『皇子』ならここにいる、と。
しかし純白の詰襟や、腰に差した眩いばかりの宝剣を見て、すぐに理解する。
――アレは第一皇子だ。瓦版に登場することのない、生まれつき病弱な皇子。
「馬車で待機しておったのだが、忌々しいこの凶雲だ……王宮に戻ろうかとも思ったが、せっかくならばお前の『革命』をこの目で見届けてやろうと思ってな」
首周りにたっぷりついた贅肉のせいか、やたらくぐもった声だった。
まだ二十代半ばとは思えないほど薄くなった前髪が、汗に塗れて額に張りついている。その黒髪の下には、細い目と低い鼻、分厚い唇。ニキビの浮いた肌とずんぐりした体躯は、巨大なヒキガエルを思わせる。
病弱で寝たきりという噂は、どう考えても嘘だった。
単に不摂生を続けている、甘え切った『跡取り息子』だってことは、この姿を見ただけで分かる。
――コイツが全ての黒幕。
脳みそはそうジャッジするのに、直感が何かを訴えてくる。どこか出来過ぎているような、微かな違和感が……。
その正体を見極める前に、事態は動いた。
「……やはり貴方が仕組んだことでしたか、兄上」
不意に響いた、艶やかなバイオリンのような声。
殴られて腫れ上がった口元を気づかうこともせず、柔和な笑みを浮かべたアレクサンドル皇子が、壁に背中を預けながらゆっくりと立ち上がった。
※一部描写を修正しました。




