その1 凶雲再び
「おい、君ッ!」
「スミマセン、それ読んどいてください! 今は時間が無いんで!」
門番の警備兵にビザール先生の書状を押し付けると、俺は魔法学校へ向かって駆け出した。
ポケットの中には、俺の“戦友”になったネズミと、貴重な魔石が一つ。
スピードアップのためにそれを使うべきか迷い、俺は誘惑を振り切った。
コイツはビザール先生の虎の子だけあって、かなり高品質な魔石だ。皇子やニンジャが結界を通れなかったときのことを考えると、今魔力を減らしてしまうわけにはいかない。
だから一刻も早く検証しなければ……。
覚悟を決めてがむしゃらに走っていると、だんだん心がクリアになる。余計な感情が削ぎ落とされて行く。
――不確かな『疑惑』はひとまず封印しよう。
皇子がどこまで猫を被っているのか、俺には判断がつかない。全てが本音のようにも嘘のようにも思える。
だけど……今は皇子の他に頼る相手がいない。
皇子に相談し、この危機を救ってもらうのは一つの有効な手段だ。ややこしいことはその後で考えよう。
俺は事実だけを伝えればいい。私情を交えず客観的に。
そう結論づけたとき。
「キキッ!」
ポケットから頭を出したネズミが、鋭い声で一鳴きした。
テレパシーを受け取る余裕は無いけれど、何か大事なことを言われたってことくらいは分かる。
俺はネズミの視線の先を追い、空を見上げた。
銀色狼の結界が無い、どこまでも高く澄んだ青い空……その遥か東の先に、小さな雲が浮かんでいた。
「アレって、まさか……」
一瞬、思考が止まった。
そして、最悪の事態をイメージして――戦慄する。
「くそッ、よりによって、なんでこのタイミングで……!」
手の中で消えてしまった鳥の羽は、凶兆の先触れだったのかもしれない。
ついさっきまで穏やかな光に包まれていた世界が、少しずつ色を失っていく。そして東の空から迫ってくる、分厚い雲の塊。
アレがこの地へ来たら――魔獣が狂う。
そうなれば結界はいくらも持たない。今夜どころか日没まで耐えられるかどうか……。
危機感に煽られるまま無我夢中で走り抜き、魔法学校の正門に辿りついたとき。
俺の目に、奇妙な光景が飛び込んできた。
「――この先に立ち入ることは許さん!」
「そんなこと言ったって、うちは食材を納品しに来ただけで……ほら、ちゃんと許可証も持ってますし」
「うるさい、帰れ!」
重たげな全身鎧を纏った集団が、正門前スペースを占拠している。彼らは出入りの業者たちに剣や杖を突きつけ、有無を言わさず追い返してしまう。
荷台いっぱいに野菜を詰んだ幌馬車が走り去るのを見送りつつ、俺は首に下げていた学生証を取りだした。
これは魔法学校の結界に対するカードキーも兼ねているのだが、埋め込まれた魔石が一切反応していない。
どうやら結界が消えているようだ。
「あのー、俺ここの生徒なんですけど、通っていいですか?」
焦りを悟られないよう“猫被り”しつつ校門に近寄ると、途端に十数名もの兵士に取り囲まれた。神官学校よりよほど物々しい警備だ。
しかし俺のローブを見るや、彼らは困惑した面持ちで武器を下ろす。
「ふむ、無能者か……」
「確かもう一名在籍しているという話だったな」
「まあ無能者ならば問題は無いだろう。通っていいぞ」
どことなく上から目線な台詞が引っかかる。通っていいとジャッジした男の鎧にポンと手を置きながら、俺はさらりと尋ねた。
「何かトラブルでもあったんですか? 結界が消えてるみたいですけど」
「う……いや、貴様には関係ないことだ。まあ面倒事に巻き込まれたくないなら、このまま引き返した方がいい」
鎧越しで効果が薄いのか、俺が求める情報は得られずじまい。
ただ『面倒事』が起きてるってことだけは分かった。俺は情報をくれた彼へのお礼を兼ねて、もう一度空を見上げながら呟いた。
「お兄さんたちも、早めに帰った方がいいですよ。もうすぐここに――凶雲が来ます」
◆
広大なグラウンドを突っ切り、校舎へ辿りつくまでの間にも、見知らぬ兵士たちは大勢いた。俺はなるべく彼らと鉢合わせしないようなルートを選び、早足に進む。
薄曇りの空の下を抜け、昇降口を通り校舎へ入ると――空気が変わった。
どんよりと濁った、嫌な空気だ。どことなく『地下』を彷彿とさせるような。
「これは……マズい、気がする」
直感が警鐘を鳴らすも、俺の中に引き返すという選択肢はなかった。
この空気を吸うだけで、疲労感が何倍にも膨れ上がり、自然と瞼が落ちてくる。休息を求めてふらつくやわな身体を引きずりながら、廊下を進み階段を上る。
シンと静まりかえる校舎の中に、俺の足音だけが響く。
いくら選択授業中とはいえ、生徒の姿が全く見えないのはオカシイ……だけど他の教室を覗いて回るような余裕はない。
今も魔獣の傍にいるだろう、ビザール先生や室長たちの姿が浮かぶ。一刻も早く皇子に会わなきゃいけない……その一心で歩みを進める。
そうして辿りついた特別クラスの前には、正門前と同じくらい厳重な警備が敷かれていた。
いや、警備なんていう甘っちょろいモノじゃない。
そこはドロリとした殺気に満ちていた。そして扉の奥から漂う、錆ついた血の臭い……。
自然と逸る鼓動を抑えながら、俺は作り慣れたニセモノの笑みを浮かべ、のんきな口調で問いかけた。
「あのー、俺このクラスの生徒なんですけど、何かあったんですか?」
「武器を所持しているなら、出せ」
正門前にいた兵士たちとは違い、彼らの動きに迷いはなかった。俺はとっさにテレパシーを飛ばす。
『ネズミ、魔石を持って逃げろ!』
『ハイ! オナカニカクレマス!』
『えっ……』
ポケットの中で尻尾がパシンと叩かれ、ネズミと魔石は消えてしまった。
俺は慌てて腹部を擦り、異物感がないことにホッと一息。きっとアイツはお腹という名の異次元空間に隠れたんだろう。
軽いボディチェックで問題ナシとジャッジされた後、すんなりと教室の中へ通された。
と同時、俺という獲物を密室へ閉じ込めるかのように、分厚い結界が張り直される。
そのとき、俺は自分の失策を悟った。
校舎に足を踏み入れた時点で嫌な予感はしていた。一旦引き返して、状況を把握してから乗り込むべきだった。
なのに俺は先を急ぐあまり、丸腰のまま『牢獄』へ飛び込んでしまった。
「これは、いったい……?」
整然としていたはずの教室はぐちゃぐちゃだった。なぎ倒された机や椅子、床に散らばる鞄や教科書。まるで台風が通り過ぎた後のようだ。
窓際にできた僅かなスペースに、クラスメイトたちが固まっていた。
男子は全員後ろ手に縛られ、顔色を青褪めさせて床にへたり込んでいる。女子は嗚咽を漏らし、震えながら身を寄せ合っている。
彼らの腕に輝くのは、見覚えのある銀のアクセサリー。
「ジロー!」
女子の塊の中から、一人の小柄な少女が飛び出してきた。
しかし次の瞬間。
「キャッ!」
見えない拳で殴られたかのように、小さな身体が真横へ吹っ飛んだ。
机をなぎ倒しながら転がったペルルの長い銀髪が、床の上へばさりと広がる。打ちどころが悪かったのか、仰向けに倒れたままピクリとも動かない。
何が起きたのか全く分からなかった。
こんなちゃちな攻撃、ペルルなら氷の盾でも使って軽々と防ぐはずなのに……そう考えかけて、俺は大きく息を呑む。
ペルルの右腕にも皆と同じ腕輪があった。いや、腕輪より何倍も分厚く長い、籠手のようなものが装着されていた。
「ペルルッ!」
叫んだのは俺じゃない。女子の集団の正面にいた黒髪ショートの少女だ。
邪魔な机を強引になぎ倒し、ペルルの元へ駆け寄る。その身体にも見えない鉄槌が容赦なく振り下ろされる。
風の魔法による強烈な衝撃波。
それを背中に受け、足元をぐらつかせるも、クレールはうめき声ひとつ立てずにペルルを抱き寄せる。
そんなクレールの右腕にも、やはり銀の籠手が……。
「勝手に動くな。動けば制裁を下す」
人いきれで蒸し暑い教室の中に、凍てつく闇を思わせる低い声が響いた。人間らしさの欠片も感じられない、アンドロイドみたいな声だ。
その声に導かれ、ようやく俺は教卓側へと顔を向ける。
あそこにはとてつもなく嫌なものがある……そう直感した。不安で頭がおかしくなりそうだった。
だけどそこからは濃厚な血の匂いが漂っていて、それはとうてい見過ごせないもので。
「アンジュ……?」
振り仰いだ先には、深紅のローブを羽織った少女が一人。
アンジュは、ピンで留められた無力な蝶と化していた。ガクンと頭を下げ、俺の呼び声にもまったく反応しない。
華奢な身体を支えているのは――俺が最も警戒していた人物。
二人のニンジャが両脇からアンジュを支え、強引に直立させている。折れそうなほど細い手首を強く握り締めて。
その姿を見て、俺は確信した。
――最初に襲われたのは、たぶんアンジュだ。
手のひらの力を結界の解除に使われ、そのまま人質にされたとしたら……この状況にも納得がいく。
ペルルが翼をもがれたのも、クレールや皆が抵抗できなかったのも。
何より、アイツの状況が――
「アンドレ……!」
アンジュの足元には金髪の少年が倒れていた。うつ伏せとなり、血だまりの中に自らの身体を浸すように。
一ヶ月前、銀色狼に襲われた学部長たちの姿と、今のアンドレがぴたりと重なる。
きっとアンドレは妹を取り戻そうと、死に物狂いで戦ったんだろう。そしてあえなく返り討ちにあった。
だけど、今すぐ手当すれば間に合う。治癒魔法を使えるヤツを呼びに行けば――
「抵抗するな。無能者であろうと容赦はしない」
気づけば俺の背後に、三人目のニンジャが忍び寄っていた。そして無力な俺の身体を易々と拘束する。
後ろ手に縄で縛られ、俺はまるで荷物のように床へ転がされた。
打ちつけた手足の痛みを感じる余裕も無かった。
反転した視界の隅、廊下側の壁際に、信じがたいものが映ったから。
どうしてその場所に――皇子が倒れてるんだ?
※一部描写を修正しました。




