その10 最後の晩餐
薄明かりの中にあっても強烈な存在感を放つ、血塗られた漆黒の短剣。
俺が呆然としてそれを見つめる間にも……ネズミは『変化』していた。
ぷつんと切れて短くなっていた尻尾がじわじわと伸びていく。裂けた皮膚もモリモリ閉じて、そこからもさもさと毛が生える。
魔獣は、人間の魔力でしか滅することができない。魔力を伴わない武器で物理的に傷を負わせても、すぐさま回復してしまう。
忌々しいと思っていたその摂理に、俺は初めて感謝した。
『フゥ……ゴシンパイオカケシマシタ』
ころんと転がっていた姿勢から、ぴょんと飛び起きるネズミ。
俺は潤みかけていた目元をこすると、人工魔石の欠片でシャワーを出し、身体にこびりついた血を洗い流してやった。ネズミは気持ち良さそうに目を細め、ぱたぱたと尻尾を動かす。
その水が跳ねて、ダガーに触れる。
時間が経っているせいか、刃にこびりついた『人間の血』は落ちなかった。どす黒く変色したそれが視界に映るだけで、吐き気が込み上げてくる。
でもこれは、ネズミが持ってきてくれた重要な証拠品だ。確認しないわけにはいかない。
シャワーを終えた後、俺は鉛色の柄へと指先を伸ばし……。
「――ッ?」
触れる瞬間、とっさに身を引いた。
直感が俺に訴えたのだ。『この剣は危険だ』と。
一メートルほど距離を置いたまま、光球を剣の傍へ動かすと……ギラリ、と輝きを放つモノがあった。
それは柄の中央に埋め込まれていた、漆黒の宝石。
遠目には、魔石と判断するのも難しいほどの色合いだ。限りなく純度の低い、いわゆる“使えない”天然魔石を、さらに濃縮させたような不気味な色。
「これって、もしかして……魔獣の心臓……?」
落ちついていたはずの心臓が、再び激しく動き出す。俺はごくりと生唾を呑み込み、妖しくも美しいその輝きにまじまじと見入る。
客観的に見れば、僅か一センチ程度の黒い石でしかない。
それなのに不思議な引力を感じる。心の中の邪な欲望をくすぐられるような……。
たぶん所長も、今の俺と同じ感覚になったんだろう。『聖獣の心臓』を取り出した残りカスの中に、この禍々しい結晶を見つけ出してしまったときに。
そして好奇心に逆らえず、本物の禁忌に触れてしまった。
これを手にすれば、たぶん人間は『女神の支配下』から抜け出すことができる。恐れや罪悪感を抱くこともなく、人を殺すことが可能になる……。
『なあ、ネズミ。隠し通路から偵察してもらったとき、所長は“狼に食われた”って言ってたよな』
『ハイ』
『じゃあ、この剣はどこにあったんだ?』
『チチノ、ムネニ』
『そっか、分かった』
言葉足らずなネズミの報告を、早合点したのは俺のミス。
狂った魔獣たちが一方的に所長を襲ったと思っていたけれど、真相はそうじゃない。
所長は、自ら命を手放したんだ。
「馬鹿なことを……いくら苦しくても、生きてるってだけで価値があるはずなのに。室長たちだって、アンタのこと信じてたのに」
そのとき俺は、初めて彼の死を心から悼んだ。禍々しい輝きを放つダガーに向かって手を合わせる。
祈りを終えた後、ネズミがちんまい手を合わせているのを見つけて、ちょっと苦笑して。
『本当はお前、“父親”のこと好きだったんじゃないのか?』
『スキ、デハアリマセン』
『強がんなくていいよ。ショックだったんだろ?』
『……ハイ、スコシ』
『他のヤツらもか?』
『ハイ』
『そっか……』
俺はダガーから目を逸らし、置いてきてしまったバケツを手に取った。そしてネズミに三十センチ程度の“穴”を開けてもらい、トングで掴んだ肉をその中へ投入していく。
扉のすぐ向こうに、餌を求めて涎を垂らす魔獣たちの気配がする。
一切れ投げ入れるたびに、おぞましい咆哮をあげる。仲間同士でそれを奪い合っているのか、ときおり激しい悲鳴が轟く。その声には知性など微塵も感じられない。
下手をすればこの扉をぶち破って、俺自身をも食い殺しかねないというのに……俺は涙が溢れるのを止められなかった。
きっとコイツらは、ただの従順なペットだった。
主を心から慕って、本物の父親だと思って、どんなに嫌な命令だってこなした。
それほど信じていたのに裏切られたんだ。目の前で自殺を見せつけられるという、最悪の形で。
悔しさや悲しみは、『聖獣』の純粋な心を壊した。悪い魔法使いの手で魔獣に堕ちてしまった銀色狼のように……。
「いったい何なんだよ、こんなのが革命だっていうのかよ……」
病を患っていたという所長は、迫りくる死の恐怖から解き放たれたかったのだろうか。
自害にこの場所を選んだのは、自分を心から慕ってくれる聖獣たちに看取られたかったからなのか。
それとも……こうなることを予見していたのか?
故意犯として――この世界の全員を道連れにして、幸福な来世へ旅立つことを『革命』とでも名付けたのか?
もしそうだとしたら、そんな茶番ぶっ壊してやる……!
「……悪いな。これで餌は終わりだ」
俺はローブの袖で目元をグイッと拭い、扉の前から立ち上がった。
ネズミをポケットの中へ入れ、予定通り結界を張る。七つ分の魔石が煌めく光の粒になって消えた後……魔獣たちの声は聞こえなくなった。
あとは結界の強度を維持していくだけだ。それは遠隔地で行うしかない。
もうこの場所には誰も来ちゃいけない。この剣だけは、誰の目にも触れさせられない……。
俺は空になったバケツを剣に被せて、『結界』代わりにしようとしたものの。
「いや、やっぱやめた」
脂に塗れたバケツを放り投げ、俺は剣の前に立った。
軽く視線を向けるだけで、冥府へ誘うかのように妖しく煌めく魔石を、フンと鼻先で笑い飛ばす。
女神の慈愛なんて、クソ食らえだ。
コイツは俺の敵だ。この世界に存在させたらいけない、情け容赦なく叩き潰すべきもの。
「俺のことを取り込めるつもりなら、やってみろよ……」
放った呟きは、まるで他人の声みたいに響いた。それどころか、自分自身の身体でさえ別の生き物のようだ。ロボットになった身体を誰かが遠隔操作しているような感覚。
いくら理性が「やめろ」と叫んでも、止められない。
俺は腰をかがめ、剣をひょいっと拾い上げた。そして、濃厚な瘴気がゆらりと立ち上るその柄を強く握り締める。
右手の先がビリッと痺れる。手から腕へ、そして全身へと目に見えない何かが這い寄ってくる。
それでも俺の意思は揺るがない。
「――殺れるもんなら、殺ってみやがれッ!」
魂の叫びに呼応した剣が、意思を持つ生き物のように動いた。人一人の血を吸った剣先が、第二の獲物へと襲いかかった刹那――
バキィッ!
耳をつんざく破砕音とともに、剣が砕け散った。
刀身も柄も、漆黒の魔石も、何もかも見る影もない単なる瓦礫と化した。
俺はしばし呆けた後、手のひらに付いた砂埃をパンパンと払って。
「なるほど、これが『女神の加護』ってヤツか……今までも護られてたんだろうけど、初めて実感したわ」
『メッ!』
『ん?』
『メッ、デスヨ! イケマセン!』
ポケットの中のちんまい手が、俺の身体をポコポコと殴る。俺は慌てて『ごめん』と言ってネズミの頭を撫でた。
それから人工魔石の欠片に『ゴミ掃除』を依頼して、俺はその場を後にした。
※誤字を修正しました。
※主人公のモノローグを一部修正しました。




