その9 檻の中にあるもの
冥府への門を思わせる重厚な鉄扉が、薄明かりの中にクッキリと浮かび上がる。
あの扉が今すぐ壊されるわけじゃない、まだ時間の猶予はあるというのに、『ここを開けてはいけない』と鼓動が警告の音を鳴らす。
それ以上に騒がしいのは、魔獣たちの荒々しい息遣い……。
結局、ラストの一段を降りられたのは俺だけだった。ビザール先生も室長も、三段ほどを残して固まってしまった。どうやら足が竦んで動けないらしい。
俺はため息を吐き、代わりに澱んだ空気をめいっぱい吸い込む。
銀色狼の生み出す、清らかで澄み切った空気とは何もかもが違った。あの空気だけを吸って生きてきた二人にとって、この空間は地獄にも等しいのだろう。帰路のことを考えるとあまり無理はさせられない。
「お二人とも、もうちょい上で待っててください。俺が様子見てきますんで。あ、いろいろ訊きたいこともあるし、声が届く範囲内でお願いします」
早口でそう告げ、俺は禍々しいオーラを纏うその扉へと近づいた。
さっきは触れることすらできなかったけれど、今回は平気だった。手のひらを押し返してくる抵抗感から、結界の強さを推し量る。数秒置いた後にもう一度。
……やはり、この僅かな時間でも薄くなっている。魔獣の放つ瘴気に穢されているのだ。
「室長、この結界のカードキーは誰が持ってるんですか?」
「あ、ああ、所長だけだ」
「じゃあ、さっそく結界を重ねがけしましょう。新たなカードキーは必要ありません。もうこの中には、人が入れる状況じゃないと思うんで」
そう告げた瞬間、室長の身体がぐらりと傾いた。そして嗚咽を堪えるかのように口元を抑える。
……たぶん室長は、信じたくなかったんだろう。所長の死を受け入れたくなくて、だからこそこの場所を人一倍恐れていた。
だけど今は、現実逃避に付き合ってる暇なんてない。
俺は身体の向きを反転。光球を引き連れて、地下エリアを隅々チェックする。
階段から扉までの距離は約十メートル。フロアはさほど広くないというのに、意外とモノがごちゃごちゃ置いてある。魔石の欠片やら、用途の分からない実験道具やら、仮眠を取るための毛布やら。
階段の裏手はキッチンスペースになっており、そこにはごく最近人の手が触れた痕跡があった。
「すみません、所長はいつ頃この扉の中に入ったか分かりますか?」
「今朝方ラボで見かけたから、その後だろうが、詳しい時間までは……」
「では、何をするためにこの中へ?」
「聖獣の食事だ。一日一度、所長が自ら与えていた」
「何を食べさせていたんです?」
「保冷庫の中にある、肉を」
的確に答えてくれる室長の声に、ノイズのような荒い息が混じり始める。そろそろ限界が近そうだ。
俺はキッチンの隅にある保冷庫の中をチェックしながら、事件の核心に迫る質問をぶつける。
「つまり、所長は毎日必ずここへ出入りしていたんですね? でも今までは襲われるようなことは無かった。それはなぜですか?」
「所長は、『聖獣の心臓』に、自分には逆らわないようにと、祈りを込めていたから」
……なるほど、やはり神力でコントロールしていたのか。
もしかしたら一方的に命令を下すだけじゃなく、俺みたいに会話もできていたかもしれない。まさしく従順な“ペット”として扱っていたのかも。
となると――最大の疑問はココだ。
「では、今日になって突然襲われた理由は?」
「分からない……本当に、分からないんだ。こんなことはありえない……」
「良く考えてください、絶対理由があるはずです」
「……ッ、そうだ、革命だ……最初に言った通り、ボクは何も知らされなかった、ただ所長は『革命の日が近い』って……」
長かった打ち明け話が、ようやくふりだしへ戻った。俺はずっと抱いていた疑問を口にする。
「所長は最初、『聖獣の心臓』を使うことをためらっていたんですよね? なのに突然方針を変えて、いきなり革命なんてことを言い出した。それはなぜですか?」
「……たぶん、時間がないと思ったんだろう。所長は病気を患っていたから……」
「なるほど、所長は自分の命があるうちに『革命』を成し遂げたいと思った。室長はそれに協力したかった、ということですね」
淡々と語りながら階段の下へ戻ると、室長とビザール先生は二十段ほど上の位置でへたり込んでいた。
俺は二人を見上げ、軽く頭を下げた。
「それじゃ、ひとまずここは俺に任せてください。いくつか手つかずの天然魔石を見つけたんで、『向こうの扉』と併せて結界強化を行っておきます。お二人は上に戻って魔石確保をお願いします……っと、そうだ。肝心な質問を忘れるところでした」
ビザール先生に肩を支えられ、かろうじて立ち上がった室長が、首から上だけこっちを向く。汗ばんだ額に前髪を張りつかせ、焦茶色の瞳にあからさまな怯えを滲ませて。
その怯えは、もしかしたら魔獣のせいじゃなく、俺のせいだったのかもしれない。
「『革命』を主導していたのは――アレクサンドル皇子を襲わせたのは、いったい誰ですか?」
「――ッ!」
「ジロー君!」
ビザール先生の鋭い叫び声に、ハッとする。
思わず自分の手のひらを見る。汗一つかいていない。いつのまにか動悸も治まっている。
ポケットの中のネズミが、「キキッ」と鳴いて心配そうに俺を見上げる。
……俺は今、何をしようとしていたんだ?
辛辣な言葉で追及したところで、室長が「知らない」と答えるのは明らかだった。
実際、室長は『未必の故意』を貫こうとしていた。所長が道を踏み外したことに気づいていながら、気づかないフリを続けてきたんだ。
それを分かっていて、精神を揺さぶるためだけに罪を突きつけるなんて……どうかしてる。
「すみませんでした、もう行ってください」
「ジロー君も、一緒に来ないかね?」
「先生……」
「結界強化なら、遠隔地からでも可能じゃ。多少効力が落ちようとも構わん」
慈愛に満ちたビザール先生の視線が、遥かな高みから俺へと注がれる。それは地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようにも、俺を断罪する刃のようにも思えた。
「ここの空気は“良くない”……ジロー君はこれに慣れてはいけない。ワシの中の女神がそう言っておる」
じわり、と手のひらに汗が滲んだ。浮かびかけた涙で視界が歪む。
それでも俺は、首を縦に振ることができなかった。
◆
ロビーからこっそりくすねて持ち込んだ魔石が三個。この地下フロアで見つけた分が四個。
合計七個の天然魔石を、俺は扉の前に並べる。
後は精神を集中し、これに手を触れて『願い』をイメージするだけなのだが。
『魔力は回復したか、ネズミ?』
『ハイ、ダイジョブデス』
『じゃあ、もう一回“偵察”頼むな』
『リョウカイシマシタ』
ポケットからぴょんと飛び降りたネズミが、扉を尻尾でパシンと叩き、スルッと中に消えて行く。俺はそれを見送った後キッチンへ。さっきは軽く眺めるだけだった戸棚や保冷庫の中を細かくチェックする。
結界を強化する前に、一つ確認しておきたいことがあった。
所長は本当に、神力だけで『聖獣』をコントロールしていたのか?
例えば、結界に対するカードキーのように、『聖獣の心臓』と連動する何らかのアイテムを所持していた可能性もなくはない。
うっかりそのアイテムを紛失して、それに気づかず檻の中へ足を踏み入れたなら、突然襲われるのに充分な理由になる。
と仮説を立ててみたものの。
「うーん……ダメだ、見つかんねー」
ビザール先生に一喝されたおかげで、だいぶ通常モードに戻ってきたメンタルが、俺にぶつぶつと独り言を言わせる。
「しょうがない、次の作戦行くか。肉料理っと……」
俺は保冷庫から肉塊が詰まった段ボールを一つ取り出し、キッチンへ。
人工魔石でコンロに火をつけ、フライパンを乗せる。つやつやした生肉はまな板の上に乗せ、塩コショウを振っておく。フライパンが温まったら、表面を軽く炙ってミディアムレアにし、そいつを特大バケツの中へ放り込む。
段ボールの中が空になり、バケツが山盛りになったところで作業終了。大雑把な男の手料理ながら、けっこう美味そうだ。
「しかし、合成魔獣の餌が『高級牛フィレ肉のステーキ』だなんて……贅沢っつーか、なんつーか」
これもついさっき、ネズミから入手した情報だった。
合成魔獣は、人間と近い味覚を持つらしい。ネズミがビザール先生の部屋に住みついていたのも、美味しい餌にありつけるからだったとか。
つまり、ヤツらの空腹を満たしてやれば、多少は暴れだすまでの時間稼ぎができるんじゃないかという……我ながらややセコイ作戦だ。
俺はずっしり重たいバケツを抱えて、扉の前へと歩き出し……すぐにそれを放り出した。
『ネズミッ!』
扉の前に、小さな赤い物体が転がっている。純白だった身体を血の色に染めた、痛々しい姿が――
『どうしたんだッ?』
『スミマセン、スコシ、カジラレマシタ』
『少しって、こんなに血が出て……』
『シンパイムヨウデス、チョットヤスメバ、モトドオリ』
そう言ってネズミは、だいぶ短くなってしまった尻尾の先を、傍らに転がっているモノへと向けた。
それは、俺がネズミに「探してくれ」と依頼したモノだ。
所長の遺体に残された、魔石のついたアイテム。
ただ俺の予想とは大きく違った。指輪やネックレスや、せいぜいカードキー程度だと思っていたのに。
「……どうして、所長がこんなものを……?」
ネズミが決死の思いで掴んできたのは、刃渡り二十センチほどの『短剣』だった。
※誤字修正しました。
※主人公のモノローグ(所長の襲われた動機関連)を一部修正しました。
※主人公のモノローグを一部修正しました。




