その5 暗闇の中へ
「くれぐれも無理はしないようにな、ジロー君」
「先生の方こそ、お気をつけて」
柔らかな木漏れ日が降り注ぐ菩提樹の下で、俺はビザール先生と固い握手を交わして別れた。まるで戦友にでもなったような気分で。
そうして一人になった後で、俺は真の作戦――『ガンガンいこうぜ』を発動。
最大の武器は、俺の手のひらだ。
このハンドパワーを使えば、リスクは大幅に軽減できる。研究員だろうと魔獣だろうと触わりまくって懐柔して、可能な限り証拠を集めまくってやる。
これは『悪用』じゃない。皆を守るために必要なことで、女神の意志にも背いてないはず……。
と自分に言い聞かせつつ、俺はネズミのナビゲーションに従い、光に満ちた中庭を足早に抜けて行く。
しかし、隠密行動なんて前世も含めて初めての体験だ。ローブ姿の俺が歩いていたところで、誰かに見とがめられることはないというのに、人とすれ違うときはついドキドキしてしまう。
なるべく顔を伏せ、己の気配を消しながら、ニンジャにでもなった気分で進んで行くと。
『ココデス』
ネズミに案内された場所は、裏門の近くにある石造りの建物だった。
一見すると地味なガレージといった外観だが、実は魔石工場の搬入口になっているのだと、昨日アンジュが教えてくれた。
「なんだか“嫌な感じ”だな……昨日は来たときは、そうでもなかったんだけど」
急に不安になってきた俺は、キョロキョロと周囲を見渡してみる。
ここまで来るとさすがに学生の姿は見当たらない……というか丸っきり人気がない。
たぶん、花や緑のない寒々とした景観が人を遠ざけているのだろう。『七不思議』が生まれるのも納得できる、いかにも陰気な場所だ。
念のため、俺は裏門の傍まで行ってみた。
物理的な門は固く閉ざされ、銀色狼の結界と合わせて二重のバリアが立ち塞がっている。そこには門番もいない。
夜になればこの場所の雰囲気は一変する。門番たちは皆こちらへ移動し、運び込まれる緋水晶のチェックを行う。
出入り業者と門番の一部は、確実に『犯人』の息がかかっている人物だろう。
お目こぼしをされた荷馬車の中には、無垢な動物たちが紛れ込んでいるかもしれない。
もしくは、荷物を下ろして空っぽになったはずの荷台に、恐ろしい魔獣が積みこまれているのかも……。
『デハ、イキマショウ』
『お、おう……』
若干ビビりぎみな俺に頓着せず、ポケットから飛び出したネズミが、ちょろちょろとガレージへ向かって走り出した。俺も慌てて後を追う。
ガレージの大きさは馬車が数台収まる程度。窓は無く、前面はシャッター代わりの頑丈な鉄扉で覆われている。当然、結界も強固だ。
ここは地下工場へ部外者がアクセスできる唯一の入り口だし、万が一にも産業スパイに潜入されないよう、アリンコ一匹通れないような仕組みになっている。
そんな場所にいったいどうやって入るんだろう……と思いながらネズミの姿を見守っていると。
巨大な鉄扉の前で立ち止まったネズミは、くるんと身体を反転。尻尾の先で鉄扉をパシンと叩いて。
『ケッカイニ、アナヲアケマシタ』
『えッ、そんなことして大丈夫なのか? 結界が消えたらさすがにマズいんじゃ……』
反射的に思い浮かべたのはアンジュの特殊能力だ。しかしネズミは尻尾をふりふりしながら否定する。
『ダイジョブデス、コノトビラダケ。ジカンガタテバ、モトドオリ』
『おお、マジかよ。お前の力すげーじゃん!』
とベタ褒めしつつ、俺は引き戸になっているその扉をスライドさせようとしたものの。
……開かない。
何度やっても開かない。
『なあ、まだ結界張られてるっぽいんだけど』
『ココカラ、トオレマス』
語尾に「キリッ!」とつく感じでそう言うや、ネズミはさっき尻尾で叩いたあたりに首を突っ込み……そのままスルンと消えてしまった。
「えッ?」
慌ててしゃがみ込み、その部分に指先で触れてみると、スカッと向こうへ通過した。扉はしっかりと目に見えているのに手が通ってしまうなんて、まるで手品みたいだ。
つまり、そこには確かに穴が開いていた。
直径約十センチの穴が。
『サア、ハヤクコチラヘ』
『――こんなん通れるかッ! 小さすぎるわッ!』
『チョ、チョットマッテクダサイ』
再びガレージの中から現れたネズミが、ぴょんぴょんとジャンプしながらペチペチと扉を叩き続ける。
叩くこと二十五回で、ようやく五十センチ程度の穴が開いた。俺は四つん這いになってその穴を通り抜ける。
ネズミは、コロンと転がったまま動かなくなった。
『……魔力切れか』
『ハイ、スミマセン』
『いや、こっちこそ重労働させて悪かったな。そんで、この穴ってどれくらい持つんだ?』
『ネズミジカンデ、イチニチデス』
『ニンゲン時間だと?』
『ジュップンデス』
『――クソッ、時間がねぇ!』
暗がりに目を慣らしている余裕はなかった。
俺はネズミの案内に従い、壁に手をつきながら地下道へと足を踏み入れたのだが。
「しかし、扉の中と外じゃ別世界だな……向こうが天国なら、こっちは地獄だ」
まるで時が止まったかのような静寂と、おぞましい漆黒の闇。身体にねっとりと纏わりつく湿った空気。通路はかなりの急こう配で、気を抜くと転びそうになる。
できるなら、ポケットに忍ばせた魔石で明かりをつけたいところだけれど、万が一研究員に見つかったらマズイので控えておく。
代わりに自分の直感をアンテナして進む。
下り坂がなだらかになった頃、前方に微かな明かりが見えた。たぶん緋水晶の保管庫だろう。
『ソチラデハアリマセン』
誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、明かりへと向かっていた俺の身体は強制ストップ。ネズミに言われるがままに、その手前の壁を押してみると……手ごたえがなかった。
「なるほど、これが隠し通路か。なんかRPGのダンジョンみたいだな」
名残惜しく思いながらも、薄明かりに背を向ける。そして再び凍てつく闇の中へ。
いくつもの分かれ道をクリアし、螺旋を描くように下へ下へと降りて行き、辿りついたダンジョン最深部には、ガレージと同じ黒くて分厚い扉が一つ。
俺は迷わずその扉に手を伸ばし……。
「――ッ?」
指先が触れた刹那、俺は弾かれたように後方へ飛び退いていた。
扉の奥から、何やら異様な気配がする。
一気に鼓動が速くなり、全身の毛孔からドッと汗が吹き出す。
『なあ、ネズミ……なんかここヤバい感じするんだけど……これって“普通”なのか?』
『フツウ、デハアリマセン』
『どういうことだ?』
『ワカリマセン、スコシオマチクダサイ』
僅かながら魔力を回復したのか、ポケットから飛び出したネズミは扉の隅をパシンと叩き、その向こうへ消えて行った。
途端に襲い来る、不気味な静寂。
俺は流れる汗もそのままに、ただ震えながらネズミの帰りを待った。真綿で首を締められるような恐怖感に必死で耐えながら。
……肝試し、なんてレベルじゃない。
あの扉の奥にいるのは、幽霊なんかよりもっと恐ろしいものだ。確実に俺を殺せるもの。
いや、俺だけじゃなく、地上で暮らす人々を皆殺しにするような悪魔がいるんだ。
「そーいや、神父さまはいつも言ってたよな……魔獣を甘く見るなって」
最後の強がりで、俺は乾いた笑いを漏らした。
正直この施設に近づくだけで嫌な感じがした。俺の直感は「やめておけ」と訴えていた。今の俺に太刀打ちできる相手じゃないと。
まさにRPGと一緒だ。俺はレベルが低いくせに、ラスボスのいるダンジョンへ乗り込んでしまった……。
ぼんやりとそんなことを考えていると、足元で「キキッ」という小さな声が鳴き声がした。
ハッとして、意識をテレパシーモードへ切り替える。
『戻ってきたのか、どうだった?』
するとネズミは、俺のブレザーのポケットへ駆け上ることもせず、尻尾をだらりと下げたまま告げた。
『シンデイマス』
『えッ……死んでるって、何が』
『ワタシノチチガ、シンデイマス』
※誤字修正しました。
※一部モノローグ(魔獣関係)を修正しました。
※一部モノローグを修正しました。




