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「そう。それを書いた日に、春は死んだのよ。」
冷静に私の耳に伝わる。弥生さんからの二度目の電話。
夜の匂いがあたりを包む。月灯りにてらされて屋根から影が落ちる。ひんやりとした空気が肌に触れ、私を等身大に形作る。心が肉体におさまったリアルな私。真夜中にできる光と影との境界線が私は好きだ。それは太陽がつくるはっきりした影より、やわらかくも優しいから。
病気などによる身体的な死亡、精神的からくる自殺、そのどちらでもなく春の死因は今もわかっていない。風船から空気が抜けてしぼんでしまうように、春は静かに息を引き取ったそうだ。
私はこのことを手紙を読んで知っていたが、人の声、それも弥生さんから聞かされると生々しく直接的に感じる。
「まあ。このページの日記にも日付もないし、私が勝手にそう思っているだけだけどね。あなたもそんな気がしない?」
悲しい話をしているはずなのに、弥生さんはなんだか悪戯っ子のように言った。
「ええ、きっとそうですね。」
私も素直にそう思った。
春は最後の日記にめいっぱい力をいれて気持ちをこめて、自分なりに満足したからのんびりしようとしたのだ。きっと。そこには悲壮な思いなど微塵もなく、ただ疲れたからそのまま休んでしまっただけ。とても健やかな眠り。
「弥生さんひとついい?」
私は聞きたかったことを尋ねた。残る疑問、私にこの家を譲ってくれた理由。
「その家はね、もともとは春の家だったの。それを春のご両親から頂いたのよ。」
弥生さんはゆっくりと昔を思いながら。
「何から話そうかな。」
とても丁寧に言葉を紡いだ。
「実はね、春は二年ぐらいかけて日記を書いたのよ。枚数少ないし、ひとつの季節が過ぎる間に書けそうだけどね。春は“施設”に一年近くいたから、計算するとだいたい二年ぐらいになるの。どお、驚いた?」
たしかに薄い緑色した日記は、季節が変わる短い間だけで書けそうだった。
「原因もわからずに春は死んだから、やっぱり春のご両親も滅入っててね。お葬式やらいろいろ片付いて少し落ち着いたあと、ご両親はその家を手放して遠い街に引っ越すことになったのよ。春を、はやく思い出にしたかったのかもね。本当に春はあっさり死んじゃったらしいから。」
大人のはずの弥生さんの声が、なぜだか無防備な子供の声のように聞こえる。
「春がまだ生きているときご両親とは何度か会ったことがあって、春と私が仲が良いのを知っていたから私に家を譲ろうと思ったらしいの。春との思い出が詰ったこの家をお金にかえたくない、けれどこの家を手放したい、忘れたいから。てね。
今思うと驚きよね。譲渡に必要な税金とかも春のご両親が払ってくれたし、普通ないことだもの。でもね、そのときは私がこの家に住むんだって自然に思えたわ。」
ちょっとした無音のとき。弥生さんの話を私に染込ませる
「私を殴ってからすぐに春は“施設”に入っちゃって、次に会ったのが春のお葬式。言葉なかったわよ。殴られてから音信不通になって、春の家に電話をしてもいつも留守だったし、不安や寂しさを誰にもぶつけられなくて、私の思いをどうしたらいいのって思ったわ。
私、嬉しかったのよ、春に殴られて。もちろん怒ったけど、私が他の男の子と仲良くしていたのが原因だし、好きとか一度も言ってくれなかったから、やきもち焼いてくれたんだって嬉しかったんだ。へんかな?」
弥生さんはおどけたように言った。
「ううん、全然へんじゃないよ弥生さん。でもどうして、そんな家を私にくれたの。大切なものだったんでしょ?」
私はよけいに不思議に思った。
「私は春だけを想って生きてきたわけじゃないのよ。春の家に住んでから何人か恋人もできたし、幸せを感じたこともあったわ。でも、いつも物足りなさが付きまとっていた。春じゃないってね。だからこの家を手放そうと思ったの。春のご両親のように、春を思い出にするために。」
弥生さんは穏やかに言う。
「どうして私なの?」
本当になぜだろう。
「聞いてくれる。あなたと私と春の家のこと。大層なことではないけれど、私にとってはとっても大切なお話。」
そして弥生さんは語り始めた。淡々と何かを噛みしめるように。
「春の家をご両親に頂いてから、私はすぐには引っ越さなくてね、高校を卒業するまで待ってたんだ。さすがに、あなたのお爺ちゃんお婆ちゃんが許してくれなくてね。早く住みたかったけれど、半年ちょっとだったし我慢したわ。それから春の家にすむようになって、私、カチコチに固まってしまったのよ。」
カチコチ?
弥生さんは苦笑いをするように言う。
「そうカチコチ。そのころ私、顔に表情がなかったんだ。感情が上手く表現できない。無表情でカチコチ。誰に会ってもみんな驚いていた。私の顔を見た瞬間ぎょっとしていたもの。あなたのお母さんもね。私、何かに怒ることはなかったし、声を上げて笑うこともしなかった。泣くこともできなかったのよ。春が死んだのにね。」
弥生さんは静かに言った。
遠い昔の話。けれど、弥生さんの心の奥底にある小さな痛みが伝わってきた。
「そんなとき姉さんに連れられた、あなたに会ったのよ。桜の花も全部散ってしまって、綺麗な黄緑の葉がたくさんついていたころ。土の上に桜色の花びらがすこし残っていたぐらいでね。あなたは六歳ぐらいだったかな。この家に入るなり、私のことなんかほっておいて庭に飛び出して、『この木なあに?この木なあに?』って凄い勢いで聞いてきたの。初めて会ったのに、私のことなんて全然気にしないで、ちょっとビックリしたわ。それで私が桜の木だって教えてあげると、あなたはちっちゃな手をめいっぱい広げて木の幹に抱きついたのよ。『桜の木』ってとても愛しそうに呟いて。あなたは桜の木のことしか頭になかったんだろうね。すごく満ち足りた顔をしていた。私、そのときのあなたがすごく色っぽく見えて、この子はこんないい顔で恋をしていくんだろうなって思ったわ。そしたらなぜか涙が出てきたの。やっと泣けたのよ。すぐに止まってしまったけど、ゆっくりと身体中に染み渡るように、それは優しく私を満たしてくれたの。」
弥生さんはそう話を結んだ。喜びと幸せ、切なさと哀しみ、すべてを受け止めたとても澄んだ声で。
私は涙がこぼれた。
あれから一度足りとも泣くことはなかったのに。
泣くことはいいことだ。涙は悲しみをすこしづつ洗い流してくれる。喜びのあまり涙する、悲しみのあまり涙が頬をつたう、人のとても素敵な機能だ。哀しくても泣けなかった私。泣くことが恥ずかしいこと、悪いことのように思っていた。
手のひらに落ちる涙。やっと傷つき疲れた自分を許せたのかもしれない。
「それから春の日記を見つけたのよ。私にとって春からの恋文。それが春と私の物語。」
弥生さんの声、私は大好きだ。
人間はひとりぼっちだ。
弥生さんの哀しみを知ることはできない。春の苦しみを味わうことはできないし、もちろん、私の喪失感で誰かの心が傷つくこともない。自分の問題は自分で解いていかなければならないから。
けれども、誰かが泣いている私を少しだけ暖かくする。誰かが切りさかれた私を少しだけ癒してくれる。誰かが動けないでいる私の背中を押してくれる。みんなのなかにいること。
私はひとりぼっちで生きていく。今よりちょっとだけ幸せになるために、みんなと一緒に歩いていく。