8
『右手にはマーブル模様の僕の半分がある
とてもなめらかで、ほんのり冷たく、その感触はとても手になじむ
あるときすこしだけ大きくなり
あるときにはビー玉のように小さくなる
それはまるで、黒い犬の黒い瞳のようだ
黒い犬は大地を駆け、たまにぐでんと休み、無垢に花の匂いを嗅ぐ
左手の黒い犬
ときにさわがしく、ときに静かに
嬉しそうに哀しそうに
真直ぐ前をむいてもぞもぞ動く』
*
やらなければならないことを冷静にこなしながら、心になにかを引きずって過ごしていたそんな時。前触れもなく手紙が届けられた。
省吾を失ってから一月がたつ。
誰かに甘えたり、悲しみをぶつけたりできない私は、好きな小説を読んだり、庭の桜の木をただ眺めたり、友達と買い物をしたり、普段と変わらないことをしていた。
珍しく北村とお酒を飲みに行ったりもした。慰めるのでもなく励ますのでもない態度は、私が元気になるのを焦らず待っていてくれているようで嬉しかった。
感情や気持ちいろいろなものが動かない私。哀しいとわかっているのに、哀しいと感じられないジレンマ。そんななか久方ぶりに心が動くということを知った。それは弥生さんからの手紙。
中身は春だった。
初めの部分をすこし読んだあと、コービーを煎れることにした。それはとても丁寧に書かれたとても長いものだったから、私も全力で弥生さんの手紙と向き合おうと思ったのだ。
豆を挽くと香りが生まれる。沸騰したお湯をすこしだけ冷ます。挽いた豆をペーパーフィルターにいれお湯を落とす。部屋の上のほうにこげ茶色の香りが浮かんだ。
「突然の手紙、ごめんなさいね。いま古い旅館の畳の部屋でゆっくりと、この手紙を書いています。この前あなたと電話で話してから、春のことがいろいろ浮かんでくるようになって、それを言葉にしたいと思ったの。春の仕草や目をそらすときの癖。公園で話したこと。寂しそうな笑顔。ちょっとした思い出が、本当にたくさん鮮明に浮かんでくるのよ。それをあなたに伝えたくて手紙を書いています。あなたはどうしてと、不思議がっているかもね。それでもあなたに春のことを知って欲しかったのよ。そう思うのは私自身なぜだかわからないけれど、できたらこの手紙を読んで欲しい。たぶんとても長いものになるけれど、これが春です。私の覚えている私の春です。」
十数枚にもおよぶ手紙のなかで春の小さな欠片が舞う。春の身長。春の好きな料理。はるの癖。春の好きな音楽。春の足の大きさ。春の鼻。春のまつ毛。春の好きな色。春の名前。春の人生。
弥生さんの記憶のなかで今も生きている春。それをひとつひとつ大切にすくい上げ、細部までも的確に書き表していく。掌を太陽にすかして見る。そしてその手なかの血の流動までも画用紙に描いていく。右手にはクレヨン、それでも余すところなく描いていく。写実的なそんな手紙、飾り気のない言葉は弥生さんの細胞の記憶を紐解いていくように思えた。
どんな気持ちでこの手紙を弥生さんが書いたのかはわからない。春を思い出として受けいれるために必要な作業だったのかもしれない。春のいない時間が流れていくなか忘れないために書いたのかもしれない。たぶん弥生さん本人もわからないだろうけど。ただ言えるのは、弥生さんにとって春はとても大切で唯一の人だったこと。そして春と恋をしていたこと。
弥生さんの誠実な言葉が、固まっていた私の扉を開いていく。すこし開いた私の心に、春が自然に入ってくる。それはとても暖かかった。弥生さんのなかの春が、私をふわりと抱きしめる。涙を流さず泣いている私を、優しく慰める。幼い頃、転んで泣いていた私に、擦りむいた膝小僧をふうふうしてくれた母さんのように。
私は自分のことを考えようと思う。私は目を開けようと思う。私が私のなかで変えたいと願うものと、残したいと感じるものを見極めるために。いろいろなことを。今よりすこし前に進むために。
私が一番好きな春の日記がある。そのページのあとは白紙になっているので、きっと春が書いた最後の日記。それは私が暗い春の言葉を何度も何度も読み返すようになったきっかけになったもの。そこには春のありったけの生命力や、全身全霊の思いのたけが溢れている。
『本能からくる声
中心が丸くくりぬけた心が叫ぶ
いえなかった言葉
好きという言葉
血まみれの身体、包帯が薄汚れ、咳き込み血を吐き出す
ボロボロの身体を引きずり
それでもいえなかった言葉
好きという言葉
僕の優しい部分が あなたを好きです
あなたを傷つけたいと思う僕は あなたが好きです
あなたに会うと笑顔になる僕が あなたを好きです
自分だけの物にしたいと欲望を抱く僕は あなたが好きです
僕の全部をかけて
それが想いの全て
あなたは知っていますか そばにいてくれた人を
あなたは覚えていますか 心配してくれたことを
わたしは知っています 覚えています
この手で抱きしめられるぐらいに
ありがとう
頭をなぜてくれて
ありがとう
赤い花をそえてくれて
ありがとう
生きていてくれて
ありがとう
ここにいてくれて
言えなかった言葉
忘れられなかった人
好きという言葉
底辺がつくられた時代
好きという思いの上に積み上げられていった
言えなかった言葉
忘れられぬ人
大好きだったあなた
送りたかった言葉
好きという言葉』