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春。この日記を書いた人の名前。この日記のことはひとつもわからない。けれど日記をくり返し開くうちに、名前さえない、判らないというのが失礼な気がして私が名前をつけた。二年も付き合えば、情のような親近感のようなものが湧いてくる。一番いっしょにいる時間の長い人。春。
省吾との関係が悪くなってから一ヶ月。弥生さんも連絡がつかず、私の耳には電話の呼び出しの音が鳴り響いていた。何度か親戚のおばさんに聞いても、弥生さんの行方はまだ判らない。
省吾とは今でも上手くいっていないが、時間は私に冷静さを取り戻させてくれた。周りの人たちは、私に何か起きたことをなんとなく判っていたのだろう。私を避けるのでもなく、深入りすることもなく、ちょうど良い距離を大切にしてくれた。よしっ頑張ろう。やっぱりダメだ。心がくり返す。空元気で毎日を過ごす。そうしていくと、拗れていた人間関係も徐々にだが良い状況に戻っていった。皆にすこしの感謝。
春。どんな人なのだろう。名前をつけると想像はふくらんでいく。
やさぐれていたときは失礼なことを考えたが、落ち着いてみると、好意的なディテールが浮かぶ。どんな姿だろう。どんな制服を着て授業を受けていたのだろう。グラフィックアートは好きだろうか。ノーマン・ロックウェルは好きかな。どんな声をしているのだろう。顔は。瞳の色は。指先は細くきゃしゃで美しいだろうか。そんな春をつくるものたち。
お腹が空いてきたので、オムライスをつくることにした。
鶏肉やタマネギのみじん切りをいれケチャップライスをつくる。卵にはつなぎを何も入れず、丁寧に半熟に仕上げる。焦げ目ないレモン色のオムライス。宝石のように綺麗だ。大泥棒が盗みにくるかもしれない。
雨上がりの澄んだ風が、私の髪を撫でていく。誰が触っていいよって言った?そう意地悪なことを考えた。外は雨が上がったばかりで、太陽が地球を照らしている。空には絵本にでてきそうな雲がふたつみっつ。冷えた空気が家を包む。綺麗な小川の水のような冷たさが、肌の境界線をはっきりと意識させた。
『新緑の渦に巻き込まれた私は、細いとても細い杖、それ自体の名前からくる役割をとうてい果せないであろう、その乳白色の杖だけを持ち、猫の目の洞窟を目指す。
そこはさまざまな黒色の人々があふれ、それは茶色の入った黒だったり、青のきいた黒だったり、疑いようもない黒だったりもした。
思い思いに動き、幾何学の美しい図形を何かしら描いているのだ。
私は黒のざわめきを抜け、模様に美しいアクセントをつける。そこにあるのはやさしい受動性であり、はっきりしない暖かさだ。
だが
目的地の方向はわかるが、その最終地点は、具体的にもなんとなくでも知るにたがう。
しかし私は、ひたすらに考え選択をくりかえし、力強く歩くのだ。
ただ純粋性を身体に宿しつつ』
「お久しぶりね。元気にしてた。」
朝も早く、受話器から明るい弥生さんの声がする。
「いま鹿児島に来ているんだけど、いいわよ桜島。お土産買っていくから期待しててね。で、そっちの住み心地はどう?」
弥生さんの声だ。私は布団の中で夢と現実を行ったり来たりしていた。朝霧がかかった頭では、弥生さんの問いかけに、いいよと頷くことしかできなかった。
「寝ぼけてたね。」
やっと目が覚めてきたとき、弥生さんがくすくす笑らわれてしまった。今思えば、よく弥生さんだと判ったな私。久しぶりの声。それもトーンが全然違うのに。
突然の電話に私は戸惑ってしまったが、明るい感じの弥生さんに思いのほか打ち解けることができた。話したのが人生で二回目なのに上出来だ。もちろん最後まで、興奮し、混乱し、冷静にはなれなかったけど。そうして一通り家の生活について喋ったあと、私は日記や春のことを話すことにした。
「春。いいわねそれ。」
これから私も春と呼ぼうと嬉しそうに同意してくれる。
弥生さんの優しい声に安心した。寝癖のついたボサボサの髪の毛を触る。腫れぼったい瞼を擦る。気持ちを落ち着け、そうして好奇心の赴くまま春のことを尋ねた。
「ええ。その日記を書いた春のことは良く知っているわ。」
弥生さんははっきり明るく話す。純粋な陽性の心。林さんや親戚のおばさんから聞いていた、落ち着いた実直そうなイメージは、良いほうに裏切られた。
そして、弥生さんと話していると、不思議な心地よさを感じた。
明るい人のなかには、あなたも元気にしなさい、という明るさを押し付けてくる人がいる。それは無意識なのかもしれないけれど、そういう人が傍にいると、静かな人は疲れてしまう。
弥生さんは違う。私が何か話そうとしたり言うことを考えていると、必ず待っていてくれる。なんというか弥生さんは一人一人のリズムを大切にしてくれる人なのだ。例えば、忙しい人とゆったりした人がそのままでいられる空間。気を使わず、無理をせず、一緒にいられる不思議な空気。短い付き合いながら、私は弥生さんに好感を持った。
「春の日記すごく暗いでしょ。僕は何をしているんだ。怖い怖い。暗い洞窟のなかを歩いている。疲労した右足がやせ衰えている。そんなものばかり。子供みたいなものもあったけどね。春はね、すこし心が壊れていたの。言葉は悪いけど、ほんとそんな感じだったみたい。春のご両親から聞いたから本当のことよ。それで精神を患った人のための施設にはいったりしていたの。その頃は、心の病に対する偏見があったから、なんと言うか収容所?そんな所だったみたい。」
私は頷き話を聞く。弥生さんは長い話を、ひとつひとつかみ締めるように大切に声にする。暗い話なのに、弥生さんが言うとそんなに悪いことに聞こえない。本当に不思議な人だ。
「施設に入る前は、私と春はよく遊んでいたのよ。二人とも高校生。もう18年前になるかな。」
私は、弥生さんが春の“あの人”だと確信した。陽性の弥生さんと陰性の春。
そのことを聞くと弥生さんはあっさりと、
「そう。春の好きだった人は私。」
初恋をした少女のように、恥ずかしそうに答えた。
なぜそんなに綺麗な声で春を語れるのか、わたしにはわからない。けれど弥生さんに尋ねることはできなかった。
なぜなら日記にはこう書かれていたから。
『あの人を殴ってしまった
殴ってしまった
殴ってしまった
もう会えない
こわいこわいこわい 自分がこわい
拳があの人の頬を殴ったあと気持ちがよかった
自分がこわい あの人を壊したい殴りたい
もうあの人に会えない会えない会えない』