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週末、私は家でごろごろすることが多い。恋人の省吾が忙しく、休みが合わないのが原因。私は一人の時間を楽しめる人だし、省吾に会えないことで寂しさは感じなかった。長く付き合うとそんなもんかなと思う。
冷凍庫で冷やしたグラスにビールを注ぐ。畳に寝転がり、読みかけの小説を自分の横に積み上げる。あまり小説の内容が頭に入らなかったり、縁側から台所へ通りぬける風が気持ち良くて寝てしまったり、ビールの飲みすぎでふわふわになったりした。そうして私の週末は過ぎていく。作家の名前はほとんど知らないけれど、本は好きだ。
私は”しなければならないこと”をするとすごく疲れてしまうので、何かした後は一人でぼーとしたり、ごろごろしたり、いつもしていた。冷たい水で顔を洗い眠気をとるように、私にとってそれは当たり前で必要なことなのだ。休みの前にはいろいろなものが私の中に溜まってしまう。それは学校の授業で無意味にグラウンドを延々走らされたあとの、達成感とかそういうもののまったくない疲労感に似ている。子供のころバスケットボールが好きだったのだけれど、部活というものにはいってすぐに嫌いになった。
好きだったものが“しなければならないこと”になってしまったからだ。私はそんな子供だった。
本とビールをお供に、弥生さんに何度も電話をしたが、いつも繋がらない。寝転びながら受話器を耳に当てているので、たぶん肘には畳の跡がついている。庭には相変わらず太い幹の桜の木。ちりりりりん、ちりりりりん。なにも考えずに桜の木を見ながら、呼び出し音を聞いている。瞼が目を開けることを放棄しているように眠い。なぜかとても穏やかな気持ちになった。
『正常と異常をくりかえす
行ったり来たり行ったり来たり
黒い羽を集めてつくったコートをまとい
壁に囲まれたここから出よう
私のなかにある 狂った傷跡
子供たちが歌う
白と青の友達をさそい
緑の葉が覆いつくした壁に梯子をかけ
ここから外に出る
神父が言う「どこの天使が降りてきたんだ」
私が言う「どこのバカだ」
あなたが歌う
心地良い時
黒い傘を放り投げ塀から飛び降りた
黒い羽が飛び散った』
週末しつこいほどに電話をかけたけれど、弥生さんはつかまらなかった。月曜の会社から帰ってくるといつもホッとする。火曜日、水曜日、木曜日の会社より少しだけ疲れる月曜日。週末の自分から会社にいる自分にかわるのが大変なのかもしれない。
桜の葉の隙間からのぞく月を見る。化粧おとしもそこそこに、玄米茶を飲みながら、縁側に座る。ほんの少しだけ右側が削れている月。満月になりきれない月。風が吹くと枝が揺れて、出来の悪い月を隠した。
しばらくそうしてボンヤリしていたけれど、どうも落ち着かない。いつもは月や桜を眺めると、とても穏やかな気持ちになったのに。弥生さんにお礼がしたい。週末に突然思いついた名案は、依然として私のなかで燻っている。誰かにお礼をするのは、誰かに笑いかけることの次ぐらいに素敵なこと。胸の奥のほうでパチッと音がし火の粉があがった。
弥生さんに電話して「ありがとう」と上手く言えました。となればいいのだけれど、自分の気持ちと現実がリンクしないのはよくあること。弥生さんはやっぱりというか電話にでなかった。しかし私のなかの火は、そんなことではへこたれない。ノリと勢い。折角なんで、たまに連絡を取り合う親戚のおばさんに、弥生さんのことを聞いてみることにした。
弥生さんとは違いおばさんはすぐに電話に出て、受話器からは、
「久しぶりね。あなたから電話くれたのって、はじめてじゃない」
とはしゃいだ声を聞くことができた。
親戚の恰幅の良いおばさんは人懐っこい人で、愛想の良いとはいえない私を昔から気にかけてくれていた。この家に越してきてから初めてかかってきた電話は、私の親ではなくこの人だったぐらいだ。こんなに喜んでくれるならたまに電話をするのも悪くない。跳ねるようにリズミカルな声を聞きながら私はほんのり嬉しくなった。
あなたから電話が珍しい。という話を驚きと喜び混じりにおばさんは言った。最近はどんな生活をしているの。そんな他愛もない話をけっこうな時間しゃべったあと、
「最近、連絡とってないから判らないけど、どうもまた旅行に出かけたらしいわよ。今度はどこに行っているのかしらね」
という返事が返ってきた。
残念また空振り。私は名探偵にはなれないみたいだ。
「彼氏とはうまくいってるの」突然おばさんが言った。
弥生さんの消息がつかめず、気が抜けていたのでビックリしてしまった。おばさんに省吾のこと話したことあったっけ?実際、恋愛話は私の苦手な分野。恋の話が大好きな友達の沙希には、いつも困ってしまう。そういえば最近、省吾の声を聞いていないな。そう思った。
「まあ、普通ですよ普通」
当たり障りのない返事を返し、私はその話題を誤魔化した。
「逃げたわね」おもしろそうな声。
なんだか私のまわりには、自分らしく歳を重ねた素敵な女性が多い。そんな気がする。
おばさんの「生きている」という感じの声を耳で楽しみながら、さて誰に聞いたら日記のことがわかるのだろうと私は考えていた。
『左螺旋の人
太陽をよけ 雲を渡り島につく
風が螺旋の身体を通り抜け
花びらがくるくると舞い上がる
木々が頭をたれ
草原が螺旋の身体をやさしく受け止める
やっとたどり着いた孤島
狐が休むことなくダンスを踊る
疲れ切ったら線の身体
獣の心が大地を裂く
ゆっくりと癒されるのを
見守る水たち
左螺旋の人
青の欠片を求め走る
草花の群れをくぐりぬけ
泡立つ空気を巻き取っていく
左螺旋の光を引いて
届け狐の瞳』