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 この日記を書いた人と私の、似てるところ、違うところをあげてみる。似ているのは、ふたりとも桜の木が好きなところ。違うのは、桜色した桜が好きなこの人、緑の桜の木が好きな私。そんなところ。同じところがあると嬉しくなり、違うところを新鮮に感じる。親しい友人に持つような気持ち。もっと知りたい。もっと近づきたい。恋にも似た好奇心。日記を見つけてから、いつだって、日記を書いた人への気持ちは変わらない。


 そんな想いを胸に抱えつつ、この家に住んでからもう二年がたつ。いつも社会に慣れようと頑張ってきた。そうして月日は流れていくのだと実感した。日記のことを知る機会もないまま、何時の間にか時間が通り過ぎている。少しずつスピードを上げる時間。老いるということは、こういうことなのかもしれない。


 しかし、二年も興味が薄れないのは我ながらすごい。移り気な私にとっては快挙といってもいいくらいだ。会社に入る前から続いている恋人の省吾のことも、長くて半年しか付き合ったことがなかった私には驚くべきこと。けれど、時々不安になる。慣れは興味を無くすから。

時々、「恋の期限は二年間」そんなフレーズが頭に浮かんできた。そして、焦りともつかない不安が襲ってくる。そんな自分が嫌いだった。


 この二年間、余裕を持って朝起き、最近お気に入りの大根の味噌汁をつくた。お茶をいれ、ゆっくりご飯を食べた。ちょっとしたものでも作りたてのご飯は美味しい。ゆったりとした朝が私は好きだ。戸締りをしっかりして、行かなければならないところに行く。仕事をし、友達に会い、その日をすごす。怒ったり笑ったりときどき落ち込んだり。誰もがおくる日常。毎日が同じように繰り返していった。




 初めて入った会社。社会人としての生活。忙しなく、たくさんのことを覚えなければならないなかでは、自然な自分を取り戻すのは難しい。私も社会のなかにいる間は、日記のことを考える暇はなかった。


 けれど、ちょっとした空白の時間、ふと遠くをぼんやり眺めるような、そんなときに私は日記の匂いを感じた。それは私が子供のころによく嗅いだ、草や土の匂い。田舎のお婆ちゃんが住む家。懐かしい夏休みの匂いがした。


 仕事の合間。取引先との電話を切り受話器を置いたとき。会議を終え、がやがやと部屋を出たとき。

 

 恋人と過ごす休日。会話が途切れ二人でボーとしているとき。恋人と「またね」を交わし、自分の家に帰ろうと踵を返したとき。


 慣れ親しんだ日々のなか、体から力がすっと消えるような瞬間に、その匂いが風に紛れてそっとやって来るのだ。

 

 日常に日記が入り込んでいる。私の心に遠慮することなく入ってくる。なぜだか興味を持ってしまったもの。理由は判らないけれど、なぜだか深く繋がっているような気がする。

 

 夕暮れの街は不思議だ。ビルの谷間にいると、谷底にある暖かい村にいるような感覚になる。そこでは皆が優しく笑顔が絶えない。旅人もほとんど来ない辺鄙なところだけど、誰も文句も言わず、みんな自分なりの幸せを感じている。そんな街を歩く。


 携帯で難しい話をしている、グレーの髪をなでつけた男の人。お店のショーウィンドウで、服装をチェックしている綺麗な人。弾んだ声で肩を寄せ合う恋人たち。すれちがうのは絵本のなかに迷いこんだ人々。なんだか懐かしいような、切ないような気持ちが溢れてくる。



 世界に黄色の幕をかぶせると世界中の色がノスタルジックにかわる。黄色がかかった空の青。黄色がかかった木々の緑。黄色がかかったレンガの壁の茶色。とても綺麗だと思う。

薄い雲が、オレンジ色したサックスブルーの空に溶け、消えた。



『下校の時間 あの人がそばにいる

 あの人を避けようとする僕

 それでも隣にいるあの人

 僕は視線を遠くの雲に向ける

 あの人は僕に笑いかける

 でも僕はその笑顔を見ることができない


 僕があの人から逃げようとするのはなぜなのか

 あの人が僕といっしょにいるのはなぜなのか

 嬉しいのに辛いのはなぜなのか


 なにかが僕の中にいる

 牙をむこうと爪を研ぐ

 これがなにかわらない

 ただ、とても怖いだけだ』






 残業が続いて忙しかった一週間が終わったあと、ふと弥生さんに連絡を取ろうと思った。


「二年もたって今更かな」


 そんな事も考えたが、日記のことも気になっていたし、この家のお礼をちゃんとしたかった。

弥生さんとは、この家の鍵をもらうときに初めて会った。笑顔は少なかったけれど実直そうな印象を受けたのを覚えている。三十歳をこえて益々女盛り、凛とした美人だった。その時に、弥生さんの新しい住所と電話番号を教えてもらっていた。

 

 少し弥生さんのことを話そうと思う。弥生さんは私にこの家を譲ってからすぐ、勤めていた英会話教室に休みをもらい旅行に行っていた。私がこの家に越してきてすぐに種発していたので、お礼をしようと職場を訪ねたときにはすでに出発した後だった。不在だったのですぐに帰ろうと思ったのだけれど、その教室を経営している林さんという方にお茶に誘われた。私も弥生さんのことが聞けると思ったし、渡りに船だった。


 林さんは、見方によって、上品にも豪快にも見える不思議なおばちゃん。率直に言ってそんな印象を受けた。その林さんと、近くの喫茶店入った。どうということもない普通の喫茶店だったけれど、天井からヒモでぶら下がっている木彫りのドードー鳥がいやに存在感を漂わせていた。

使い込まれた椅子に座り、オーダーしたアイスコーヒーが来ると、林さんは居住まいを正した。


「貴方みたいな若い子が、弥生ちゃんを訪ねてくるなんてすごく意外。弥生さんいますか?てあなたが言ったとき、返事するのにちょっと間があったでしょ。私、ビックリしちゃってね。弥生さん?弥生さんてあの弥生ちゃん?て頭のなかで考えちゃった。」


林さんは、私おどろきました、と体全体で表していた。感情表現の上手い人だ。


「弥生さんに誰かが訪ねていくと意外なんですか?」

「そういうわけじゃないけど、弥生ちゃんだしねぇ」

まだ納得しかねるのか、うんうん唸っていた。


「弥生さんて、いつもはどんな感じなんですか?」

この際だから、私は弥生さんのことを聞いてみることにした。

「あら知らないの?弥生ちゃんに会いきたのに?」林さんが言った。

「弥生さんを訪ねてきてあれですけど、実はあまり知らないんです。」私は正直に言った。

不信に思ったのか、林さんはこちらを見定めるように見詰めてくる。ほんのすこしの無言の時間がすぎると、

「弥生ちゃんのこと話しても、あなたならいいか」

林さんは顔をゆるめ言った。

「いいんですか?」

実際、自分でも怪しいかなと思っていた私は尋ねた。

「いいのよ。なんだかあなた弥生ちゃんに似ているし。」すごく気になる言葉。

「似ている?どのへんがですか?」私は言った。

しばらく考えたあと、良い言葉が見つかったのか、林さんは笑顔で答えた。

「そうねぇ。なんだか固くて口下手そうなところとか。嘘をつかなそうなところかしら。かなり当てずっぽうだけれどね。」

 

 その時の林さんは、まるで悪戯を思いついた子供のような顔だった。

だいぶ打ち解けた私達は、かなり長い間、話をしていた。とは言っても、林さんがほとんど喋り、私は相槌を打つだけだったけれど。

 

 弥生さんは、お茶を濁したり、含みを持った言い回しをせず、はっきり自分の意見を言う人。林さんの弥生さん評。けれど、冷たい感じではなく、ただただ実直で正直なだけなので、評判はとても良いらしい。本当に時々、とても明るい笑顔になることもあるけど、それはすぐに引っ込んでしまい、その笑顔はとてもレアなのだそうだ。


「こんなところも、あなたに似ているかもね。」意地悪な笑顔を浮かべ、林さんは言った。

そろそろ出ましょうかと林さんが言ったのは、二時間近く話し込んだ後。アイスコーヒーの氷はすっかり溶け、グラスのなかには不思議な色をした液体が残った。薄めたコーヒーがアメリカンなら、薄いアイスコーヒーはどう呼ぶんだろう。アメリカン・アイスコーヒー?それともアイス・アメリカンコーヒー?


 お会計は林さんが払ってくれた。楽しい時間のお礼なのだそうだ。喫茶店のマスターは、二時間も居座った私達を、嫌な顔ひとつせず「ありがとうございました」と送ってくれた。それだけで、すごく良い店だと思う。へんなドードー鳥はいるけれど。


 帰りの道すがら、

「だいぶ話したわね」と林さんは上品に言った。

「聞き上手ねあなた。そんなところも弥生ちゃんに似ているわ。口下手だけれどね。」からかうような笑顔で言った。

 

 口下手はよく言われるけれど、聞き上手は初めてだ。

英会話教室を訪ねた後2,3ヶ月は、何度か弥生さんに電話をしたけれど繋がらなかった。段々、私から電話をかけなくなり、結局、弥生さんからの連絡もなかった。

そうして二年がたち今に至る。




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