表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

 古い紙の匂いがする。ざらついた手触りのする深い緑の表紙、それを開くとインクのにじんだ文字を見ることができる。この家で見つけたある人の日記帳。

 外はカンカン照り。温度計は30度を越し、刺すような日差しが降り注いでいた。夏の暑さで汗ばんだ体を、窓から侵入した一陣の風が通り過ぎて行く。

 私は畳に寝転びながら、額の上にサイダーの入ったグラスを乗せ、その冷たさを味わった。

 薄いノースリーブとホットパンツでは、女としては少しはしたないかなと少しだけ思う。目の前には、木目の美しい天井板。ひとつ小さく開いた穴から、深く暗い世界を覗くことができた。

 グラスから滴る水滴が、髪の間をすうっと落ちていく。目を閉じ、鼻をひくひくとさせ、日記の匂いでいっぱいにする。私はゆっくりと息を吸い、そして息を吐いた。水滴が頬を伝う、涙のあとのように。濡れた畳が緑のシミをつくる。名残惜しくもグラスをテーブルに置き、心地よい冷たさを手放した。

 蝉の声が煩く耳に届く。短い一生を謳歌しているのか、短すぎる生を嘆いているのか。それは誰にも判らない。顔の上で日記を開く。すこし日焼けしたページをめくると、下手くそな一文字一文字がいつものように現れた。



『自分の領域がとてもせまい。

すべての事柄をすべて知っているかのように、毎日がくりかえし同じことで過ぎている。

僕の領域を広げようと心に決めても、今、僕の心はすすけた白い殻のなかでうずくまっている。

あの人に笑顔を見せたい、けれど私は顔をふせてしまう。

あの人といっしょにいたい、けれど離れようとする私がいる。

傷つけないように、傷つかないように。

僕しかいない一人ぼっちの世界。』



 私がその日記を見つけたのは桜の花が咲き始めた季節。

 物言わぬ桜の木々がおびただしい数の蕾をつけ、そのすべてが同時に、抜駆けもせずいっせいに花びらを広げるそんな頃。桜の花が咲き誇り、桜色の雲の下にいると、なんだか童話の世界の住人になったように思う。

 この頃になると、いつか花の数を数えてみたいという、よく判らない気持ちが芽生えてくる。花の一つに一人の人生。生きている人々の命が桜の花に宿り、風に飛ばされて散る花、しぶとく咲き続ける花、色々な人間模様を見せてくれる。そんな気がする。

 花が散り葉桜になると、人々は桜の木を見向きもしなくなる。皆のなかで桜の木が、ただの木になってしまうのだろう。どうでもいいけど子供の頃に、

「桜花ちり 人もちりゆく 祭りあと」

と町内の俳句の会で詠んだところ、近所のお婆ちゃんから褒められたことがあった。

 緑色の葉が茂り、桜の木がただの緑色した木になると、夏の匂いが微かにしてくる。誰も気にしない桜の季節が終わった木々。子供の頃からなぜだか私は、花びらのついていない緑の木を、「桜の木」と言っては喜んでいた。


 畳から起き上がり、台所でヤカンに火をかける。ぎしぎしと音のする木の窓を開け、タバコをとりだす。まるい火をともし、息を吸う。ヤカンから出る白い蒸気が窓の中の風景を隠す。オレンジ色の光が点滅し、乳白色の煙の渦が浮かんでいる。



『ふっと止まっていることがある。

ずっと歩いてきたのに、あるとき止まっている自分に気づく。

教室の席に座り、黒板に書かれたものを書き写す。ただそれだけを黙々とこなす。

楽しいことを考えたり、窓の外を見たり、あの人のことを思ったりしない。まるで自分がいないような時間。

生きている中でそれはほんの一瞬のことだけど、その刹那に捕まると長くゆるやかな感覚のなかで溺れるのだ。

何度ももがいて、何度も苦しむ。

くりかえし くりかえし

くりかえし くりかえし

水のなかから空をあおぎ見る。

ゆらゆら体は浮いたり沈んだり。

空気を肺にいれて水のもとに帰り、それが泡と消えたら空のした。

くりかえしじらされ昇っていく。』

 


 私は古い家に住んでいる。

 生まれてからほとんど面識のない、叔母である弥生さんから、なぜだか就職のお祝いとしてこの家を譲り受けた。母の妹とはいえ、贈り物が家、親戚一同もちろん私も驚いていた。

 弥生さんからこの家を渡される時、私だけでなく父や母も、嬉しいような申し訳ないような不思議な気持ちでいっぱいだった。ただ弥生さんだけが、至極当前とゆるやかに佇んでいた。


 大学を出てから私は、しばらく職につかず、だらだらと過ごしていた。普通に喫茶店で働いたり、陶芸教室に通ったり、少し味見をしては次のもの。そんな落ち着きのない生活をしていた。こういうのをモラトリアムとでも言うのだろうか。安定はないけど刺激はそこそこ。社会人でも学生でもない微妙な自分。小さいながらもたくさんの出来事に巻き込まれ、そこで出会った人たちに、私は優しくされたり騙されたりした。

 そんな生活が一年ばかり続いたあと、あまり大きくない会社に就職した。なんとはなしに働こうと思ったのだ。食品を扱う会社で、一人身には十分な給料が出るので文句はない。会社の人たちともまあまあ上手く付き合い、勤めてもう二年になる。

 この家は会社から近いし、とても満足している。しかし、なぜ弥生さんはこの家を私に贈ろうとしたのだろうか。近いから、それだけで贈り物に家はないだろうに。今でもその答えは出ない。この古い家に住み始めてからも、やはり弥生さんとの関わりはまるでないのだ。

 この家はとても小さく、またとても狭い―私はこの古く小さな家には相応(ふさわ)しいと思うのだが―ささやかな庭がある。そして、ひとつの桜の木がそこ居座っている。その幹はいやに太く立派だ。あまりに育ち過ぎたために、ささやか庭ではその木のまわりを歩くのも大変なくらいだ。まるで身体だけは大きく育った頭の悪いバカな子供のようだ。 

この古い家で私は日記を見つけた。見ようによっては、古くも、また新しくも見える日記を。


 タバコの煙の余韻が残る台所から、歪んだ窓のなかの桜を見る。小さな庭の大きな桜の木は、古い家を侵食するかのように広がり、木の枝が木の壁に触れ、家のなかに入ろうとずうずうしくも優しく家を覆っている。



『あの人が誰かとしゃべってる

あの人が誰かに笑ってる

いろんなちっちゃいことまできになって

ぼくはとても暗くなる

そんな自分がいやで

すぐにいらいらしてしまう

 

きにしちゃだめ

きにしちゃだめ

こんなぼくは、ぼくが思てるボクじゃないよ

ぜんぜんちがうんだ

だからこころの裁判官は―だめですよ―って 

ずっと言てる小さな声で

心のなかでぼくをいじめてる

ちくちくちくちく


けど ほんとにそうかなぁ?

あの人がきになったらダメかなぁ?

おもっちゃいけない気持ちってなんだろう?

きっとぼくが、ボクってこう!ってかってに思ってるだけなんだ


ボクはいちまいだけじゃない

なんまいもページがあって ページが集まって とじられる

ぼくは一冊の本

あの人が気になるボク

あの人を思って悲しくなるボク

そんなことを考えているボク

夢をみるボク


みんなボク

ひとりのボク』




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ