↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

透明なガラスの向こうで、僕は王様だった

作者: 沢沢
掲載日:2026/09/07

チャイムが鳴る。午後四時の退屈な教室は、斜陽に染まり、埃のダンスフロアと化していた。 「……したがって、この場合の二次方程式の解は――」 数学教師の声は、山下達郎の耳には遠い海の底のざわめきのように響く。達郎は教科書の陰に顔を半ば隠し、うつらうつらとまどろみの中に沈み込んでいく。 寝ているわけではない。彼の脳内は今、世界で最も忙しい劇場だった。 (勉強なんてしなくたっていい。いざとなれば、俺にはいくらでも道がある) それが達郎の口癖だった。教科書の白い余白に、彼は頭の中で次々と「逃げ道」の看板を並べていく。

一瞬のひらめきで、旅人になる。灼熱のサハラ砂漠を揺らす乾いた熱風が肌を焦がし、見渡す限りの黄金色の砂丘をラクダの背に揺られて進む。コンパスの針が指す未知の地平線こそが彼の故郷だ。 あるいは、誰にも縛られない職人。小さな薄暗い工房の隅で、古い時計の緻密な歯車をピンセットで摘まう。カチ、カチと静寂を刻む金属音だけが世界を支配し、時間の流れさえも自分の指先一つで統制されている。

脳内では、彼はいつだって何者かであり、あらゆる可能性の勝者だった。 コンパスを握る指先には灼熱の風が吹き抜け、ピンセットの先では精巧な歯車が完璧なリズムで時を刻む。その快楽は麻薬のように甘美で、脳髄を痺れさせた。これほどの才能と可能性を秘めている自分が、わざわざ泥臭い受験勉強や、汗水垂らす労働に手をつける理由など見当たらなかった。 「まあ、何とかなるさ」 そう呟くうちに、季節は巡った。

窓の外の桜が散り、青々とした葉が茂り、やがて冷たい冬の乾いた風がアスファルトを叩くようになった頃、教室の空気は目に見えてピリつき始めていた。 「おい、お前、推薦どこ出す?」 「やばい、赤点回避しねぇと卒業やばいって……」 周囲のクラスメイトたちが発する切実な声は、達郎の耳にはまるで意味を持たない外国語のノイズのように響いていた。友人の佐藤は夜遅くまで自習室にこもり、クラスで一番静かだった女子の鈴木さえも、東京の私大への切符を泥臭く掴み取っている。誰もが「選ぶ」ことの痛みを引き受け、未来という名のレールに必死に足を乗せている。 その圧倒的な熱気と現実の回路から、達郎だけが完全に切断され、透明なガラスの向こう側に置き去りにされていた。

現実の彼は、何の特技もなく、学年でも底辺の成績で、ただ机に突っ伏して時間を潰しているだけの十七歳の無名な高校生にすぎなかった。脳内でどれだけ世界を救おうとも、手元に残ったものは一銭の価値もない空疎な妄想だけだ。 いよいよ進路調査票の提出期限前日。担任の教師が冷ややかな目で達郎の机に歩み寄る。 「山下、お前、本当に何も考えてないのか? このままだと、卒業すら危ういぞ」 「……まあ、いざとなればさ」 達郎は乾いた唇でそう呟いたが、その声は空疎に震えていた。周囲の足音が大きくなるにつれて、彼の頭の中の「逃げ道」は、音を立てて色褪せていく。 就職? いや、組織の歯車になって上司に頭を下げるなどごめんだ。 フリーター? 労働の対価として自由を切り売りするなんて、プライドが許さない。 ――いや、違う。本当は、ただ頭を下げたくないし、汗をかいて働くのが死ぬほど面倒くさいだけだ。プライドなどという立派な看板は、自分の怠惰を正当化するための安っぽい言い訳にすぎなかったことに、彼はうすうす気づき始めていた。 一つひとつ、脳内に並べた職業の看板が、冷たい現実の風に吹き飛ばされていく。 努力をせず、選ぶことから逃げ続けた果てに待っていたのは、無限の可能性ではなく、「どこへも行けない」という絶対的な行き止まりだった。

卒業式を三日後に控えた、誰もいない放課後。 西日が傾きかけた教室の窓際に、達郎は一人で立っていた。曇ったガラスに、震える指で「逃げ道」と書く。だが、そこにはもう砂漠も工房も映らない。ただ、冷え切った夕闇と、明日から社会に放り出される無力な自分の姿が映るだけだった。

「……くそっ」

ポケットからクシャクシャの求人票を引っ張り出し、達郎はそれを手のひらに強く、強く握りしめた。紙のざらついた繊維が指の腹に食い込み、これまでにない生々しい痛みが神経を叩く。それは空想ではない、紛うことなき現実の重みだった。 脳内のサハラ砂漠も、静寂な工房も、もうどこにもない。 彼は痛む手で求人票を握りしめたまま、夕闇に沈む校門へと歩き出す。そこにあるのは、明日から始まる満員電車の息苦しさと、自分の汗のにおい、そして泥水を這いずるための確かな一歩だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。