砂漠の井戸 〜ある迷子の話〜
砂は、正直だと思う。
誤魔化しがない。水も木もない。慈悲もない。そのくせ、夜になると星だけは惜しみなく与えてくれる。カリムはいつもそう思っていた。けれど今この瞬間は、そんな詩的な感慨を持つ余裕などなかった。
砂嵐だった。
視界は白濁し、風は咆哮し、どこが東でどこが西かもわからない。カリムは片腕でサーミルの胴を抱え、ほとんど引きずるようにして歩いていた。サーミルは意識が朦朧としており、足がまともに動かない。白いローブはとうに砂色に染まっていた。
どこかに、人がいる。
砂漠の真ん中に人などいるはずがない。だがカリムは確かに感じていた。遠く、熱の向こうに、人の気配を。それだけを信じて歩いた。
腕が何かに当たった。
固い。滑らかだ。手で触れると、石か、コンクリートか、壁だった。砂漠の真ん中に、壁があった。
意味がわからなかった。だが今は考えている場合ではない。カリムは拳で壁を叩いた。
「誰かいるなら助けてくれ!」
砂嵐が声を食った。返事はない。また叩く。また叩く。
肩をトントンと叩かれた。
振り返ると、白いジュラバを身にまとった人影が立っていた。砂漠の砂が視界を荒らす中、その人物はスカーフで顔を覆い、静かに、ただ静かに、指を指していた。壁に沿って、右へ。
カリムはサーミルを抱えたまま、その背中に続いた。
壁に一人分の扉があった。
ジュラバの人物が戸を押すと、軋んだ音もなく開いた。中に踏み込んだ瞬間、カリムは目を疑った。
緑だった。
草の匂い。土の匂い。遠くで鳥が鳴いている。空が、青かった。砂嵐は壁の外に置いてきたかのように、ここには風もなく、砂もなく、ただ静かな午後の光だけがあった。バオバブの木が列をなして立ち、その根元に白い花が咲いていた。
なんだ、ここは。
呆然としているカリムのそばに、車輪の音がした。男が救護用のカートを押して駆けてくる。彼は一言も聞かずにサーミルを乗せると、迷いなく走り去った。続いて車椅子が来て、カリムは自分が座るよう促された。
ジュラバの人物がスカーフをはずした。
アジア人の女性だった。四十代くらいだろうか。目が細く、どこかぼんやりとした表情をしている。美人というより、なんというか、不思議な顔をしていた。笑っているのか眠いのか、判断がつかない。
「大丈夫ですか」
日本語だった。それからアラビア語に切り替えた。
「お友達は救護室に運びました。心配いりませんよ。まず、風呂に入って」
「あなたは何者です」
「ここの持ち主です」
それだけ言うと、彼女はまたぼんやりした顔に戻り、バオバブの方へ歩いていった。
大浴場は想像の十倍広かった。
脱衣場で服を脱ぎ、扉を開けると白いタイルの浴場が広がっていた。中央に浅い水風呂があり、その縁にサーミルが仰向けで横たわっていた。白い腹を上にして、石みたいに動かない。
「サーミル!」
急いで近づき肩を揺さぶっても、返事がない。だが胸が動いている。眠っているだけだ。カリムは隣に仰向けに浸かった。冷たい水が身体を包む。あまりにも気持ちよくて、そのまま意識が落ちた。
気づいたら救護室のベッドに寝ていた。
清潔な天井。冷えた空気。カリムはしばらくぼんやりとして、ハッとして隣を見た。サーミルが寝ていた。胸が動いていた。それだけで充分だった。
身体を起こして窓に近づき、カーテンを開けると、また、緑だった。夕暮れの光の中に畑があり、遠くに貯水池が光っていた。
「まだ動けるような状態じゃないのに、よく動けるな」
無精髭の中年男が白衣を着て入ってきた。医師らしい。覇気がない。が、目は確かだった。
「ここはどこですか」
「名もない砂漠の町だ」
「名もない?」
「持ち主がつけていないんだ。まあ、そういう人だから」
医師は肩をすくめて衛星通信端末を渡した。カリムは王宮へ連絡を入れた。嵐が止むまで迎えが来られないと知り、しばらくここに滞在することになった。
二日後、サーミルが目を覚ました。
最初に言った言葉は「腹が減った」だった。カリムは笑った。久しぶりに笑った気がした。
食堂に連れていくと、アラブの女性たちが大皿料理を運んできた。クスクスと羊の煮込み、焼きたてのパン、蜂蜜、果物。砂漠のど真ん中にいることを忘れるような食卓だった。
外を見学する気力が戻ってくると、この町の不思議さがより鮮明になった。舗装された道。走る車。街灯の柱。子供たちがバオバブの木の下で遊び、学校から戻ってきた子が食堂に駆け込んでくる。貯水池では誰かが泳いでいた。
「信じられない」
サーミルが呟いた。
「あの女性が、一人で作ったのか」
「らしい」
カリムは枯山水の庭を眺めていた。二階の窓の下、誰かが丁寧に砂を熊手で掻いている。石が一つ、また一つ。それだけの庭だった。だが、なぜかしばらく目が離せなかった。
「シャイフはどこだ」
近くを通りかかったトーブの男に聞いた。彼は少し考えてから、下を指さした。
「窓の下で石を並べているのが見えますか。あれがシャイフです」
カリムはもう一度、窓の下を見た。あのぼんやりした女性が、膝をついて砂を均していた。誰かに呼びかけられても、ふらりと立ち上がって手を振るだけで、またすぐしゃがんで石を直している。
砂漠の王が枯山水を作っていた。
嵐が止む前夜、カリムは補佐の男を捕まえて聞いた。
「あなたの主人は、なぜここを作った」
黒髪の男ナーイブは、少し考えてから答えた。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだ、と聞いたことがある。彼女はその井戸を、自分で掘ってみたかったのだと思います」
「では、この町が彼女の井戸か」
「さあ。本人に聞いてみては」
ナーイブは涼しい顔で去っていった。カリムは翌朝、荷物をまとめながら窓から外を見た。夜明けの光の中でバオバブが影を作り、貯水池が白く光っていた。子供が一人、早起きして池の縁を走っている。
迎えが来るまであと数時間ある。カリムは部屋を出た。
* * *
女性は朝の枯山水の前にいた。スコップを持って石の位置を直している。カリムが声をかけると、ぼんやりした顔で振り返った。
カリムは礼を言った。命を救ってくれたこと、食事を与えてくれたこと、この町のことを。女性は「どうも」とだけ言って、また石に向き直った。
カリムはもう一度聞いた。
「この町に、名前をつけないのですか」
しばらく沈黙があった。女性は砂の上に置いた石を指先でそっと動かしてから、こう言った。
「砂漠の真ん中だから、どこでもないし、どこでもある。名前をつけたら、ここだけになってしまうでしょう」
カリムには、よくわからなかった。
だが、その答えが妙に頭から離れなかった。砂漠を越え、王宮に戻り、月が変わり、季節が変わっても名もないあの町のことを、時々思い出した。バオバブの影と、枯山水と、ぼんやりした顔の女性と。
砂漠はどこかに井戸を隠している。
彼女はその一つだった。




