第九話:灰色の奇跡と、若き主(あるじ)の背中
私、アッシュランドの村長は、震える手で新しい領主邸のバルコニーの欄干を触っていた。
かつて泥と灰で汚れていた指先は、今、白く滑らかな新素材の石壁に触れている。
「村長さん、景色はどうだい? ここからなら、村の隅々まで目が届くよ」
背後から声をかけてきたのは、私たちの救世主、アルス様だ。
傍らには、常に鋭い視線で周囲を払う護衛のロイ様と、完璧な所作で茶を淹れるメイドのリィナ様。そして、最近ではアルス様の秘書見習いのように、分厚い書類を抱えて歩く村の少女・ミーナが控えている。
「……恐ろしいほどです、アルス様。わずか数ヶ月で、この死に地がこれほどまでに……」
眼下には、見渡す限りの緑が広がっていた。
アルス様が修復した古文書の知識により、火山灰は特殊な中和剤で「最高の肥料」へと変えられた。今や、王都の高級品にも劣らない『灰金麦』が、力強く穂を伸ばしている。
「食糧の自給は第一歩だ。だが、村長。これからは『売るもの』が必要になる」
アルス様が示したのは、村の工房で試作されている『耐火ガラス』と、火山灰を釉薬に使った美しい『灰釉陶器』だった。これらはこの土地の「灰」を逆手に取った、唯一無二の特産品だ。
「これらは、外の世界へ出す際には『別の場所の産品』として偽装して売る。リィナ、手配は?」
「はい、アルス様。エレナ辺境伯夫人との秘められたルートを通じ、産地を伏せて王都の富裕層へ流します」
リィナ様が不敵に微笑む。
そう、アルス様は驚くほど慎重だった。
この豊かさが実家のレトヴィス家に知れれば、間違いなく略奪に来る。そのため、村の周囲には「迷いの霧」を発生させる古代の術式を修復して設置し、外部の人間が安易に近づけないよう「情報規制」を徹底していた。
「ロイ、防衛の方はどうだ?」
「はっ。村の若者たちに、古文書から復元した『集団連携戦技』を叩き込んでいます。また、村の入り口には修復済みの『自動警備魔像』を三体、地中に埋設しました。有事の際は一瞬で排除可能です」
ロイ様が淡々と報告する。その訓練の厳しさは村の男たちが悲鳴を上げるほどだが、皆、守るべき家族と食糧があるからこそ、必死についていっている。
「アルス様! 次の会議の資料、修復が終わりました!」
ミーナが元気よく駆け寄ってくる。アルス様は彼女の頭を優しく撫でると、少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう、ミーナ。……村長、私はこの場所を『見捨てられた土地』のままにしておきたい。少なくとも、私が十分に力を蓄えるまではね」
アルス様の瞳は、遠い王都……自分を捨てた実家の方角を見据えていた。
かつて「ゴミ拾い」と嘲笑われた少年は、今やこの荒野に、誰も知らない「難攻不落の理想郷」を築き上げている。
「村長さん、これからも力を貸してくれ。ここは、僕たち全員の家なんだから」
その言葉に、私は深く頭を下げた。
このお方のためなら、この命、灰になっても構わない。
村人全員が、今、同じ思いでこの若き主を仰ぎ見ていた。




