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第十六話:止まった時計と、再会の旋律

霧が生き物のように左右に分かれ、その先に広がる光景を前に、エドワードは抜いた剣を鞘に戻すことすら忘れて立ち尽くしていました。

死の灰が降り積もる絶望の地だと聞かされていた場所には、王都のそれよりも瑞々しく輝く緑の草原と、穏やかに回る水車、そして石造りの端正な領主邸が鎮座していました。

その白亜の館の門前。

かつて物置小屋の隅で震えていた、あの小さく細かった弟が、今、一国の主のような気品を纏って立っていました。

「……エドワード兄さん。久しぶりだね」

 アルスの声は、記憶にあるよりも少し低く、けれど当時のままの澄んだ響きを持っていました。

 エドワードの脳裏に、遠い日の記憶が蘇ります。

 母を亡くし、誰からも無視されていたアルス。エドワードは、父やカイルの目を盗んで、自分が食べきれなかった振りをし、包み隠したパンをアルスの小屋へ届けたことがありました。

『アルス、これ……冷めてるけど、食べて』

『……ありがとう、エドワード兄さん。お兄さんの剣、いつか世界一になるよ。僕、本で読んだんだ。心優しい騎士が、最後に勝つんだって』

 泥だらけの顔で笑った弟。あの時、エドワードは「お前を守る」と誓いながら、結局は家格と力に溺れる家族を止めることができませんでした。

「……アルス。お前、本当に……お前なのか?」

 エドワードはふらつく足取りで一歩、また一歩と近づきます。

 背後に控えるサバスが鋭い視線を向け、ロイが剣の柄に手をかけましたが、アルスが静かに手で制しました。

「見ての通りだよ。……兄さんが知っている、レトヴィスの『ゴミ拾い』はもういない。ここは僕の領地、アッシュランド。僕が『修復』した、僕たちの居場所だ」

 アルスの瞳には、恨みも怒りもありませんでした。ただ、湖のように静かで、深い意志が宿っているだけ。それが、エドワードには何よりも眩しく、そして切なく感じられました。

「バロウたちの記憶を弄ったのも……この、信じられないほど豊かな景色も……全部、お前の仕業なのか」

「仕業、なんて人聞きが悪いな。僕はただ、捨てられた情報の欠片を繋ぎ合わせて、あるべき姿に戻しただけだよ。……母様が、いつか見たがっていた景色にね」

 アルスが指差した先には、母・マイが好きだったという青い小花が、風に揺れて咲き乱れていました。

 エドワードの目から、一筋の涙がこぼれ落ちました。

 最強の『剣聖』として、家族の期待という重圧に押し潰されそうになりながら生きてきた彼にとって、この領地の穏やかな空気は、あまりにも優しすぎたのです。

「……アルス、僕は……父上から、お前を『殺してでも連れ戻せ』と命じられて来た」

 その言葉に、ロイの殺気が跳ね上がりましたが、アルスは動じませんでした。

「わかってるよ。兄さんが僕を斬れないこともね」

 アルスは一歩歩み寄り、エドワードの震える手にそっと触れました。

「お兄さん、剣を収めて。……今日は『剣聖』としてじゃなく、僕のたった一人の『お兄ちゃん』として、この領地の美味しいパンを食べていかないかい?」

 その温かな言葉に、エドワードの張り詰めていた糸が、ぷつりと切れました。

 彼はその場に膝をつき、声を殺して泣きました。

 灰色の空の下。

 止まっていた二人の時間は、情報の力で蘇った楽園の中で、静かに、しかし力強く動き始めました。

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