第23話:喝采の裏側と、堕ちゆく過去の亡霊
闘技場の分厚い石壁が、未だに数万人の観衆が発する狂騒の余韻で、ビリビリと微かな震えを保ち続けていた。
極度の緊張と熱狂から解放され、薄暗い控室のソファーに倒れ込んだ僕たちの体は、泥のように重かった。
僕の肉体は、魔力コーティングを解いた今もなお、悲鳴を上げ続けている。極限まで圧縮した運動エネルギーを制御していた右腕の血管は青黒く浮き上がり、指先からはまだ焼け焦げた魔鉄の匂いが漂っていた。
一歩間違えれば、機兵ではなく僕の肉体が粉々に弾け飛んでいたギリギリの死線。
だが、そのヒリつくような痛覚すらも、今はただ僕たちが『生き残った』という確かな証明として心地よかった。
「……ふふっ。迷宮の主を倒した時の話もすごいと思ったけど、実際に見たら凄まじいね…」
呆れたような、それでいて底抜けに嬉しそうな声。
控室の重い木扉を開けて入ってきたのは、銀色の髪を揺らすシルヴィアさんだった。彼女の背後には、顔面を蒼白に引き攣らせたギルドの試験官たちが、まるで本物の化け物でも見るかのように、恐る恐る付き従っている。
「シルヴィアさん! 見ててくれましたか!」
「うん、特等席でね。ルナちゃんの神眼も、アイリスちゃんの完璧な受け流しも、本当に見事だった。そしてアッシュ君、本当にすごいね、何かあったら私が出ようかと思ってたけどそんな事考える暇もなかったよ」
シルヴィアさんはそう言うと、試験官から受け取った銀色のプレートを三枚、僕たちの手のひらにそっと乗せた。
「本来はギルドマスターからなんだけど、私が無理言ってこれは私から」
それは、王都の最高技術で偽造防止の精緻な魔法陣が刻まれた、ずっしりと重い本物の『Aランク冒険者』の認識票だった。表面には、僕たち三人の名前が誇らしげに刻印されている。
「これで君たちも、名実ともに王国最高峰の冒険者だよ。……本当におめでとう、三人とも」
「あ、ああ〜っ! 本物だぁ! アッシュ、アイリス、私たち本当にAランクになっちゃったよぉぉっ!」
「はい……! アッシュ君の戦術を信じて、ここまで生きてきて本当によかったです……っ」
ルナが銀色のプレートを頬に擦り寄せて歓喜の涙を流し、アイリスが感極まったように僕の痛む腕を優しく、けれどギュッと抱きしめる。
僕も手のひらの中にある冷たい金属の感触を確かめながら、静かに息を吐き出した。
迷宮の底でゴミのように捨てられた、あの日。ただ生き延びるためだけに、必死に計算し、足掻き、泥水をすすってきた。そのすべてが、この一枚の冷たい金属に報われたような気がした。
「……ありがとうございます、シルヴィアさん。ようやく、あなたの隣に立つ権利くらいは手に入れました」
「ふふっ。隣に立つにはもう少し鍛えてもらおうかな?さあ、今日は私のおごりで、王都で一番高いレストランで祝勝会をしよう!」
シルヴィアさんの軽口と明るい声に、ルナとアイリスが「わああっ!」と歓声を上げる。
僕たちは泥だらけの装備を軽く払い、彼女の先導で闘技場の関係者用出口へと向かった。
――その時だった。
「お待ちください! 閣下、どうかお待ちください! 俺は騙されたんです! あんな化け物じみた一撃、普通の人間ができるはずがない! あいつらは何か、違法な魔導具を使ったに決まっている!」
「ええい、離せこの恥知らずが! 私の最高級のローブに、その泥だらけの汚い手で触れるな!」
薄暗い通路を抜け、貴族専用の豪奢な馬車が停められた裏口の近くに差し掛かった時。ひどく耳障りで、醜い諍いの声が響いていた。
僕は足を止め、冷ややかな視線をそちらに向ける。
そこにいたのは、金糸の刺繍が施された純白のマントを無惨に泥水で汚し、初老の貴族――昨日、大通りで自慢していた『ヴァレリウス侯爵』の足元にすがりついている、レオンの無様な姿だった。
「貴様が『ただの平民の詐欺師だ。闘技場で簡単に処刑できる』と言うから、私は他の貴族たちの手前、大金を積んであの防衛機兵を裏から手配してやったのだぞ! だが結果はどうだ! 奴らは国宝級の機兵を一撃で粉砕し、今や王都中が熱狂する英雄として祭り上げられた! 貴様のくだらん嫉妬のせいで、私の顔に泥を塗ったのだ!」
「ち、違います閣下! もう一度、もう一度だけチャンスを! 今度は俺が直接、奴らを八つ裂きにして――」
「黙れ! 迷宮での実戦から逃げ回り、見栄えの良い鎧を着て酒場で女を侍らせていただけの腑抜けが、あの化け物じみた子供たちに勝てるわけがなかろう! 貴様は今日限りでお払い箱だ! 二度と私の前にその薄汚い顔を見せるな!」
ドゴッ、と。
侯爵の護衛の分厚い鉄靴が、すがりつくレオンの鳩尾を容赦なく蹴り上げた。
胃液を吐き出しながら冷たい石畳を無様に転がるレオンを残し、侯爵を乗せた豪華な馬車は、冷酷な車輪の音を響かせて夕闇の中へと走り去っていく。
「……自業自得だね。他人の権威に縋って威張っていた人間の、当然の末路だ」
ルナがゴミでも見るような冷ややかな目で、石畳を這いつくばるレオンを一瞥する。
僕も全く同感だった。迷宮という絶対的な物理法則と死の危険が支配する空間では、見栄や虚飾など一切通用しない。自ら『戦場』に立つことを放棄し、他人の力という不安定な足場に立っていれば、その足場が崩れた時に落ちるのは必然だ。
今の彼には、もう僕に対する脅威など微塵もない。ただの空っぽな的ですらない、道端の石ころと同じだった。
「……行こう、アッシュ君。あんな男に構っている時間はもったいないよ。美味しいお肉が待ってるんだから」
「ああ。そうだね」
アイリスに袖を引かれ、僕は一度も振り返ることなく、むせ返るような生ゴミの匂いが漂う裏路地から、眩しい夕焼けが差す大通りへと歩き出した。
僕の視界にはもう、過去の亡霊の姿は映っていなかった。
* * *
「……あ、あぁ……。なんで、こんな……俺は、誰よりも選ばれた勇者なのに……」
闘技場の裏路地。
生ゴミと下水の腐臭が漂う薄暗い石畳の上で、レオンは自らの胃液と泥に塗れながら、うわ言のように呟いていた。
ひどく痛む腹を抱え、泥だらけになった特注の純白のマントを震える手で握りしめる。指先からは血が滲み、丁寧に整えられていた金髪は見る影もなく乱れていた。
すべてが、完全に狂ってしまった。
辺境の迷宮都市では、誰もが自分の華麗な剣術と端正な顔立ちを称賛し、Aランクへの昇格も時間の問題だと持て囃してくれていた。あんな魔力ゼロの欠陥品など追放して、愛想の良い有能な魔法使いでも入れれば、すぐにでも迷宮の深層を制覇できるはずだったのだ。
だが、現実はあまりにも残酷だった。
アッシュという『戦術の要』を失ったレオンのパーティーは、迷宮の奥層で途端に通用しなくなったのだ。
自分達の快進撃の全てがアッシュの支援によるものだと気づいた時には、全てが遅かった。
レオンの剣は敵に空を切り、仲間たちは次々と重傷を負い、彼を見る目は称賛から『失望』へと変わっていった。
プライドだけが異常に高いレオンは、その事実を絶対に認めることができなかった。自分は天才だ。悪いのは環境だ。そう自分に言い聞かせ、見栄えの良さだけを武器に、実戦のない王都の貴族派閥へと逃げ込んだのだ。
これでいいはずだった。泥水すするような命がけの戦闘など、下層の冒険者にやらせておけばいい。自分は侯爵のお抱え剣士として、華やかな王都で美酒を飲んでいればいい。
そう、思っていたのに。
『……自業自得だね。他人の権威に縋って威張っていた人間の、当然の末路だ』
先ほど、路地裏を通り過ぎていったあの小娘の冷ややかな目。
そして何より、自分を一瞥もせず、まるで道端の汚い石ころを避けるように歩き去っていったアッシュの、あの無関心な横顔。
「ふざけるな……! 欠陥品の分際で……俺を見下すなァァッ!!」
レオンは冷たい石畳に何度も何度も拳を叩きつけ、血が滲むほど唇を噛み破った。
嫉妬と屈辱で、内臓がドロドロに煮えくり返るように熱い。殺してやる。あいつらが今日手に入れた名声も、隣で笑っていた目障りなSランクの女も、すべてを奪って、あの欠陥品の頭を完全に踏み潰してやる。
「――ほう。ひどく良い眼になったではないか。底辺のネズミにしては、だがな」
不意に、路地裏の奥から底冷えするような声が響いた。
ビクッと肩を震わせて顔を上げると、そこには走り去ったはずの馬車から降り立った、ヴァレリウス侯爵の側近の男が、影と同化するように立っていた。
「な、なんだお前は……! 閣下は俺を切り捨てたはずじゃ……」
「ああ、閣下は無能なお前を完全に見限られた。あんな化け物じみた子供たちを敵に回すのは、貴族派閥にとっても面白くないからな。……だが、あの目障りな平民のガキどもが、王都の裏路地で『不幸な事故』で死ぬのであれば、閣下も大層お喜びになるだろう」
側近の男は、口元を三日月のように歪めながら、懐から黒いビロードの小箱を取り出し、這いつくばるレオンの目の前に無造作に放り投げた。
カラン、と石畳に落ちて箱が開く。
中に入っていたのは、ドス黒い赤色に濁った、禍々しい金属の首輪――古代の装身具だった。
ただそこにあるだけで、周囲の空気が急速に凍りつき、心臓を直接鷲掴みにされるような強烈で悍ましい魔力の波動が漏れ出している。
「それは古代の地下遺跡から発掘された禁断の呪具、『狂王の枷』。着用者の自我と生命力を代償に、全身の魔力回路を強制的に暴走させ、一時的に『Sランク相当』の破壊力を引き出す代物だ」
「なっ……!?」
「選べ、レオン。このまま泥水をすすって一生惨めに生きて行くのか。それとも、その呪具を使って、貴様をコケにしたあの子供たちに一矢報いるか。……貴様のそのちっぽけなプライド、守る価値があるのはどちらだ?」
側近の男の言葉は、悪魔の囁きのように甘く、そして残酷だった。
--危険すぎる、と。
目の前の首輪を見て本能が激しく警鐘を鳴らす。
だが、レオンの脳裏には、闘技場の中央で圧倒的な一撃を放ち、数万の観衆から称賛を浴びていたアッシュの姿が焼き付いて離れなかった。
(俺は……俺は誰よりも選ばれた天才だ! あの欠陥品に負けたまま、這いつくばって生きるくらいなら……っ!!)
レオンの瞳から、理性という名の光が完全に消え失せた。
彼は血の滲んだ震える手を伸ばし、ドス黒く脈打つその首輪をひったくるように掴み取ると、躊躇うことなく自身の首へと押し当てた。
ガキンッ!!
呪具が自動で首に巻き付き、鋭い金属の棘がレオンの頸動脈へと深く食い込む。
「ガァァァァァァァァァァッッ!!? あ、アアァァッ!!」
レオンの口から、人間のものとは思えない、獣のようなけたたましい絶叫が路地裏に轟いた。
全身の血管が黒く膨れ上がり、白目が濁った赤に染まる。彼の肉体から、周囲の石畳をヒビ割れさせるほどの、異常で暴力的な魔力の嵐が吹き荒れ始めた。
「ククク……素晴らしい。さあ、行け。あの小賢しいガキどもを、その力で肉片一つ残さず消し炭にしてこい」
まあ、と暗闇に消える前に男はつぶやく。
「数時間後には脳髄が焼き切れて死ぬか、理性を失った肉人形になるがな…」
レオン――いや、かつてレオンだった異形の怪物にはその言葉はもう聞こえない。理性の一切ない濁った瞳で夜の王都を見据え、獣のような咆哮を上げた。
彼が向かう先はただ一つ。
自分を絶望の底に突き落とした、あの憎き欠陥品の首だけだった。




