第15話:十秒の限界と、零距離の黒鉄
(……残り、十秒)
極限まで加速した思考の海の中で、僕はひどく冷徹に、自身の肉体の『生存限界』を弾き出していた。
自身の体内だけで完結させる、魔力の超高速循環。その『常時コーティング』によって肉体の崩壊をギリギリで押し留めているとはいえ、致死量の運動エネルギーが体内を暴走し続ける苦痛は、とうてい正気の沙汰ではなかった。
全身の血液が沸騰し、毛穴という毛穴から赤い蒸気が絶え間なく噴き出す。
超加速を生み出すたびに、耐えられない足や腕の筋肉の繊維がブチブチと悲鳴を上げて千切れ、それを即座に貯蔵庫から送り込んだ魔力で強引に繋ぎ止める。崩壊までの時間を稼ぐ、狂気的な戦闘法。
脳髄を直接すり下ろされるような激痛が、視界をチカチカと赤黒く点滅させていた。
十秒。
それが、僕の限界だった。
これ以上この『強制引き上げ(オーバークロック)』を維持すれば、魔力による修復速度が物理的な破壊速度に追いつかなくなり、僕の肉体は文字通り、内側から弾け飛んで四散する。そんな予感がした。
「グルルルルルルゥゥゥ……ガァァァァァァァァァッ!!」
壁際の深くえぐれた土煙の中から、広間の空気を震わせる怨嗟の咆哮が響き渡った。
迷宮の暴君。
僕の渾身の超音速の一撃を受け、絶対に砕けないはずの古代鉱石の装甲を腹部から陥没させながらも、そのAランクの生命力は未だ尽きてはいなかった。
口から緑色の体液を滝のように流し、ひび割れた装甲から異常な魔力の光を漏らしながら、手負いの獣は理性を完全に失った怒りとともに飛び出してきた。
四メートルを超える巨体が、先ほどよりもさらに暴力的な速度で突進してくる。
両腕の巨大な鋼の爪が、僕を四つ裂きにせんと大気を切り裂いた。
(……残り、八秒)
僕は痛みに軋む両足に運動エネルギーを集中させ、石畳を蹴った。
視界がブレるほどの超加速。
暴君の右の爪が、僕の鼻先数ミリの空間を薙ぎ払っていく。鋭い風圧だけで頬の肉が切り裂かれ、血が飛ぶ。だが、当たらない。
今の僕の反射神経と動体視力は、Aランクの魔獣の動きすらも完全に凌駕している。
「グガァッ!?」
空を切った暴君の懐へ、僕はすでに潜り込んでいた。
狙うは一つ。先ほどの拳でひび割れさせた、腹部の装甲の中心。あの分厚い古代鉱石の奥深くに、魔獣の生命線である魔石があるはずだ。
(……残り、七秒!)
「そこだッ!!」
僕は左拳に運動エネルギーを集約し、暴君の脇腹のひび割れへと強烈なボディブローを叩き込んだ。
ゴガンッ!! という、巨大な鐘を殴りつけたような鈍い音が響き、四メートルの巨体が真横にくの字に曲がる。
続けて、右、左、右。
超音速の連撃を、同じ箇所に正確に叩き込み続ける。
メキメキと古代鉱石の装甲が砕ける音がする。だが、倒れない。やはり生半可な打撃(面への衝撃)では、数百年かけて分厚く堆積した装甲の奥深くまでは、決定的な破壊力が届ききらないのだ。
その証拠に、暴君は苦悶の声を上げながらも、強靭な左腕を丸太のように振り回し、死角から僕の頭部を薙ぎ払いにきた。
(……残り、五秒!)
僕は連撃を中断し、咄嗟に上体を逸らしてそれを躱す。
頭上を通過した剛腕が、背後の石壁をまるで豆腐のようにえぐり取った。パラパラと大量の瓦礫が降り注ぎ、広間全体が地震のように揺れる。
一撃でも掠れば、魔力で極限まで硬化させた僕の肉体でも即死は免れない。まさに綱渡りの、コンマ一秒の判断ミスが死に直結する絶望的なインファイト。
「アッシュ……ッ!!」
後方の安全地帯から、ルナの悲痛な叫び声が聞こえた。
彼女の万華鏡の瞳には、僕の肉体が今どれほど危険な状態にあるか、体内で魔力がどれほど異常に暴走しているかが、残酷なほどハッキリと視えているのだろう。
(大丈夫だ。絶対に、僕が2人を守る)
僕はずっと、底辺の荷物持ちとして、誰かの背中に隠れて生きてきた。
才能がないからと諦め、理不尽に虐げられても笑って誤魔化してきた。
でも、もうやめたんだ。
僕を信じてくれたアイリス。僕を頼りにしてくれたルナ。この二人だけは、絶対にこんな暗い迷宮の底で死なせはしない。僕の命を燃やし尽くしてでも、二人を太陽の下へ連れて帰る。
(……残り、三秒!)
苛立ちを極限まで高めた迷宮の暴君が、ついにその場に立ち止まり、先ほどよりも両腕を天井に届くほど高く、高く振り上げた。
防御を完全に捨てた、全質量の叩きつけ。
アレをやられれば、たとえ僕が超加速で躱したとしても、発生する凄まじい衝撃波と飛び散る瓦礫の散弾が、後方にいるルナとアイリスをミンチにしてしまう。
躱せない。躱してはいけない。
僕は避ける選択肢を振り払い、全身から真っ赤な蒸気を噴き上げながら、振り下ろされる両腕の『内側』――暴君の真正面へと、最後の一歩を深く踏み込んだ。
「ギガァァァァァァァァッ!!」
(……残り、二秒!)
暴君の必殺の両腕が、僕を真上から押し潰そうと迫る。
その圧倒的な死の壁が僕の肉体に触れるコンマ数秒前。僕は、右手に強く握りしめていた『魔鉄の廃材』を、暴君のひび割れた腹部の装甲のど真ん中に、力強く押し当てた。
大砲を撃つための、弾速を乗せる『空間(距離)』はいらない。
大砲として空中に放てば、跳弾がルナたちを襲う危険がある。
だから、撃ち出さない。手から離さない。
魔鉄を敵の分厚い装甲に「完全密着」させた状態のまま、僕の体内で暴れ狂う全ての運動エネルギーを、右腕からこの魔鉄の廃材へと一気に流し込む。
僕の肉体という『大砲』から、魔鉄という『杭』を通じて、暴君の体内へ致死量のエネルギーを直接注入するのだ。
落盤の恐れもない、すべての暴力をただ一点にのみ集中させた、零距離からの絶対装甲粉砕打撃。
(……残り、一秒!!)
「出力ッッッッッッッ!!!」
僕は喉から血を吐き出しながら、絶叫した。
僕のすべてを、この一撃に込める。
ズドガァァァァァァァァァァァァァァンッ!!!!!!
広間の空気が、一瞬にして消し飛んだ。
僕の右腕から放たれた規格外の運動エネルギーは、密着した魔鉄を完璧な『杭』へと変貌させ、暴君の古代鉱石の装甲をまるで濡れた紙切れのように易々と貫通した。
すべてのエネルギーは暴君の巨体の『内側』へと叩き込まれ、その背中側から、爆発的な勢いで血肉と古代鉱石の破片が円錐状に吹き飛んだ。
「――、――――」
迷宮の暴君は、声にならない断末魔の形相を浮かべ、両腕を振り下ろす姿勢のまま完全に硬直した。
その分厚い装甲の奥底にあったAランクの魔石は、僕の打ち込んだ零距離のエネルギーによって、すでに粉々の塵と化している。
(……ゼロ)
ピシッ、と。
僕の右手に握られていた魔鉄の廃材が、限界を超えた莫大なエネルギー伝導に耐えきれず、まるで砂のようにサラサラと崩れ落ちた。
同時に、僕の体内を暴れ回っていた運動エネルギーを貯蔵のスキルを使い貯蔵庫に押し込む。
役目を終えた大砲の熱が急速に冷めていくように、僕の視界が急激に暗転し始めた。
ドゴォォォォンッ……!
迷宮の暴君の巨大な骸が、地響きを立てて仰向けに倒れ伏す。
それを確認した瞬間、僕の両足からぷつりと糸が切れたように力が抜け、冷たい石畳の上へと崩れ落ちた。
「アッシュ!!」
慌ただしい足音が駆け寄ってくる。
ルナが泣きじゃくりながら、血まみれの僕の身体を力いっぱい抱き起してくれた。
全身の骨が軋み、筋肉が焼き切れるような激痛が後を引いているが、不思議と心は澄み渡っていた。
「……ルナ、怪我は……」
「ないよっ! アッシュが、全部守ってくれたから……っ! バカ、無茶しすぎだよ……本当に、死んじゃうかと思った……っ」
「……ごめん。でも、生きてるだろ」
僕は掠れた声で笑い、ひどく重い瞼をゆっくりと動かした。
壁際で気絶していたアイリスが、ルナの悲鳴で完全に目を覚ましたのか、痛む左腕を押さえながらよろよろと立ち上がろうとしていた。
「アッシュ君……? あの、大きな魔獣は……」
「……倒したよ。僕たちの、勝ちだ」
アイリスが信じられないというように目を丸くして、広間のど真ん中に横たわるAランクの巨体と、血まみれで倒れる僕を交互に見つめた。そして、彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「よかった……っ。私、気絶しちゃって……何もできなくて……アッシュ君たちが、死んじゃったらどうしようって……っ」
「……何言ってんだよ。アイリスがいてくれたから、勝てたんだ」
僕は、本心からそう言った。
強固な『防壁』である彼女が、今までどれだけ僕を助け、時間を稼いでくれていたか。失って初めて、痛いほど理解できた。彼女がいてくれなければ、僕はこの理不尽なロジックに辿り着く前に、とっくに死んでいた。
僕たちは、欠陥品のままでいい。
大砲しか撃てない僕。盾しか持てないアイリス。目しか使えないルナ。
でも、三人で補い合えば、Aランクの理不尽な暴力すらもこうして打ち砕けるのだ。
「……帰ろう。きっとギルドのみんなが王都で待ってる」
僕のその言葉に、泣き顔のルナとアイリスが、力強く頷いた。
特務徴用令という貴族の理不尽な罠。死ぬはずだった僕たちは、満身創痍のまま、死の迷宮からの生還を果たしたのだ。
ここからは、僕たちの番だ。
底辺の荷物持ちに喧嘩を売ったことを、あの腹黒い辺境伯に心底後悔させてやる。




