第14話:迷宮の暴君と、決死の肉体強化
大気を引き裂きながら、迷宮の暴君の巨大な鋼の爪が僕の頭上へと振り下ろされる。
アイリスは気絶し、ルナは腰を抜かしている。遠距離攻撃(大砲)を充填する隙はなく、素手で触れてエネルギーを吸収するには、僕の【貯蔵】のパイプが細すぎる。
「――っ、ルナ!!」
僕は理屈の前に、ただ本能だけで動いた。
腰を抜かしているルナの細い身体に飛びつき、そのまま冷たい石畳の上を泥臭く横に転がる。
ズドガァァァァァァァンッ!!
直後、僕たちがつい〇・一秒前までいた場所を、暴君の凶悪な爪が完全に粉砕していた。
砕け散った古代の石畳が散弾のように飛び散り、鼓膜を破るような轟音と凄まじい衝撃波が密室の広間を吹き荒れる。
「が、はっ……!」
衝撃波にモロに吹き飛ばされた僕は、ルナを庇うように抱きしめたまま、広間の端の石壁に背中から激しく叩きつけられた。
肺から無理やり空気が絞り出され、口の中に鉄の味が広がる。全身の骨がミシミシと悲鳴を上げたが、なんとか致命傷だけは免れていた。
「ア、アッシュ……血が……っ!」
「……気にするな。ルナ、立てるか」
僕は咳き込みながら、震える足で立ち上がった。
だが、僕たちの必死の回避行動は、ただ「死ぬまでの時間をほんの数秒だけ先延ばしにした」に過ぎなかった。
「グルルゥゥ……」
土煙の向こうで、迷宮の暴君がゆっくりとこちらを振り向いた。
広間の端、冷たい壁に背を預けた僕たちには、もう一歩も下がる場所がない。
暴君は獲物が逃げ場を失ったことを理解したのか、急ぐそぶりも見せず、四メートルを超える巨体をゆっくりと持ち上げ、その丸太のような両腕を、天井に届くほど高く、高く振り上げた。
――全質量の、叩きつけ。
この閉鎖空間で、逃げ場のない壁際でアレをやられれば、たとえ僕がルナを抱えて横に飛ぼうとも、広がる衝撃波と崩落する瓦礫で確実にミンチになる。
暴君の腕が振り下ろされるまで、長く見積もって、あと『三秒』。
僕の脳が、生存へのわずかな可能性を求めて、かつてない異常な速度でフル回転を始めた。
(……どうする。どうやって、この状況を覆す?)
大砲は撃てない。弾丸となる魔鉄にエネルギーを充填する時間がない。
なら、あの振り下ろされる両腕に直接触れて、運動エネルギーを【貯蔵】して勢いを殺すか?
(……いや、ダメだ)
即座に、僕の中のロジックが否定する。
一角兎の時のようにはいかない。あの暴君の質量と速度から算出されるエネルギー量は、まさにダムを決壊させた『大激流』だ。
対して、僕の【貯蔵】は対象からエネルギーを少しずつ吸い上げる『パイプ』に過ぎない。アイリスという防壁が敵の勢いをせき止めてくれない今、僕が素手であの腕に触れれば、僕の細いパイプでは到底あの質量の暴力を処理しきれない。
エネルギーを吸い終わるよりも先に、溢れ出した莫大なエネルギーが僕の腕を粉砕し、全身を挽肉に変える。
『……どれだけ極上の火薬を詰め込んでも、それを放つ砲身が薄っぺらいブリキじゃあ、撃ち出した瞬間に内側から爆ぜ飛ぶ』
不意に、バランの工房で聞いたあのくぐもった声が、脳裏にフラッシュバックした。
そうだ。大激流を吸い込めないのも、魔鉄にエネルギーを込める時間が惜しいのも、すべては同じ理由に行き着く。
なら、外のエネルギーを吸うのではなく。
撃ち出すための弾丸を作るのでもなく。
(……僕がすでに【貯蔵】している莫大な運動エネルギーを、外に放つのではなく、僕自身の『筋肉』と『骨格』に直接流し込んだら、どうなる?)
弾丸を撃ち出す隙がないのなら、僕自身を『生きた弾丸』に変えるのだ。
しかし、その仮説も、冷静な計算がすぐに壁を提示する。
魔鉄のような強固な金属でさえ、許容量を超えた出力を込めれば内側から自壊するのだ。人間の脆い肉体に致死量の運動エネルギーを流し込めば、コンマ一秒も経たずに全身の細胞が爆発し、内側から弾け飛んでしまう。
(――いや、待て)
魔鉄が自壊するのは、弾丸として『手から離れる』からだ。
撃ち出す以上、魔力コーティングの強度は『手放す前に付与した分』で固定されてしまう。だから限界を超えれば壊れる。
なら、僕自身の肉体ならどうだ? 手放す弾丸じゃない。僕の体内なら。
かつてレオンの粗悪な剣が折れないように、僕が裏方として毎日ひたすらに施していた魔力コーティング。あれを自身の肉体に施し――貯蔵庫からリアルタイムで、限界ギリギリの魔力を送り込み続けたら?
(細胞が自壊する端から、超高速の循環で『常時コーティング』を上書きし続けることができる……!)
自分の肉体を、内側から高密度の魔力で縛り上げ、強靭な器へと強引に作り変える。
そして、その極限まで補強された肉体に対し、莫大な『運動エネルギー』を推進力として叩き込む。
弾丸に魔力を込める時間はいらない。なぜなら、今この瞬間から、僕自身が弾丸であり、大砲であり、アイリスの代わりの前衛になるからだ。
残り、一秒。
迷宮の暴君の、死の両腕が振り下ろされる。
僕は絶望のどん底で、生存本能すらも焼き切るような『狂気の解答』の引き金を引いた。
「出力――ッ!!」
ドクンッ!! と、心臓が大きく跳ねた。
第一段階。
【貯蔵】空間から引きずり出した膨大な魔力を、僕自身の筋肉の繊維一本一本、骨の髄にまで緻密に行き渡らせる。人体への直接的な魔力コーティング。
いつも彼らの武器や防具に施していたコーティングで自分自身を補強する。自分自身を運動エネルギーに耐えられる弾丸にするために。
(自身への魔力付与は完了した……。次ッ!!)
第二段階。
強靭な器が完成したその直後、僕はその肉体に、貯蔵庫に溜め込んでいた莫大な『運動エネルギー』を推進力として一気に解放した。
――その瞬間だった。
「ッ、が、ぁぁァァァァッ……!!!」
魔力とは全く違う、人間の限界を遥かに超えた暴力的な物理エネルギーが、僕の神経と筋肉を暴走しながら駆け巡る。
痛いなんてものではない。身体が、内側からミンチにされるような激痛。
毛細血管が悲鳴を上げて皮膚の下で赤黒く膨張し、魔力で極限まで硬化させたはずの骨ですらギリィッと嫌な音を立てて軋む。凄まじい摩擦熱が、体中を内側から焼き尽くそうとしていた。
だが、僕の編み出した理屈は間違っていなかった。
貯蔵庫から常時送り込まれ、超高速で循環し続ける高密度の魔力コーティングが、暴れ狂う物理エネルギーの自壊をギリギリのところで修復し、押し留めている。
ズドガァァァァァァァンッ!!!!
密室の広間を揺るがす轟音と共に、迷宮の暴君の全質量を乗せた両腕が、僕たちがつい先ほどまでいた壁際の石畳を完全に粉砕した。
舞い上がる大量の土煙と、バラバラと降り注ぐ瓦礫。
確実に僕たちが潰されたと、誰もが疑わない必殺の一撃。
だが――暴君が穿った壁際のクレーターの中に、僕たちの肉片は一欠片たりとも存在していなかった。
「グガ……?」
迷宮の暴君が、己の腕の下に何もないことに気づき、初めて困惑の声を漏らした。
無理もない。Aランクの動体視力を持ってしても、僕が『いつ動いたのか』全く見えなかったのだから。
「アッシュ君……? アッシュ、君……なの……?」
広間の対角線。
暴君の攻撃範囲から完全に外れた安全地帯で、気絶から目を覚ましたばかりのアイリスが、信じられないものを見るような声を出した。
僕は彼女のすぐ横に、抱きかかえていたルナをそっと下ろした。
暴君の腕が振り下ろされる刹那、僕は自己加速による神速の踏み込みでルナを抱き抱え、広間の端から端まで一瞬で退避したのだ。その間、わずか瞬き一回分にも満たない。
「……遅くなって、ごめん。二人とも、少しそこで休んでいてくれ」
「アッシュ……あなたの体、どうなってるの……っ!?」
ルナの万華鏡の瞳が、恐怖とは違う驚愕の色に染まって見開かれている。
僕の全身からは、限界を超えた運動エネルギーによる摩擦熱で血が気化し、薄っすらと赤い蒸気が立ち上っていた。衣服の下では膨張した筋肉が限界まで張り詰め、皮膚には魔力の過剰摂取を示す幾何学的な紋様が青白く脈打っている。
自身の体内だけで完結する、魔力の超高速循環による常時限界突破。
身体能力の強制引き上げ(オーバークロック)。
これが、絶望の中で底辺の荷物持ちが辿り着いた、禁忌の戦闘術だ。
「グォォォォォォォォッ!!」
獲物を取り逃がしたことに激昂した迷宮の暴君が、こちらを振り返り、再び凄まじい速度で突進してくる。
先ほどの僕たちなら、ただ絶望して目を瞑るしかなかった圧倒的な質量。
だが、今の僕の目には――その突進が、ひどく単調で、ノロノロとした歩みのように見えていた。
(……見える。僕の反射神経と動体視力が、Aランクの動きを完全に上回っている)
僕はゆっくりと息を吐き、激痛に軋む右足に運動エネルギーを集中させた。
床の石畳にヒビが入る。
僕は、暴君の突進を躱すことなく、真っ向から『前』へと踏み込んだ。
ズドォォォォォンッ!!!
僕が足を踏み切った瞬間、広間の空気が爆発した。
踏み抜かれた古代の石畳が粉々に砕け散り、僕の身体は文字通り『弾丸』となって、迷宮の暴君の懐へと潜り込んでいた。
「ガ、ア……ッ!?」
暴君の巨体が、ビクリと硬直する。
僕が己の運動エネルギーをすべて右腕に集約し、暴君の分厚い装甲のど真ん中――強靭な腹部へと、渾身の拳を深々とめり込ませていたからだ。
「吹き飛べッ!!」
僕の拳から、圧縮された運動エネルギーがゼロ距離で解放される。
大砲の充填時間も、アイリスの盾もいらない。僕自身がすべての暴力を一点に集中させた必殺の一撃。
メキィィッ! バキバキバキィッ!!
「ギガァァァァァァァァァァァァッ!!??」
古代鉱石と同化した絶対に砕けないはずの分厚い装甲が、僕の拳を中心に蜘蛛の巣状にひび割れ、けたたましい音を立てて陥没した。
迷宮の暴君は、口から大量の緑色の体液を撒き散らしながら、四メートルを超える巨体をくの字に折り曲げ、そのまま砲弾のように後方へと吹き飛ばされた。
巨大な身体が広間の奥の石壁に激突し、壁一面にクレーターを穿って、ドシンと重い音を立てて崩れ落ちる。
「……うそ……」
ルナが、震える声で呟いた。
Aランク相当の理不尽な暴力を、これまで逃げ回るしかなかった無力な少年が、たった一撃の拳で壁の染みに変えたのだ。




