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第13話:迷宮の主との遭遇、そして蹂躙

 暗く、カビと腐臭に満ちた古代地下迷宮の通路。

 僕たちの背後から、真っ暗な津波のように迫っていた無数の腐食百足ケイブ・クローラーの這い回る音が、不自然なほどピタリと止んだ。

 彼らは、見えない境界線をひどく恐れるように、僕たちのいる通路の数十メートル後方で立ち止まり、カチカチと威嚇の顎を鳴らすだけで、それ以上は決して近づいてこようとはしなかった。


「……虫たちが、怯えてる。これ以上は『縄張り』を侵せないって……」


 ルナが、ガチガチと歯の根を鳴らしながら震える声で呟く。

 彼女の万華鏡の瞳は、通路の先――少しだけ開けた、ドーム状の石造りの空間を凝視したまま、極限の恐怖に凍りついていた。

 僕たちは、百足から後ずさりするようにしてその広間へと足を踏み入れた。

 かつて栄えた古代文明の、地下貯水施設だったのだろうか。広さは、王都のギルドの酒場が丸ごと三つ入る程度。天井はドーム状に高くひらけており、ここならばアイリスの巨大な大盾を振り回すこともできただろう。

 だが、出口は僕たちが命からがら逃げ込んできた通路の他には見当たらず、完全に閉ざされた逃げ場のない『密室』だった。


 ズンッ。……ズンッ。

 広間の最奥から、地鳴りのような重い足音が響く。

 生温かく、ひどく淀んだ腐臭の風が吹き抜ける。肌の表面が粟立ち、肺が酸素を拒絶するような、濃密で邪悪な魔力のプレッシャー

 やがて、暗闇のベールを引き裂いて、僕たちの前に『それ』がゆっくりと姿を現した。


「……なんだよ、あれ」


 僕の口から、ひどく乾いた、間抜けな声が漏れた。

 見上げるほどの、圧倒的な巨体。全高は四メートルを優に超えている。二足歩行の獣人のようにも見えるが、その全身は、迷宮の壁と同じ『魔力を異常吸収する古代のレンガと鉱石』が長い年月をかけて皮膚と同化し、分厚く凶悪な装甲と化していた。

 岩盤のように隆起した筋肉。両腕は城門の丸太のように太く、その指先には、鉄の盾すらも紙切れのように容易くえぐり取るであろう、巨大な鋼の爪が五本、鈍い光を放って伸びている。

 ただそこに立っているだけで、呼吸すら苦しくなるほどの、絶対的な暴力の権化。

 Aランク相当の近接特化の装甲獣――『迷宮の暴君ラビリンス・タイラント』。


「グルルルルルルゥゥゥッ……!!」


 暴君が、腹の底を震わせるような低い咆哮を上げた。

 その瞬間、広間の空気がビリビリとひび割れるように震え、ランタンの灯りがふっと消えかけた。


「来る……っ! アイリス、前衛お願い!」

「は、はいっ! アッシュ君、ルナちゃん、私の後ろに……っ!!」


 ルナの悲鳴に近い指示に、アイリスが震える足に鞭打ち、王都で急遽買い揃えた真新しい『中型のカイトシールド』を構えて前へ出る。

 だが、僕の全身の細胞が、「絶対に防げない」とけたたましい警鐘を鳴らしていた。

 相手は、ただ直線的な突進しか能がなかったBランクの甲殻犀とは次元が違う。

 強靭な四肢を持ち、殺戮に特化した明確な意思を持つ『人型の獣』だ。動かずにすべてを面で受け止める大盾ならいざ知らず、今のアイリスが持つ中盾の「点の防御」で、あの暴君の多角的な猛攻を捌ききれるはずがない。


「ダメだアイリス、退がれ! まともに受けちゃ――」


 僕の制止の言葉が言い終わるより、早かった。

 迷宮の暴君は、その四メートルの巨体に似合わぬ爆発的な瞬発力で石畳を蹴り砕き、瞬きを一回する間に、アイリスの目の前へと肉薄した。


「――ッ!?」

 アイリスが息を呑み、咄嗟に中盾を斜めに構え、少しでも衝撃を受け流そうと身を固める。

 だが、暴君が静かに振り下ろした岩塊のような右腕は、アイリスの付け焼き刃の防御技術など一切意に介さない、ただの理不尽なまでの『純粋な質量』だった。

 ガガァァァァァァァァンッ!!!!

 耳をつんざくような、おぞましい金属音と爆発音。

 密室の迷宮中に凄まじい衝撃波が吹き荒れ、足元の石畳が、まるで隕石でも落ちたかのようにクレーター状に陥没する。


「あ、ぁぁっ……!」


 アイリスの、くぐもった悲鳴。

 僕たちが数日前に吟味して買った頑丈な鋼の中盾は、たった一撃でひしゃげ、飴細工のように無惨に折れ曲がっていた。

 そして、アイリス自身の小柄な身体も、その規格外の運動エネルギーを殺しきれるはずもなく、まるで枯れ葉のように宙を舞い、十メートル以上後方の石壁に激しく叩きつけられた。


「アイリスッ!!」


 ドサリと冷たい床に落ちたアイリスは、肩を押さえて苦悶の表情を浮かべた後、ピクリとも動かなくなった。気絶している。盾を持つ左腕が、不自然な方向に曲がり、額から流れた血が銀色の髪を赤く染めていた。


「嘘……アイリスが一撃で……? いやだ、いやっ……!」


 絶対の盾が、いとも容易く破られた。

 その残酷な事実が、ルナの心を完全にへし折った。彼女は腰を抜かし、ガチガチと歯を鳴らしながら、後ずさることもできずにその場にへたり込んでしまう。

 僕とルナ。そして、気絶したアイリス。

 対するは、息一つ乱していない、無傷の迷宮の暴君。

(どうする……。どうすればいい!?)

 暴君が、ゆっくりとこちらに向かって歩みを進めてくる。一歩踏み出すごとに、死の足音がドスン、ドスンと僕の腹の底を直接殴りつけてくる。

 僕は震える右手でポーチを探り、頼みの綱である『魔鉄の廃材』を握りしめた。

 この広間なら、天井も高く、射線も通る。撃つか? 出力を限界まで上げて、あいつの分厚い古代鉱石の装甲を貫く一撃を放つか?

 ――いや、ダメだ。撃てない。

 弾丸となる魔鉄に、僕の魔力を極限まで圧縮して押し込み、自壊しない高度な強度を持たせる。そして、貯蔵した運動エネルギーを推進力として付与する。

 僕の最大の手札である『大砲』は、放てば絶大な威力を持つが、撃ち出すまでにどうしても数秒の『充填時間タイムラグ』が発生してしまうのだ。

 今までは、その無防備になる数秒間を、アイリスが自身の体を張って、どんな攻撃も受け止めてくれていたからこそ成立していた戦術だったのだ。


「グガァァァッ!!」


 暴君が苛立ったように咆哮し、標的を僕へと定めた。

 太い丸太のような脚が石畳をえぐり、再び瞬きする間もなく僕の目の前へと肉薄してくる。

 大砲を充填する隙など、一瞬たりとも存在しない。

 前衛(盾)を失った剥き出しの大砲など、撃ち方を準備している間にスクラップにされるだけの、ただの無力な的でしかなかった。


(なら……素手であの爪に触れて、運動エネルギーを直接【貯蔵】して勢いを殺すか!?)

 あの平原で、一角兎の突進を無傷で止めた時のように。

 だが、絶望の淵でフル回転する僕の脳内の計算式が、そのわずかな希望すらも無残に打ち砕いた。

 一角兎の突進のエネルギー量が『コップ一杯の水』だとしたら、目の前のAランクの暴君の質量と速度は、堅牢な城壁すら粉砕して呑み込む『大激流』そのものだ。

 僕の【貯蔵】は、対象に触れた瞬間に、無条件で全てのエネルギーを無に帰すような万能の魔法ではない。対象からエネルギーを少しずつ吸い上げる『パイプ』なのだ。

 Bランクの甲殻犀の莫大なエネルギーを僕が吸えたのは、アイリスの規格外の大盾という『強固な防壁』が、敵の突進を真正面から受け止めて拮抗し、僕が安全にエネルギーを吸い尽くすための時間を稼いでくれたからだ。

 アイリスという堅牢な防壁がない今、僕が素手であの死の爪に触れればどうなるか。

 僕の細いパイプ(吸収速度)では、到底あの質量の暴力を処理しきれない。

 コンマ数秒で全体の数パーセントを吸い取れたとしても、残りの九十パーセント以上の莫大なエネルギーが、僕がすべてを吸い終わるよりも先に、僕の腕を根元から粉砕し、全身を挽肉に変えて通り過ぎていく。

 盾となる『防壁』がなければ、細いパイプなど大激流の前に一瞬でへし折られるのだ。


(ああ……そうか)

 大気を引き裂きながら、死の爪が僕の頭上へと振り下ろされる。

 その絶対的な暴力の影の中で、僕は自身の戦術の致命的な欠陥を突きつけられ、ひどく冷たい絶望に支配されていた。


 アイリスがいなければ、僕は時間を稼げず、大砲も撃てず、敵の力も殺せない。

 ルナがいなければ、そもそも敵を正確に狙い撃つこともできない。

 最近の快進撃で、僕は自分が高等な戦術を操る強者になったのだと錯覚していた。

 だが、現実は違った。

 僕一人の力なんて、結局のところ、底辺のパーティーでレオンたちの剣を磨いていた時と何も変わらない、自分一人では戦うことすらできないただの『荷物持ち』のままだったんだ。



 約束したのに。

 アイリスを守ると。ルナの目になると。

 無能だと見捨てられた僕たちが、三人で最強のパーティーになって、絶対にシルヴィアのいるAランクの景色へ連れて行くと。

 ここで死ねば、僕たちはただの『欠陥品の集まり』のまま、誰の記憶にも残らずに消えていく。アイリスも、ルナも、僕の力不足のせいでこんな冷たい石の床で、醜悪な魔獣の餌になる。

 大砲の充填時間は作れない。

 直接の吸収も不可能。

 

(嫌だ……。こんなところで、死にたくない。二人を、死なせたくない……っ!!)

 振り下ろされる死の爪が、目前に迫る。

 死の淵に立たされた極限状態。僕の脳が、生存へのわずかな可能性を求めて、これまでの記憶を走馬灯のように、異常な速度で逆流させ始めた。

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