第12話:逃走と、試行錯誤の限界
暗い。狭い。そして、息が詰まる。
『古代地下迷宮』の入り組んだ石造りの通路を、僕たちはただひたすらに、死の恐怖から逃れるためだけに走り続けていた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
アイリスの荒い息遣いが、冷たい石壁に反響する。彼女の肩口からは、腐食百足に食い破られた傷からじわじわと血が滲み、カビ臭い空気に鉄の匂いを混じらせていた。
ルナも、普段の軽口を叩く余裕は完全に消え失せ、僕のローブの裾を必死に握りしめながら、転ばないように必死で足を動かしている。視界を遮断され、魔力の流れすら読めないこの迷宮は、全てを見通す神眼を持つ彼女にとって、目隠しをして刃物の上を歩かされるに等しい恐怖だった。
背後から迫っていたカサカサという無数の這い回る音は、迷宮内に溜まっていた浅い地下水の淀みを強引に突っ切ったことで、匂いが誤魔化されたのか、今は一時的に遠ざかっている。
だが、ここは蟻の巣のように複雑な迷路だ。いつまた別の通路から、あの醜悪な群れが雪崩れ込んでくるか分からない。
「……ストップ。ここで、少しだけ休もう」
僕は、通路の壁がわずかに窪み、身を隠せそうな小さな行き止まりのスペースを見つけて足を止めた。
アイリスとルナが、糸の切れた操り人形のように冷たい石畳の上にへたり込む。
僕はポーチから傷薬と包帯を取り出し、アイリスの肩の傷を手当てした。緑色の体液が混じった傷口を水で洗い流すと、彼女は痛みに小さく身をよじったが、決して声を上げようとはしなかった。
「ごめんね、アッシュ君……。私が、もっと上手く盾を使えれば……」
「謝らないでくれと言っただろ。……悪いのは、僕の方だ」
僕は血で汚れた自分の手を強く握りしめ、ギリッと奥歯を噛んだ。
アイリスに中盾を持たせたのは、狭い迷宮での探索を見越した僕の指示だ。だが、「動かずに全てを塞ぐ」という彼女の絶対防御の才能を、小さな盾で「動いて多角的な攻撃を捌く」という一般的な前衛の技術に当てはめようとした僕の思慮が浅かったのだ。
僕はどこまでいっても欠陥品だ。
一つのことに特化している分、それ以外のことは絶望的なまでに何もできない。それを痛いほど理解していたはずなのに、最近の快進撃で、僕はどこか自分が「万能」になったのだと錯覚していた。
条件が完璧に揃わなければ、ただの弱い冒険者に過ぎないというのに。
「……でも、このまま逃げ続けるだけじゃ、いつか体力が尽きて死ぬ。絶対に、戦う手段を見つけなきゃいけないんだ」
僕は立ち上がり、ポーチからバランさんの工房で手に入れた『魔鉄の廃材』を一つ取り出した。
この閉鎖空間で、魔鉄を使って全力の大砲を撃てば、凄まじい反動による落盤や跳弾で全員が死ぬ可能性が高い。それは覆しようのない事実だ。ならば、その『威力』を極限まで落とせばどうなるか。
「アッシュ……何をする気?」
「ルナ、通路の奥から一匹だけ、はぐれた百足が近づいてきてるよね?」
「……うん。見なくても分かる。足音が一つ。五秒後にこの窪みの前を通り過ぎるよ」
僕は通路の角からそっと身を乗り出し、暗闇の奥から這い寄ってくる一匹の腐食百足に狙いを定めた。
使うのは魔鉄だが、そこに込める運動エネルギーを迷宮の壁を傷つけないであろうラインに設定する。
これなら、跳弾の危険も落盤の恐れもない、安全な銃として使えるはずだ。
(いける……! この算段なら、この狭い迷宮でも戦える……!)
僕はかすかな希望にすがり、極小の出力を魔鉄に込めて引き金を引いた。
「出力」
いつもより数音低い飛翔音とともに、黒鉄の弾丸が飛び出す。次いで、ガキィンッ! という鈍い金属音が通路に響いた。
「嘘だろ……っ!?」
暗闇を切り裂いた魔鉄の弾丸は、百足の頭部に真っ直ぐに命中したものの、その分厚い甲殻を貫くことができなかったのだ。
落盤と跳弾を防ぐために威力を極限まで落としたことで、弾丸の推進力が圧倒的に足りない。硬い甲殻に弾き返された魔鉄がカラカラと力なく床に転がり、無傷の百足が怒り狂ったように、凶悪な顎をカチカチと鳴らしてこちらを威嚇してきた。
「アッシュ君! 全然効いてない……!」
「……ダメだ。失敗だ」
僕は呆然と、床に転がった魔鉄を見つめた。
敵の装甲を貫く威力で撃てば、跳弾と落盤で自分たちが死ぬ。
自分たちが安全な威力で撃てば、敵の装甲を貫けず無傷で終わる。
――詰み(チェックメイト)だ。
僕の最大の手札である『大砲』は、この狭い迷宮という環境においては、どう足掻いても絶対に成立しない、ただの無用の長物だったのだ。
「カサカサカサッ!!」
「カチカチカチッ!!」
先ほどの金属音を聞きつけ、通路の奥から新たに三匹の腐食百足が姿を現した。
無傷の百足たちが、苛立ったように顎を鳴らし、壁と天井から殺到してくる。アイリスが小さな盾で必死に防ごうとするが、隙間から這い寄る群れを捌ききれない。
「くそっ……! 走るぞ、二人とも!」
僕はただ無我夢中で、手元の魔鉄の廃材を大砲としてではなく『ただの鈍器』として投げつけ、牽制し、這々の体でアイリスとルナを引きずり起こして、再び死に物狂いの逃走を再開した。
試行錯誤の果てに残ったのは、僕たちの持っていた手札が、この迷宮において完全に『ゼロ』になったという冷徹な証明だけだった。
(……終わった)
走りながら、僕の心の中に真っ黒な絶望の染みが広がっていく。
僕の浅はかな戦術は、完全に打ち砕かれた。
もう、この状況を覆す理屈は存在しない。僕たちは、遠からずこの暗く冷たい迷宮の片隅で、ただの餌として食い散らかされる運命なのだ。
ドスン。ドスン。
――ふと、背後から追いかけてくる百足たちの這い回る音が、ピタリと止んだ。
代わりに、地鳴りのような、ひどく重く、不気味な足音が、僕たちの前方の暗闇から響いてきた。
「……アッシュ。アッシュ……っ!!」
僕に手を引かれて走っていたルナが、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、絶望に染まった声を絞り出した。彼女の万華鏡の瞳が、暗闇の奥に『それ』を捉え、恐怖に極限まで見開かれている。
「前、前の広間から……来る。今までの虫なんかとは違う。……圧倒的に巨大で、理不尽な、……っ。ダメ、こいつには絶対に敵わない……!!」
ルナの警告を裏付けるように、通路の奥から、生温かい腐臭の風がドッと吹き付けてきた。
逃げ場のない一直線の通路。
後ろには無数の百足の群れ。そして前には、ルナを絶望させるほどの強大な『何か』。
僕たちはついに、一切の逃げ道を塞がれた。
試行錯誤の限界を迎えた欠陥品たちは、己の無力さを抱えたまま、この古代地下迷宮の真の恐怖――『Aランクの主』と相対することになったのだ。




