第11話:死の迷宮と、崩れ去るロジック
王都の東端。バルバロス辺境伯が治める領地のさらに外れに位置する、切り立った峡谷の底。
『特務徴用令』という、平民には決して逆らうことの許されない絶対の鎖を首に巻かれた僕たちが辿り着いたのは、昼間でも太陽の光を拒絶するように鬱蒼と茂る、不気味な黒い森の奥深く。
岩肌にぽっかりと穿たれた巨大な横穴であり、かつて栄えた古代文明の地下水路の跡地――『古代地下迷宮』の入り口だった。
「……ここが、死の迷宮」
アイリスが、自身の左腕に装備した真新しい中型の盾を強く握り直しながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。
大きく開いた入り口から絶え間なく吐き出される風は、氷のように冷たかった。長年澱んだ水と重いカビの匂い、そして、ここで命を落とした無数の冒険者たちの血と腐臭が微かに混じっている。
太陽の光は入り口から数メートル先で完全に途絶え、その奥は墨汁をぶちまけたような、一切の希望を飲み込む完全な暗闇に支配されていた。
「アイリス、ルナ。中に入る前に、もう一度だけ確認しておくよ」
僕は腰のポーチに入れた『魔鉄の廃材』の重みを右手で確認し、強張った顔の二人に振り返った。
「この迷宮は、今まで僕たちが戦ってきた平原や荒野とは全く違う。逃げ場のない閉鎖空間だ。何が起こるか、どんな環境が待ち受けているか分からない。……だから、もし僕が『逃げる』と判断したら、その時は盾も敵も捨てて、絶対に僕の指示に従ってほしい」
「分かった。アッシュ君の判断には絶対に従うよ。私が、盾で二人を守るから」
「うん、任せておいてよ。私の『神眼』が、暗闇の中の敵も罠も全部視透かして、一番安全な道をナビゲートしてあげるから!」
ルナが努めて明るい声で言い、自信満々に左瞳の万華鏡を回転させる。
アイリスも、いつもの巨大な大盾ではなく、この日のためにギルドで急遽調達した取り回しの良い中盾を構えて見せた。狭い迷宮での探索を見越した、僕たちなりの最大限の「対策」だった。
僕たちは無言で頷き合い、頼りないランタンの灯りだけを頼りに、その漆黒の顎の中へと足を踏み入れた。
◆
迷宮の内部は、数歩進んだだけで想像を絶するほど劣悪な環境だと理解させられた。
足元は長年の流水で抉られるように削られ、不気味なぬめり気を帯びた苔がびっしりと生え揃ってひどく滑りやすい。踏み出すたびに靴底が嫌な音を立てる。
そして何より、僕たちを初めから終わりまで苦しめたのは、その『異常なまでの狭さ』だった。
大人二人が肩を並べて歩くのがやっとという、極端に幅の狭い通路。天井も低く、少し背伸びをすればひんやりとした岩肌に頭がぶつかりそうだ。それが、まるで狂った蟻の巣のように複雑に分岐し、どこまでも、どこまでも続いている。
ランタンの光が届く範囲はわずか数メートル。その先は、濃密な闇が物理的な壁のように立ち塞がっている。
「……ねえ、アッシュ。なんだかこの壁、変だよ」
最後尾を歩いていたルナが、不満げに、そして微かに怯えたような声を上げた。
振り返ると、彼女の万華鏡の瞳が、普段の滑らかで美しい回転を失い、まるで歯車が噛み合わない機械のようにぎこちなく痙攣している。
「どうした、ルナ? 敵の気配か?」
「ううん、違うの。視えない……視えないんだよ。この迷宮の壁や床の石……ただの岩じゃない。空気中の魔力を吸収する、特殊な岩でできてる。私の『神眼』の視線が、壁の向こう側で完全に遮断されちゃうの……っ!」
ルナの悲痛な言葉に、僕は思わず舌打ちをした。
ルナの神眼は本来、数百メートル先の岩陰にいる敵の筋肉の動きすら捉えることができる。だが、それは空間を満たす『魔力の流れ(ベクトル)』を視覚化して読み取っているからだ。
壁そのものが魔力を吸収し、遮断する材質であれば、彼女の目は『この狭い通路の直線上の暗闇まで』しか視ることができない。角を曲がった先に何が潜んでいるか、隣の通路から何が壁を突き破ってくるか、彼女の目でも完全に予測不可能になるのだ。
「索敵能力と、未来予測の範囲が大幅に落ちるってことか……。アイリス、盾の調子は?」
「う、うん……。重くないし、壁にも引っかからないから、歩く分には全然問題ないんだけど……」
アイリスが中型の盾を構え直すが、その表情はどこか心細げだった。
無理もない。彼女の『空間固定』の才能は、自身の体をすっぽりと隠し、通路の大部分を塞ぐ巨大な壁(大盾)があってこそ「絶対防御」として成立していた。取り回しの良い小さな盾では、彼女の身体は守れても、横や頭上に生まれる広大な「死角」をカバーしきれないのだ。
かといって、あの大盾を持ち込めば壁につっかえて身動きが取れなくなる。
ルナの神眼が塞がれ、アイリスの防御範囲が機能不全に陥る。
僕たちのパーティーを最強たらしめていた『前提条件』が、この不気味な古代の石造りの空間によって、音を立てて無残に崩れ去っていくのを感じた。
(……いや、一番の致命傷は、僕だ)
僕は震える右手のひらを見つめ、ギリッと血が滲むほど奥歯を噛み締めた。
もしこの極端に狭く、密閉された直線通路で、僕が魔鉄に莫大なエネルギーを込めて『大砲』を放てばどうなるか。
結論は簡単だ。砲弾が敵を貫いた後、その凄まじい余波と衝撃波は逃げ場を失い、古代の脆くなった天井を支えきれず、大規模な落盤を引き起こして、全員が生き埋めになって肉塊に変わる。
大砲が撃てない。盾が機能しない。目が視えない。
バルバロス辺境伯が、なぜわざわざ僕たちをこの場所に送り込んだのか。その邪悪な理由が、今ならはっきりと理解できた。
彼は、僕たちのような欠陥品パーティーのロジックが、環境一つで容易く崩壊することを見透かしていたのだ。「古代魔導具の真偽」などどうでもいい。ただ、生意気な平民が理不尽な地形で無様に死んでいく様を、安全な場所から嘲笑いたかっただけなのだ。
チッ、チッ、チチチチチッ……。
不意に、濃密な暗闇の奥から微かな音が聞こえた。
硬い爪が、石畳を這い回るような不快な音。それが一つや二つではない。数十、あるいは数百という単位で、壁や天井を這いながら、獲物の匂いを嗅ぎつけて急速にこちらへ接近してくる音だ。
「アッシュ! 前方から多数の敵! すぐくる……ッ!」
ルナの悲鳴に近い警告と同時だった。
ランタンの灯りが届くギリギリの暗がりから、夥しい数の赤黒い複眼が、波のように浮かび上がった。
人間の子供ほどの大きさがある、醜悪な巨大百足。全身を硬い暗褐色の甲殻で覆われ、無数の鋭い足で床、壁、そして天井の全てを這い回りながら迫ってくる迷宮の低層魔獣、『腐食百足』の群れだ。
「アイリス、前へ! 盾で通路を塞いでくれ!」
「っ、はいっ!」
アイリスが通路のど真ん中に立ち、中盾を構えて自身を空間に『固定』する。
だが――やはり、その防御はかつてのような『絶対』ではなかった。
ガキンッ! ギチィッ! ギチチチチッ!
アイリスの正面に向かってきた数匹の百足は、固定された盾に激突して弾き返された。
しかし、問題は『盾の横』と『天井』を這ってくる個体だった。小さな盾では通路全体を塞ぐことができない。元々「動かずに全てを面で受け止める」戦い方しかしてこなかったアイリスには、小さな盾を素早く動かして、多角的な攻撃を機敏に捌くような前衛としての技術は無かった。
「きゃあっ!?」
隙間を縫って天井を這ってきた一匹の百足が、盾を越えてアイリスの肩口に飛びかかり、その鋭い顎で厚手のローブを食い破った。
アイリスが痛みに悲鳴を上げる。僕は咄嗟に手元にあった手頃な石を拾い上げ、魔力を込める暇もなく百足の頭に叩きつけて強引に引き剥がす。緑色の体液が僕の手に飛び散り、鼻をつく悪臭が漂う。
「アッシュ! 左の壁からも回り込んでくる! 盾の死角だよ!」
ルナの切羽詰まった叫び。だが、視界が極端に狭く、魔力の流れも読めないこの場所では、彼女の警告も一歩遅い。
僕たちの完璧だったはずの連携は、もはやただの混乱した烏合の衆へと成り下がっていた。
前方の通路は、すでに石の壁も見えないほどにビッシリと群がった巨大な百足によって埋め尽くされている。互いが折り重なり、壁を這い、天井から降ってくる。このままでは、文字通り黒い波に押し潰されて食い殺されるのは時間の問題だ。
(撃つか……!? いや、ダメだ!)
僕はポーチの魔鉄に手を伸ばしかけ、すぐにその愚かな思考を振り払った。
群れを一掃するだけなら、出力を抑えて撃てば可能かもしれない。だが、もし百足を倒せても、落盤で潰されれば同じことだ。
遠距離の大砲が使えない僕。
大盾という面を持たず、技術で攻撃を捌けないアイリス。
壁の向こうが視えないルナ。
事前の準備すら、この理不尽な環境の前では全くの無意味だった。
僕たちはここで、自分たちがただの『欠陥品の集まり』に過ぎなかったという残酷な事実を、嫌というほど思い知らされていた。
圧倒的な力を持ったSランクのシルヴィアなら、こんな地形など関係なく、その白銀の剣一つで全てを切り伏せて前に進むのだろう。
だが、僕たちにはその理不尽なまでの『個の暴力』がない。条件が揃わなければ、ただのCランクの魔獣の群れにすら蹂躙されるだけの、惨めな弱者なのだ。
数刻の時間稼ぎをする為にギルドで非常用に買っておいた、閃光石を投げ込む。群れの中で光が炸裂し、光に慣れない百足たちはその足を止める。
「……退がるぞ! 走れ!!」
僕は血を流すアイリスの腕を掴み、恐怖で足がすくむルナの背中を強く押して、来た道を全速力で逆走し始めた。
背後からは、光から立ち直った百足達の獲が逃がすまいと、カサカサというおぞましい爪音をたてながら真っ暗な津波のように追いかけてくる。
「アッシュ君、ごめんなさい……っ! 私が、小さな盾の扱いに慣れてないから……!」
「違う! アイリスのせいじゃない。僕の準備不足だ。君は悪くない!」
走りながら、僕は奥歯を噛み締めて自分自身を呪った。
大砲という強力な矛を手に入れ、Bランクの魔獣すら圧倒できるようになったと驕っていた。ギルドの連中を見返し、最強のパーティーになったのだと思い上がっていた。
だが、少し前提条件を崩されただけで、ただ逃げ惑うことしかできない無力な荷物持ちへと逆戻りだ。
息が上がる。肺が冷たい泥水のような空気を求め、心臓が早鐘のように鳴り響く。
暗い迷宮の迷路を、ただ死の恐怖に追われるようにして、無様に、ひたすらに逃げ続ける。右に曲がり、左に曲がり、自分がどこに向かっているのかすら分からない。
誇りも、自信も、築き上げてきた最強の理屈も、全てがこの圧迫感のある暗闇の中で削り取られていく。
(どうする……! どうすればいい!? 大砲が撃てないなら、どうやってこの死地を切り抜ければいいんだ……!!)
必死に頭を回転させるが、解決策は一向に浮かび上がってこない。
ただ泥臭く逃げ回る僕たちの前途には、さらなる深い絶望の暗闇だけが、口を開けて待ち受けていた。




