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2032/11/3

朝は静かだった。


静かすぎる、という言い方のほうが正しい。目覚ましは使っていない。使う必要がない。

一定の時間になると、身体のほうが先に目を覚ます。戦争中に身についた癖だろうか。

天井には細いひびが走っている。いつできたものかは覚えていない。砲撃のときか、空爆の衝撃か、それとももっと前からあったのか。重要なのは、崩れていないという事実だけだ。

僕はゆっくりと身体を起こす。


窓を開けると、東京湾が見える。ここは湾岸地区なのだから当たり前か。

燃えもしなければ、崩れもしない。人間の戦争とは無関係に、同じ場所で波を繰り返している。

外に出る準備をする。着る服は決まっている。汚れが目立たず、動きやすく、目立たない色。

誰に見られるわけでもないが、目立つことは避ける。階段を降りると、踊り場に古い貼り紙が残っていた。

「節電にご協力ください」

文字は色褪せ、端が剥がれている。協力する相手はもういないのだが。

通りに出ると、舗装は割れ、雑草が隙間から伸びている。車はほとんど走らない。走れない、という方が正しいだろうか。

走るとしても、軍用か、用途のわからない改造車だけだ。人は少ない。

見かけても、互いに視線を逸らす。話しかける理由も、話しかけられる理由もない。


沈黙は、この国の共通言語になった。


歩きながら、僕は周囲を記録する。崩れたコンビニ。窓が塞がれたままの銀行。入口だけが残った地下鉄の駅。

ノートに書くほどでもないことを、頭の中に並べていく。

戦争は、突然始まったわけじゃない。でも、突然終わったように扱われている。


終戦宣言が出た日、街は何も変わらなかった。

爆音が止まり、空に何も落ちてこなくなっただけだ。

政府は機能しているとされている。少なくともニュースの中では。復興計画、支援物資、秩序の回復。画面の中では、すべてが前に進んでいた。現実では、足元の瓦礫すら片づいていない。

僕は歩き続ける。

どこかに向かっているわけじゃない。

ただ、立ち止まらないために歩く。信号のない交差点で、立ち止まる。左右を確認する癖だけが残っている。

何も来ない。それでも確認する。遠くで、建物が崩れる音がした。

自然に崩れたのか、誰かが壊したのかはわからない。

区別する意味も、もうない。

僕はノートを取り出し、一行だけ書く。

「今日は、特に何もなかった。」

それが、この街では一番異常な記録だ。



あとから振り返れば、戦争は突然ではなかった。

ただ、人々がそれを「戦争」と呼ぶ準備をしていなかっただけだった。


発端は経済だったというのが第三次世界大戦のトリガーとされている。

世界的な資源不足と通貨不安が重なり、国家同士の取引は信用ではなく力に傾いていった。

エネルギー、食料、半導体。どれもが国家の生命線になり、同時に弱点になった。日本も例外ではなかった。

輸入に依存する構造は変わらず、海上輸送が止まれば、国内は数週間で機能不全に陥る。それは以前から指摘されていた。

ただ、対策は「検討」されたまま、実行されなかった。転換点は、複数の地域で同時に起きた紛争だった。中東、東欧、インド太平洋。それぞれは局地的な衝突として報じられていたが、実際には同じ問題を抱えていた。


資源と影響圏の奪い合いだ。大国同士は正面から衝突することを避けた。代わりに選ばれたのが、周辺国と物流網だった。港、海峡、航路、通信網。戦場は、国境線からインフラへと移った。日本は、その中心にいた。地理的にも、経済的にも。

最初に起きたのは海上での衝突だった。「事故」と発表された艦船同士の接触。

次に起きたのは通信障害。衛星が不調を起こし、ネットワークが不安定になった。


その頃には、もう誰も偶然だとは思っていなかった。政府は中立を強調した。どの陣営にも与しない。あくまで防衛に徹する。その言葉は、国内向けの安心材料だった。国外では、そう受け取られなかった。


日本は中立ではなく、もはや空白だった。誰が使ってもいい場所。誰が壊してもいい場所。決定的だったのは、同盟国からの「要請」だった。港湾の使用、補給の支援、情報の共有。公式には限定的な協力とされたが、実質的には参戦に近かった。


それに対する報復は早かった。最初の攻撃は、軍事施設ではなかった。発電所、物流拠点、港湾倉庫。都市の呼吸を止めるための攻撃だった。その時点で、日本は戦争に巻き込まれたのではなく、組み込まれていた。

国内では意見が割れた。抵抗すべきだという声。巻き込まれる前に譲歩すべきだという声。


どちらも正しかったが、どちらも遅かった。結果として、日本は攻撃された。理由は単純だった。壊せば敵が困る国だったから。


戦争は、理念や正義では始まらない。

便利だから始まるのだ。

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