(3) 闇は嘆きと共に訪れ
“この世界”はもう、“不平等”から開放され……平らな大地が果てしなく続く煉獄と化したのだ――。そんな事を口にする、誰かの事を思い出した。
それは、俺の中にある誰かの記憶……。単純に考えれば俺の記憶なのだろう。実際俺の中にはいくつかの記憶があり、今も少しずつ突拍子もなく何らかの切欠でポンと記憶を思い出したりもしている。完全な記憶の喪失ではないのならば……このまるで他人の物語を思い返すような感覚も、きっと肉体を失った齟齬から来ているのだろう。
“祝福の日”……誰がそう呼んだのか、その言葉だけが世界を独り歩きし始めたのはいつ頃からだっただろうか。人から人へと口伝で伝えられたその伝説は、数百年前に起きた想像を絶する悲劇を伝える物語だ。かつてこの荒廃した世界には……栄華を極めた人の世界があった。
群れを成すビルにはいっぱいの人が詰め込まれ、このアスファルトの大地の上を数え切れない人々が行き来した。人は馬でも牛でもなく、機械の箱に乗り込んで移動し、空を鋼の鳥が飛び回り……。そんな、夢物語のような世界が確かに存在していたのだ。その痕跡は今も各所で見る事が出来る。そう、この世界は……とても幸福に満ちていたのだ。
人が生きる世界である以上、そこに楽園などは在り得ない。だが、それでも整備された“法”と“技術”は人に様々な恩恵を与えた事だろう。かりそめの上とは言え、与えられた物とは言え、バランスは世界を司り、守り、そして人々に長い長い夢を見せ続けた事だろう。それが終わってしまった今でも……消えてなくなる事は出来なかった沢山のモノがその名残を現代に伝えている。
空は常に厚い雲で覆われ、太陽の光は遠ざけられた。地上は冷えた場所となり、作物は育たなくなった。多くの動植物が死に絶え、人間は残ったかすかな文明の力にすがりなんとか生きながらえている。その数を大幅に減らし続けながら……首の皮一枚、終焉という文字を遠ざけ続けている。
たまに出てくる太陽は、一体どれだけの希望を人に与えるのだろうか。少なくとも……俺にとっては邪魔な物でしかない。ちらほらと見え隠れする、手の届かない事がわかっている希望ほどタチの悪いものもないだろう? 得られないのならば、最初から絶望的に演出してほしい。最初から……姿など見せないでほしい。そう願うのはきっと、俺だけではないはずだ。
バケツ女と少女の旅が始まって数日……。俺はそんな事を一人で考えながらふわふわと浮かんでいた。俺が動こうとしなくとも、少女が動けば自然と引っ張られるのだから、もう本格的にやる事もない。だからこんな余計な事を、わかりきった事を一人で思考し続けているのだ。
少女は相変わらず口も利けないまま、記憶も戻らないままだ。それどころか歳相応とは決して思えない、幼子のような行動を繰り返している。外見からすれば……二十歳前の娘、という所だろうか? 露出の激しい上半身と鎧に覆われた下半身、そして少年とも少女とも取れない無邪気なその整った横顔が俺の判断を鈍らせている。勿論、女の年齢をズバリ当てられる特技などあるはずもないが……。
暫く振り続けた豪雨の所為で停止を余儀なくされていた旅路も漸く再開の目処が立った。身軽な様子で先へ瓦礫の山を進んでいくバケツ女……。一方少女は水溜りの上で一人バシャバシャと足踏みしながらはしゃいでいた。バケツ女の苦行は、もう暫く続きそうだ……。
『何遊んでるんだ、クソガキ。ほら、こっちだ……!』
女が呼ぶと、少女は顔を上げて笑顔のまま女へと駆け寄って行く。そうしてその胸に飛び込み、すりすりと頬を寄せた。毎度毎度の事だが仲の良い事で……。まるで天使のような笑顔を浮かべられては、女も何も言い返せまい。
『……本当に手間のかかるやつだな。全く、お前なんか助けるんじゃなかったよ』
その言葉と同時に女は少女の手をしっかりと握り締め、歩き出した。全く、口と心が別々に動いているような奴だな……。俺も彼女を少しうらやましく思う。この旅に同行者がいるのは嬉しい事だが、自分を認識してもらえないのでは意味がない。こんなにも“話し相手が欲しい”と強く願った事は恐らく人生初だろう。記憶は……ないのだが。
この俯瞰にも既に慣れてしまった……。人間の適応能力ってやつは、全く大したものだな……。いや、人間かどうかもわからないわけだが……。さて、俺はこれからどうなるのか……。とりあえずはこの二人についていくしかない。焦った所でどうにもなるまい、急がずこのまま浮いているとしよう。
二人が辿り着いたのは、大きなトンネルを抜けた先にあった小さな村だった。かつての文明の時代に築かれた、半壊した住宅地……。それをつたないながらに補修し、何とか人が暮らせるようにした土地だった。見てくれは悪いが、旧文明の技術で作られた家は頑丈で住み心地も中々……。いや、誰の記憶かはわからないのだが。
『…………。妙だな』
ここが目的地だったのだろうか? 女は大きな瓦礫の上に立ち、村を見渡している。妙……という言葉の意味は俺にも判った。この村……それなりに立派で規模も大きいのだが……人の気配がまるでない。
いや、気配そのものは確かにあるのだ。家の中に閉じこもって……窓の隙間からこちらをじっと見つめている視線を感じる。少女は相変わらずべったりとバケツ女の腕にくっついて離れる気配もないが、女の方はこの異常に即座に気づいていたようだ。
『……まあ、いい……。こっちだ。案内しよう』
どこに……? という俺の疑問は直ぐに払拭される事になった。曇り空の下、大勢の視線に晒されながら女は歩き出す。ここは……彼女の旅の最果てだったのだ。始まりにして、終わるべき場所……。故に、目的地。暫く歩いた二人の前にあったのは……木製の小さな小屋だった。
それは、明らかに周囲の建築物からは浮いた存在感だった。思い切り手作りというか……。建造物として、非常に不細工なのだ。立て付けの悪い扉を強引に押し開き、女はそこに少女を案内する。小屋の中には小さな部屋が一つだけあり、ベッドやテーブルなど本当に必要最低限の家具が設置され、乱雑に生活雑貨が転がっていた。
何年も……何年も、誰も足を踏み入れていない……。停滞していた空気は、女が窓を開け放つと同時に流れを得て動き出した。風が吹き込む小屋……。ボロ布で出来たカーテンがはためいて……その影に女は立ち尽くしていた。その胸中たるや如何程か……。俺には判る。何となく判る。いや……手に取るように、判る。ここは、女の帰るべき場所……。女の……“家”だった。
何故彼女が何年も旅をしていたのかはわからない。だが……生半可な覚悟で生きながらえてきたわけもあるまい。彼女の身体はケムリに呪われ続けている。存在そのものが、呪いに固められているのだ。ここに戻ってくる事も、ここから出て行く事も……間違いなく一悶着あったに違いない。
『……懐かしいにおいがする。埃っぽくて、じめじめしていて……。太陽から見放された……我が愛しい牢獄だ』
女はベッドの上に腰掛け、そして部屋の中をきょろきょろと見回している少女を見やった。少女と女、二人の視線が交わる……。少女はまるで母に甘えるかのように女へと歩み寄り、その身体を抱きしめた。
『……ああ。結局ここまで連れてきてしまった。私は……どこまで愚かなのか……。お前にも言葉が分かるのならば……知って欲しかったよ。私と共にいる事が、どれだけおぞましい事なのか……』
「……?」
『いや、いいんだ。お前には関係の無い事だったな……。全く、一人旅が長いと独り言が多くなって困る……。お前に何かを語りかけても……想いが通じるはずもないというのにな……』
ドロ水で汚れた少女の白い髪を撫で、女は笑った。笑っていた……そう思う。バケツで隠れたその素顔はきっと自愛に満ちた表情だったに違いない。俺は……少なくともそう信じている。彼女は……見た目は恐ろしくとも、優しい人なのだから。
それから女は小屋の床を開き、地下室からいくつか保存食を取り出して少女に与えた。近くには水道があり、そこで少女のドロだらけの髪を洗ってやった。土が詰まった鎧を丹念に掃除し……そして拘束具にも似た裸同然の少女に、彼女は小さな箪笥から取り出した服を与えた。
可愛らしいワンピースを合わせては幸せそうに真紅に輝く目を細めるバケツ女……。彼女は満たされていた。この胸に空いた穴を塞ぐ為に続けてきた旅の中で……安らぎを得ていた。少女は無邪気に微笑み続ける。言葉も判らず。何も判らず。ただ……果てしなく無垢なその蒼い瞳が自分を映す事にこの上ない幸せを感じている。まるで誰にも愛されなかった自分を投影し、愛するかの如く……。
夜が来て、二人はボロボロのベッドの上で眠った。それでも砂利だらけのアスファルトの上より寝心地は何倍も良かった。すやすやと眠る少女の頭を太ももの上に乗せ、女は座って壁に背を預けて眠っていた。バケツを脱げば横になって眠れるだろうに……全く、そこまでして隠したい程酷い顔なのだろうか。
俺は眠るという事が出来ないので、一人で部屋の中をうろうろしていた。そうして……ふと、倒された写真立てを見つけた。箪笥の上にあったそれを立てると、そこにはウェディングドレスを着た美しい女性と、その隣に立った優しそうな青年の姿が残されていた。紅い……血のように赤い薔薇の花束……。花なんて今のご時世、高価でそうおいそれと手に入るものではないのに……。
それはきっと、男が愛する人に送った大切な大切な贈り物だったのだろう。女はその花束を胸に目に涙を浮かべ、幸せそうに微笑んでいた。そのドレスも……ああ、旅を続ければ当たり前のように……ボロボロになってしまう。これがあの女の素顔だったとしたら……隠す必要などなかっただろうに。そう思う……んっ!?
待て、俺は今倒れていた写真立てを立てなかったか!? 一体どうやったんだ……!? もしかして物体に干渉できるのか!? あまりに自然すぎてまるで自覚が無かった! これではどうやったのか判らないじゃないか!
一人で部屋の中、悶々とし続けた。写真立てをどうにか再び倒してやろうと躍起になったのだが……倒れる気配はなく、身体もないというのに俺はすっかり疲れ果ててた。さっきのは……俺の思い違いだったのだろうか……。
すっかり諦め、へろへろとその場にうずくまっていた……その時であった。異常な気配を察知出来たのは俺の身体が既に存在しないからなのだろうか? 五感とは違った……第六感にも似た感覚が脳裏を過ぎった。そして――同じものを感じたのか、同時にバケツ女が跳ね起きる。
『…………くそ……っ! 私は……こんな事の為にここまで来たわけではないのに……っ』
女は小さな小さな声で毒づき、すやすやと眠る少女を起こさぬようにとそっと足を引き抜き、窓からすらりと伸びた足を引き摺り颯爽と飛び出していった。脚力もやはり常人とはかけ離れているのか、女の足取りはまるで闇を駆け抜ける獣のようだった。
さて……俺もついていきたいのだが……この少女がここで眠っている以上、追いかけるには限界がある。確か百メートルくらいなら離れる事が出来ただろうか……? 少女の安全を確認する意味も込め、俺は窓から飛び出し高い場所まで浮かび上がって村全体を見下ろした。そこにあったのは……文字通りの悲劇だった。
村から離れた場所にあるこの小屋にも悲鳴が響いてくる。どうも視力も良くなっているらしく、遠い村の景色がはっきりと克明に認識する事が出来た。村には火の手が上がり……広場を黒い霧の塊が闊歩していた。
“ケムリ”だ……。俺は心のどこかでそう思った。ケムリ……呪われた人間。人類の数を減らし続けている化け物……。胸の奥がざわつくのがわかった。俺は……俺は、もしかしたら……。
“黒霧病”……という病がある。それは原因不明の呪われた病……。完治する事は絶対にありえない、感染経路不明の病だ。感染した人間は身体の一部がから黒い煙が出てくるようになる。それが徐々に全身へと広がり……やがて全てを飲み干した時、肉体を失い人間は“ケムリ”となるのだ。
黒い煙に覆われて、それが様々な形状を形作ってはいるものの……中身……本体は人間そのものだ。固体によって大きさも性質も違うケムリたちは夜の闇に紛れて人間を襲う……。だが、こんなに大規模なケムリの襲撃がかつてあっただろうか……。
考えてみればこの村は“迷宮”に近い……。もしかしたらそれが何か関係しているのだろうか……? しかし、ケムリはそれを晴らしてしまう炎や日光の光を極端に嫌い、夜と言えども人里を襲う事は殆どないはずなのだが……。
ケムリは次々に民家の扉を破り、中に入っていく。直後、窓ガラスにべったりと大量の血液が付着した。ケムリの主食は“人間”だ。やつらは人間を見つけ、捕食する為に生きている……。成る程、村の人々が家から一歩も出ないわけだ。これでは外を出歩こうなどという気には到底ならない。
だが――問題はそこににバケツ女が一人で突っ込んでいくというこの状況だ。ケムリが進入していった家から飛び出してきた幼い少年が外で群れているケムリを見やり悲鳴を上げた。ケムリは外に逃げてきた人間をむしゃむしゃと食いちぎっていたのである。おぞましい音と共に飛び散る血と蔓延する死のにおい……。少年がその場に尻餅をついた――その時だ。
紅い目を輝かせ、少年とケムリの間に割って入ったバケツ女がその呪われた腕でケムリの頭を同時に二つ引きちぎった。赤黒い血飛沫が噴出し、少年は完全に恐怖でおかしくなってしまっていた。へらへらと笑いながら、両親が食い荒らされている家の中に戻っていく。バケツ女は止めようとしたが……遅れて少年の首が跳ね飛ばされる音が聞こえた。
『……クソッ!! どうして誰も闘おうとしない!? どうして誰も逃げようともしないっ!! お前ら……ここで全員心中でもするつもりかッ!?』
その声にケムリはどんどん群がってくる。女は両腕から赤黒い霧を漂わせ、その力を扱おうとする。両腕が伸び……その鋭い爪がより長くせり出される。完全に化け物にしか見えないその異形のまま、女は声にならない声と共に走り出した。
膂力は女の物とは思えない。爪の一振りでケムリを払い、腐った肉をズタズタに引き裂いた。成る程、これが女一人で旅を続けてこられた理由か……。呪われた力……だがそれは彼女にとっては悪い事だけではないらしい。素早く低い姿勢で村中を駆け巡り、次々にケムリを切り裂いていく。気づけば女のドレスは返り血で真っ黒に染まり、バケツを滴る赤黒い液体は女の存在を生臭く彩っていた。
「もういい……もういいんだ。この村はもう終わるんだ……。何をしても無駄なんだ……」
どこかの家から聞こえてきた情けの無い、無感情な声……。苛立ちながら女は振り返る。だがまた違う家から声が続いた。
「どうして帰ってきたのだ……。ダリア……お前さえいなければ、こんな事には……」
女を翻弄する声……それは本当にこの村の人間の声だったのだろうか? 女はあちこちを振り返り、その苛立ちを発散するかのように大地を爪で吹き飛ばした。すると声が聞こえなくなり静かになった……。それは、一瞬の事だったが。
「おお、来た……! 滅びが……ああ……っ!」
「死ぬんだ……。みんな死ぬんだ……」
「殺してくれ……もういっそ殺してくれ……!」
自分勝手な失望の声があちこちから響き、ノイズとなって村に響き渡る。命乞いをする声……絶望を嘆く声……。何もかもを諦め無心に帰った声。様々な声が織り成す失意の旋律を背後に、大きな足音が近づいていた。
振り返った女は驚愕のあまり声を失った。村の入り口にあった小さな門を軽々と踏み壊し、広場に走ってくるそのケムリの大きさたるや……。俺も驚いている程である。四速歩行をする巨人の影……。全身に紅い瞳を浮かべ、体中のあらゆる場所からケタケタと奇妙な笑い声を上げるバケモ――。それは一斉に雄叫びを上げ、バケツ女へと襲い掛かってきた。
飛び上がり、そして落下……。それだけで大地が陥没し、アスファルトがめくれ返る。女は跳躍して民家の上に逃れるが……。巨大なケムリはビルの壁へと跳躍、へばりついて首をぐるりと回し、標的を定めたと言わんばかりに女を見下ろしている。
長く、モヤモヤとしたケムリが織り成す赤黒い舌がチロチロと覘く……。あれは……本当にケムリなのだろうか? ケムリの中身は変異した人間……それだけのはずだ。ケムリは確かに人を食うバケモノだが、あそこまで巨大な人間などいるはずもない。こんなものがうろついていたのでは……絶望したくなるのもわからなくはない。
女目掛け、長い下が発射された。発射……という言葉が非常にふさわしい。その切っ先は彼女が立っていた民家の屋根を吹き飛ばし、巨大な鞭のようにしなる。女は跳躍して回避したが……空中にいた所を舌で叩かれ、大地へと叩きつけられた。一度激しくバウンドし……女の全身から鈍い音が漏れる。驚くほど大量の血を吐き出し、激痛の中で女はのた打ち回った。
巨大なケムリはまるで女をいたぶり楽しむかのように、舌先を揺らしながらケタケタと一斉に笑い声を上げる。ああ……。そういうことか。そうなのか。俺はわかってしまった。あの、ケムリは……。あの黒い霧の鎧の、中身は……。
『……ざけんじゃねえ……ぞ……っ!』
女はふらふらと立ち上がる。俺はそれが驚きだった。あんな傷を負って、まだ動けるというのか……。見れば黒い霧が彼女の外傷を修復しているではないか。そこまで……そこまでバケモノに寄ってしまった存在だというのか。そして……それでもなお、歯が立たないというのか――。
ケムリが壊した門の巨大な岩のブロックを拾い上げ、巨大化した腕で投擲する。それは弾丸のように高速でビルへ向かったが、見た目とは裏腹に軽い身のこなしで回避したケムリは民家の一つの上に落下する。踏み潰され、中からはぐしゃりと血と肉が爆ぜ、悲鳴……というよりは奇妙な鳴き声のようなものが響き渡った。女は舌打ちし、声を上げもう一度岩を投げつける。それは舌先で射抜かれ……そのまま矢のように放たれた舌は真っ直ぐに女の胸を射抜き、背後の壁に刺さって女を串刺しにした。
身動きがとれず、声にならない声と空気の抜ける音を喉から搾り出す女……。いくら頑丈な身体と言えども、あんな攻撃を受けては持たないだろう……。しかし女は執念強く舌をがっちりと両腕で掴んで言った。
『私は……私は、お前らなんかの為に死んでやらない……! 私は、自分で選んだ場所で……ゴホッ!』
咽る女の口から血が飛び出す。だが呪われた両腕に込めた力は抜かなかった。硬質化したその舌の槍を胸から強引に引き抜きながら、言葉を続ける。
『……自由に生きて、自由に死ぬ……! その権利が、私にだってあるはずだ……っ! お前らに私の人生の全てを……! 呪われた……ものに……! されて――たまるかぁああああああああああッ!!!!』
血を派手にぶちまけながら女は引き抜いた舌をしっかりと掴んだまま、身体を反転――。大地をが音を立てて陥没するほどの力を込め、思い切りそれを引っ手繰る。ケムリが悲鳴を上げ――その身体が引き摺られる。自らの何倍もの大きさを誇るケムリを引き摺り、女は血がべっとりと張り付いた前歯を噛み締め、その舌を根元から思い切り引っこ抜いた。
街に轟くいくつ物悲鳴――。高い声、低い声、しわがれた声、無邪気な声……。全てが声、声なのだ。ケムリの周囲にあったモヤが一瞬晴れ……その中身が露になる。
それは、肉の塊だった。肉と肉が絡まり、融和し、人の形を作っている。赤子や、老人や、男や女が呪われ、呪われ、呪いの果てに一つになって言葉も意思も失った姿……。やがて数え切れない口から吐き出される煙が再び奴の身体を覆い尽くす。女は……引きちぎった長い下を投げ捨て、肩で息を続けていた。
肺がつぶれたのか、上手く呼吸が出来ていない。口からも鼻からもボタボタと血が流れ続けている。女の足元には……信じられない量の出血が水溜りを作っていた。女もきっと驚くだろう。それが全部、自分の血なのだと気づいたならば――。
女は死ぬ……それはもう目に見えて明らかだった。だがそれでも女はまた前に歩き出す。この村は滅ぶだろう……あの巨大なバケモノの腕にて……。大穴の開いたウェディングドレス……それを指先でなぞり、女は寂しげに笑っていた。
あいつの人生は……幸せな物だったのだろうか? 俺には彼女の過去までは判らない……。判ってやりたくても……わからないんだ。一緒に闘ってやりたくても……闘えないんだ。何故俺には身体がないんだ! あんなにも頑張っているやつがいるのに……。生きようとしているんだ。どんな自分でも……それを受け入れようとしているんだ!
俺は窓から小屋の中に戻り、まだ眠り続けている憎たらしい小娘の身体に腕を伸ばした。しかし……すり抜けてしまう。お前が動いてくれないと、あそこまでいけないんだ。お前を守ってくれた大事な人が……死んでしまうんだ。起きてくれ! 目を覚ましてくれ! 俺を――彼女のところに連れて行ってくれ!!
「…………」
その、祈りが通じたのだろうか……。少女はゆっくりと瞼を開き、身体を起こした。傍にバケツ女がいない事に気づき……慌てて走り出す。そうだ、走れ。走るんだ。お前の大事な人を守るんだ。俺はお前と一緒に行く。やる事もないしどうすればいいのかもわからないけど、俺はお前らをずっと見てきたんだ。
たった一週間……二週間……たかがそれだけの付き合いだ。ああ、そうだ。けれども俺は――俺は、お前たちと一緒に旅をしたんだ。だから……だから、勝手な申し出かもしれないが……仲間だって、そう名乗ってもいいと思うんだ。お前らは――どう思うか、わからないけれど。
俺は飛ぶよ。お前がそこに向かってくれるなら、ずっとずっとついていく。お前のそのおぼつかない足取りを、傍でずっと見ていてやる。だから……走れ、走るんだ! 名前も声も知らない“誰か”よ……! お前の為に……。お前自身の為に、走れ――!
ふらつく女に巨大なケムリが迫っていた。女は諦めたように……しかし決して引かず、その両腕を構える。血塗られた黒い布が風に揺れ――バケモノはその巨大な腕を振り上げる。あれでは文字通り、ぐしゃりとつぶされて一環の終わりだ――。
どうにか……どうにか助けたいと思った。身体も持たない記憶も持たない俺がそんな風に思うのは場違いだって言うのはわかっている。だが……助けられるのなら助けてやりたい。当たり前だろう? 見てきたんだ。見ていたいんだ。これからも――出来れば、ずっと――。
振り下ろされる腕……。衝撃が広がった。だが……目を瞑っていた女の身体は無事だった。女はさぞかし不思議だっただろう、ゆっくりと顔を上げ……目の前にあるものを凝視する。それは――青白い霧で包まれた十字架が……大地から無数に生える景色だった。
燃える蒼い炎は振り下ろされたケムリの腕を貫き、それだけでは飽き足らず黒い煙を燃やして侵食して見せる。片腕の中身が露出し、ケムリはそれを庇うように腕を引っ込めこちらを見つめた。同時に――女もまた振り返る。
肩で息をし、少女はバケツ女の傍に駆け寄った。そうして血塗れで傷だらけのその姿を見て……酷く憤慨した様子でわなわなと身体を振るわせた。制御出来ない感情をそのまま晒すように叫んだ少女は、左目の眼帯を吹き飛ばし燃え盛る蒼い眼差しでケムリを射抜いた。
少女の上半身が蒼い炎で覆われていく……。それは拘束具だけで覆われていた彼女の素肌を守るヴェールとなって風にはためいた。手の中に浮かぶは無数の魔方陣――。それを束ね――少女は“闇”を引きずり出した。
手にした物は、蒼い炎を纏った巨大な巨大な斧――。少女の身長の二倍はあろうその巨大な斧を両手で構え、ケモノのようなうめき声を上げながらバケモノを見上げた。ああ、言葉がわからなくなってお前の気持ちは分かる。お前は……今とても“怒っている”んだろう?
そうだ、少女は怒っていた。大切な人を傷つけられて、怒っていた。今まで一度として怒る事を知らなかった少女……その心の中に芽生えた闇。それを隠そうとも、奇麗事で片付けようともせず……。純粋な、本能的な殺意を手に少女は駆け出した。蒼き――。禍々しい、闇と共に……。
~にこにこ! アジュール劇場~
*最早なんでもいいんだろ? 前につくのはさ……*
主人公「…………?」
俺「いや、無理だろう……誰も喋れない、意思疎通が出来ない小説で劇場は……と、俺は思った」
主人公「……」
俺「少女は“ここはどこ?”という不思議そうな顔をしている。それは俺も聞きたいところだが……どうやら夢の中かどこからしい。いや、それ以外には考えられない」
主人公「…………」
俺「しかし……まさか名前のないキャラクターだらけの劇場がこんなカオスになるとは……誰も思っていなかっただろうな……」
主人公「………………!」
俺「……何? わたしが頑張ってこの小説を明るく盛り上げていく……? 無理だろう……。タグみたか? バッドエンドって入ってるぞ」
主人公「!?」
俺「“はわわ……そんなの知らなかったぁ~!”という顔をしている」
主人公「…………?」
俺「いや……誰に語ってるのって言われても……。いや……誰なんだろうな……」