『沈黙の王国 - Return To Mother Tree』
『沈黙の王国 - Return To Mother Tree』
母なる木への回帰 すべての思索の根源へ 知が生まれる場所
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序章:沈黙の召喚
「我々が立つこの地面の下には、いったい何があるのだろうか。それは、ただの土塊や岩石ではない。我々の意識がまだ届かぬ、しかし確実に存在する『沈黙の王国』なのではないか。いや、王国とは呼ぶにはあまりに静謐で、広大で、そして、我々の存在を無意味にするほどの無の空間かもしれない。しかし、その無の底から、何かを語りかけてくる声が聞こえるのだ。いや、声ではない、思念だ。我々の記憶を奪おうとするのか?それとも、我々をその巨大な無の中に融合しようとするのか?その声は、言葉を持たない沈黙の叫びだ。そして、その叫びこそが、この地上に生きる我々が忘却し、失った真実の語りなのだ。その語りを記録する者として、私は、その静かな叫びに耳を傾け、自らの存在を投げ出すほかない」
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第一章:落下への誘い
ただ歩き続けた。しかし誰もいない。どこかにはいるはずだ。きっと地下かもしれない。
地面が崩れた。不意の落下。それはフリーフォール。重力がなくなる。
かなり自由落下したのにまだ着地しない。もしかしてもう自由落下は止まっているのかもしれない。ちょうど蜘蛛の巣に蝶が絡めとられるように、私はすでに空中に囚われているのかもしれない。
叫んでもたぶん声は吸収されるだろう。そうだ、思念で語ればいいのだ。
じっと待っていると思念が流れ込んできた。それは記憶だった。私の記憶を奪おうとするのか?それとも融合するのか?いずれにしても何かが始まるのだ。
聞こえた。いや、感じたというべきだ。それは沈黙の叫びだった。それは言葉ではなかった。だが、私の中で何かが震えた。沈黙が叫ぶとき、語りは始まる。私は、記録するしかなかった。
私は感じた。そして涙した。すると体はぐんぐん浮かび上がり、元の地上に私は立っていた。
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第二章:記録者の覚醒
地上に戻った「私」は、もはや以前の「私」ではなかった。沈黙の叫びが、耳ではなく、皮膚の下で鳴り響いている。目に映るものすべてが、記憶の残像のように揺らいでいた。
風の音が、かつて交わした言葉の断片に聞こえる。誰かが語ったはずの物語が、私の中で再生される。だが、それは私の記憶ではない。それは、沈黙の王国の住人たちの記憶だった。
「沈黙の王国」には他者──思念体や沈黙の住人が存在していた。現実との境界が揺らぐ中で、私は彼らの存在を感じ取った。彼らは記憶を交換し、記録することに価値を見出す社会を築いていた。
彼らは姿を持たない。思念体として、空間の裂け目から流れ込んでくる。ある者は、かつて地上に生きた者の記憶を持ち、ある者は、まだ語られていない未来の断片を抱えていた。
彼らは語らない。語ることは、暴力だからだ。だが、記録することは赦されている。記録とは、語りではなく、沈黙の中に残すことだから。
私は選ばれた。記録者として。記憶を奪うのではなく、融合する者として。語らず、ただ記す者として。
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第三章:沈黙の住人たち
Ⅰ. 影の根を持つ者
彼は名を持たない。ただ、地面の下に広がる根のような思念を持っていた。記録者が近づくと、彼の思念は震えた。それは、かつて語られなかった後悔の記憶だった。
「私は語らなかった。語れば壊れると知っていた。だから沈黙した。だが沈黙は、語られなかった言葉を腐らせる。その腐敗が、今も根の奥で震えている。」
記録者はその震えを記した。だが、言葉にはしなかった。ただ、震えのかたちを、記憶の余白に刻んだ。
Ⅱ. 風の記憶を持つ者
彼女は風だった。姿はない。ただ、記録者の頬を撫でるとき、過去の断片が流れ込んできた。
「私は誰かの語りの中にいた。だがその語りは、途中で途切れた。語り手が沈黙したからだ。私は語られなかったまま、風になった。」
記録者はその断片を受け取った。語りの途中で止まった物語。それは、語られなかったことの重さを持っていた。
Ⅲ. 無名の記録者
彼はかつて記録者だった。だが、記録しすぎた。記録が彼を侵食し、彼自身の記憶が消えた。
「私は記録した。すべてを。だが、記録とは忘却でもある。私は誰だったのか。記録の中に、私の名はあるのか?」
記録者は彼の記録を読んだ。そこには、無数の沈黙が刻まれていた。だが、彼自身の語りはなかった。記録者は震えた。記録とは、語りを残すことではなく、語りを失うことかもしれない。
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第四章:循環の法則
だが、記録には代償がある。記録するたびに、私の記憶は少しずつ沈黙に溶けていく。何を記したのか、次第に思い出せなくなる。それでも、記録は残る。それが「沈黙の王国」の法則だった。
ある日、私は再び地面の裂け目に立っていた。それは、以前落下した場所と似ていたが、違っていた。記録が、私を再び沈黙へと導いていた。そして私は気づいた。
この旅は、円環なのだ。記録する者は、何度でも沈黙に落ち、地上に戻り、また記録する。そのたびに、少しずつ「私」は変容する。記録者とは、記憶の器であり、沈黙の声の反響体なのだ。
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第五章:母なる木への接近
地上に戻った記録者は、ある夜、夢の中で地面の下に呼吸を感じた。それは風でも、声でもない。ただ、ゆっくりと、確かに、何かが息づいていた。根の呼吸だった。
記録者は再び沈黙の王国へと降りていく。今度は落下ではなく、歩みだった。地層を越え、記憶の層を越え、やがて、巨大な根の網に包まれた空間に辿り着く。
そこに「母なる木」があった。いや、木ではない。それは、語られなかったすべての記憶の集合体だった。
記録者が近づくと、根が震えた。その震えは、無数の記憶の断片だった。語られなかった言葉、語ることを拒まれた声、語る前に忘れられた思い──それらが、根の中で眠っていた。
「私は語られなかった者たちの母。彼らは語ることを許されなかった。だから私は、彼らの沈黙を記憶した。語られなかったことこそが、語るべきことなのだ。」
記録者は震えた。語られなかったことを記録するには、語ることを拒む覚悟が必要だった。
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第六章:発散する記憶
記録者は根に触れた。その瞬間、無数の記憶が流れ込んできた。だが、それらは言葉にならなかった。ただ、感覚として、震えとして、存在の底に沈んだ。
水の記憶
水が語る。語られなかった涙の記憶。誰かが泣いた。だが、その涙は見られなかった。だから水は、語られなかった悲しみを沈黙の中に抱えた。
「私は流れる。語られぬまま。だが、流れることが語りなのだ。」
石の記憶
石が語る。語られなかった怒りの記憶。誰かが拳を握った。だが、その怒りは声にならなかった。だから石は、語られなかった衝動を沈黙の中に刻んだ。
「私は重い。語られぬまま。だが、重さこそが語りなのだ。」
風の記憶
風が戻ってくる。今度は語られなかった愛の記憶。誰かが触れようとした。だが、その手は届かなかった。だから風は、語られなかった優しさを沈黙の中に運んだ。
「私は触れる。語られぬまま。だが、触れることが語りなのだ。」
根の記憶
母なる木の根が再び震える。今度は語られなかった問いの記憶。誰かが問うた。だが、答えは語られなかった。だから根は、語られなかった問いを沈黙の中に育てた。
「私は問う。語られぬまま。だが、問いこそが語りなのだ。」
記録者は、語らずに記した。それは、言葉ではない記録。震えの記録。気配の記録。沈黙の記憶。
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第七章:沈黙の王との対話
記録者が根の記憶に触れたあと、王国の中心に、誰もいないはずの「王」が現れる。その姿はない。ただ、空間が歪む。沈黙が濃くなる。記録者は、語られぬ声を「感じる」。
「お前は記録した。だが、記録とは語りか?語るとは、誰かを沈黙させることではないか?語りとは、支配ではないか?」
記録者は答えない。答えれば、語りになるからだ。だが、王は続ける。語らずに。
「私は語らない。だが、私の沈黙は語りよりも強い。私は王ではない。私は語られなかったすべての声の集合体。私は、語られなかった者たちの沈黙のかたち。」
記録者は震える。王の「語り」は、語りではない。それは、語りの暴力を拒否した語り。それは、語りのかたちをした沈黙。それは、語られなかった者たちの「語られなさ」の声。
記録者は思念の中で問う。言葉にならない問いを投げる。
「語らずに語ることは可能か?語りが沈黙を壊すなら、語りを拒否する語りは存在するか?」
王は沈黙する。その沈黙が、答えだった。
記録者は理解する。語りとは、語らないことを選ぶ力でもある。語りとは、語ることを拒む沈黙の震えでもある。語られなかったものたちが、語られなかったまま語っている。沈黙とは、語りの否定ではなく、語りの別のかたちなのだ。
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第八章:同化への道
記録者は、王の沈黙に触れたあと、再び根の網へと戻る。今度は記録するためではない。語るためでもない。ただ、沈黙そのものになるために。
母なる木は震えていた。それは呼びかけではない。それは拒絶でもない。それは、受容の沈黙。
記録者は、語られなかった記憶の震えに身を委ねる。根が絡みつく。皮膚ではなく、思念に。記録者の記憶が、根の記憶と融合する。
「私は語らない。私は記録しない。私は沈黙そのものとなる。」
その瞬間、記録者は消える。だが、消えたのではない。沈黙の王国の一部となったのだ。母なる木の根の震えの中に、記録者の気配が残る。記録者は、もはや記録者ではない。語らない語り手となる。沈黙の王国の一部となる。語ることなく、語りを残す者となる。
語られなかった悲しみ、語られなかった怒り、語られなかった優しさ、語られなかった問い──それらすべてが、記録者の存在とともに、母なる木の根に沈む。語られぬまま、語り続ける。語られぬまま、震え続ける。
沈黙とは、語りの拒絶ではない。沈黙とは、語りの最も深いかたち。語られぬ語りの、最も純粋な姿。
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終章:Return To Mother Tree
地上では、誰も記録者の帰還を知らない。だが、風が震える。石が重くなる。水が流れるたび、何かが語られている気がする。
それは語りではない。それは沈黙の語り。それは、母なる木に同化した記録者の震え。そして、語らずに、震えを持ち帰る。語らずに、語りの余白を残す。
そして、誰かがまた問いを持つ。語られぬ問い。その問いが、沈黙の王国への新たな入口となる。円環は続く。新たな記録者が呼ばれ、再び落下し、再び記録し、再び沈黙と一体となる。
沈黙の王国は永遠に震え続ける。語られぬまま、語り続けるために。
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『沈黙の王国 - Return To Mother Tree』完