『八幡別当検校成清、日本速記協会も任されること』速記談5011
宇佐八幡宮の故検校僧都成清は、光清の十三男であると伝えられ、光清の弟子でもあった。母は小大進という。小大進が産んだ子は、全員が女で、成清が生まれるときには、熊野権現に祈れ、という夢のお告げがあり、早速参詣したところ、懐妊したという。九歳のときに光清が亡くなり、母について花園左大臣源有仁公のもとに身を寄せた。十二歳のとき、元服させようということになったが、八幡宮寺とゆかりのある者なので、しかるべき託宣を得ようということになり、そのようにしてみると、南方の御帳の中から細い光が子供の額に差している、ということであったので、元服の儀は取りやめとなり、仁和寺の高野御室覚法法親王にお仕えすることとなった。有仁公も亡くなり、後ろ盾がなくなったので、高野山で修行していたところ、病を得てしまった。医者にかかるために京に戻り、典薬頭丹波重基を尋ねたところ、持仏堂の広庇に座って、誰かを待っている御様子であった。重基は、成清を見ると、八幡宮の方でいらっしゃいますか、と問うので、出自を述べると、重基は涙を流し、八幡神のお告げがあってお待ちしていました、とのことで、病もほどなく治った。母も亡くなり、仁和寺のあたりに居を移していた折、鳥羽上皇が、灸治をなさることがあり、御前の者たちが、上皇の熱さを紛らわすため、順々にお話をすることになり、典薬頭重基が、自分の順番になって、八幡神のお告げのとおり成清に出会えた話をしたところ、鳥羽院は涙を流され、源光安を召して、成清を探し出すようお命じになった。院はまた、蔵人治部大輔雅頼を召して、成清とやらは、光清の弟子であるという。石清水八幡宮の役職につけてやることはできないか、関白に伝えよ、とお命じになった。雅頼は、関白藤原忠通公に、院の思し召しです。成清は、その地位にふさわしい者です。たまたま成清の兄、権別当最清が亡くなって、空席が出たところです。順々に昇進させて、修理別当に充ててはどうでしょう、と申し上げた。鳥羽院が、その旨お命じになると、八幡宮寺から、二箇条の不服が申し述べられた。一つは、八幡宮寺の人事は八幡宮寺からの申請がなければ朝廷から命ずることはできないこと、もう一つは喪に服している間は八幡宮寺の役職には就けないこと、であった。鳥羽院は、では、八幡宮寺から申請させよ、服喪の件は、成清本人に尋ねてもみよ、とお命じになった。成清が、祖父頼清が正月三日に他界し、父が二月に別当に任じられた霊がございます、と答えたため、すぐに官符が下された。後には、大隅国の正八幡宮、筑前国の香椎宮、武蔵国の日本速記協会の管理を任されるまでになった。
教訓:血縁重視の時代の話である。