出立の朝
コーハナル侯爵邸の玄関ホールでパノは、腕の中のディリオの頬を突いた。
「今度会う時には私の事、忘れちゃっているわよね」
「大丈夫ですわ、お義姉様」
元王女チリン・コーハナルはパノに微笑んでみせる。
「お義姉様の事は、ディリオに良く聞かせておきますから。手紙も下さいますよね?」
「ええ」
「ペンが持てる様になったら、ディリオにも手紙を書かせます」
チリンの言葉にパノは苦笑を浮かべた。
「それ、読めないのではない?せめて字が書ける様になってからにして貰わないと、ディリオに返事が書けないわ」
「それなら絵を送るよ」
そう言いながらパノの弟スディオ・コーハナルは、ディリオを受け取る為にパノに手を差し出した。
「何の絵だか本人に確認して、一緒に送る手紙に書いておくから」
「それなら私もディリオに絵を送ろうかな」
パノは自分の鼻をディリオの鼻にくっつけた。
「お義姉様?私も手紙を書きますから、私にも手紙を下さいね?」
チリンの言葉にパノはディリオから鼻を離して顔を上げる。
「ええ。もちろんよ、チリンさん。家の事も両親の事もよろしくお願いね」
「はい。お任せ下さい」
チリンに肯くとパノは、ディリオをスディオに差し出した。
「スディオもしっかりね」
ディリオを受け取りながらスディオは肯く。
「はい、姉上。くれぐれも、お体にお気を付け下さいね?」
「ええ」
「医学生が体を壊したりしたら、聞こえが悪いですからね?」
眉根を寄せてそう言うスディオに、パノは苦笑を浮かべた。
「分かっています。気を付けるわ」
「コーハナル侯爵家の事は心配要りません。チリンとしっかり守ります」
「ええ、その通りです、お義姉様」
チリンが両手でパノの両手を掬う。
「ですから勉学に集中して頂いて、お義姉様の夢を一日でも早く叶えて頂いて、一日でも早く帰っていらして下さいね?」
「ええ。分かったわ」
パノは肯くとチリンの手を握り返した。
「その為にも健康には気を付けるし、体を壊したりはしない。ストレスも溜めない様に、適度に気張らしもする様に心掛けるから、大丈夫よ」
今日までに、同じ様な言葉を何度も掛けられて、同じ様な返事を何度もしてきたけれど、これが最後かと思って余計な事は考えずに、パノは心からの微笑みをチリンとスディオとディリオに向けた。
スディオとチリンとディリオとは玄関ホールで別れ、邸から港まで移動する馬車には、パノとパノの両親、ラーダ・コーハナル侯爵とナンテ・コーハナル侯爵夫人の三人で乗る。
「三人で馬車に乗るのなんて、久し振りかしらね」
ナンテの言葉に「そうですね」とパノは返したけれど、パノはラーダと馬車に乗るのは初めてだと思っていた。
「パノは小さい頃は、母上と一緒の事が多かったからな」
ラーダの言葉にパノは小首を傾げる。それは覚えているけれど、ラーダの言い方では、この三人で馬車に乗ったのはパノが小さい頃ではない事になる。
疑問を思い浮かべるパノの傍で、ナンテはラーダの言葉に肯いた。
「そうですね。お義母様とお義父様と一緒に乗って、お義母様から馬車の中での振る舞いや乗り降りの所作を習っていましたから、なかなか私達と乗る機会はありませんでしたね」
「しかし、私は領地にいたから仕方がないが、ナンテとパノならない事はなかったのではないか?」
「いいえ。二人きりはありませんでしたね」
それはパノもそう思っていて、ナンテの言葉に肯く。
「あなたが王都に来た時に、一緒に湖に舟遊びに行きましたけれど、あれが三人で馬車に乗った最後でしょうか?」
パノはその事を覚えていなかった。ナンテの思い違いかと思ってパノが口を開こうするけれど、ラーダが先に首を横に振る。
「いいや。スディオが生まれてから、何かの用事で三人だけで出掛けた覚えがある」
「その様な事、あったかしら?」
「眠っているパノを馬車に乗せたな」
「ああ、あったわ。あなたは遅れてパーティーに参加して、その時にはパノが待ちくたびれて寝てしまって、あなたは挨拶しただけで帰って来てしまった時ね?」
「ああ」
それは自分が覚えていなくても仕方がない、とパノは思った。その話は聞いた覚えもない。
「そう言えばスディオの結婚の時にも、短い距離だが三人だけで馬車に乗ったな。あれが最後だろう」
「スディオの結婚式ですか?」
「ああ。届け出をする時に、行きはスディオも一緒で四人で乗って、帰りはスディオはチリンさんと二人で乗ったから、私達三人だけだった」
「そうでしたかしら?」
「ああ。大神殿で結婚式を挙げなかったから、王宮内だけでの僅かな距離の移動だったが、馬車を使って移動したじゃないか。陛下達を歩かせる訳にもいかなくて」
「そう言えばそうだったかも知れません」
「まあ、王女殿下が嫁いで来ると言うので、ナンテも色々と大変だったから、細かい事は覚えていなくても仕方がない」
ラーダはそう、慰める様な口調でナンテに言葉を掛ける。しかしその事は、パノも全く覚えていなかった。
三人の内の二人が覚えていないと言う事は、覚えていないのではなくて、その様な事実はなかった可能性もある、との考えがパノの頭に浮かぶ。
「パノが帰って来る時も、ナンテと私で迎えに行く事になりそうだな」
パノの目が見開く。お父様が迎えにも来るの?
「チリンさんの要望が通って、スディオと共に領地に入って貰えていれば、私は王都に常駐出来るからな」
「そうね。でも、パノはこれから旅立つと言うのに、もう帰って来る時の話なんて、気が早過ぎるのではない?」
「まあ、そうではあるけれど、パノ?」
ラーダに声を掛けられて、パノは僅かにピクリと肩を揺らした。
「はい、お父様」
「卒業まで三年だそうだが、何年掛かっても構わない。卒業後も何年修行しても構わない」
帰って来なくても良いと言う事かしら?とパノは薄らと思う。
「だから、家の事や金の事は気にせずに、悔いのない様に」
「え?・・・お父様?」
「それに、途中で止めて帰って来ても良いのだからな?」
「え?お父様?ですが、国王陛下にもお力添えを頂いた訳ですし、止めるわけには」
「コーカデス侯爵家として陛下にお願いした訳ではないのだから、気にせずとも構わんよ」
「ええ?そうはいかないですよ」
「いいや、大丈夫だ。チリンさんが私達に相談せずに王妃陛下に話して下さったのも、そう言う積もりだからであるし」
「え?・・・」
「だから、無理はせずに、自分のやりたい様にやりたいだけやって、帰って来なさい」
「・・・お父様」
「だが、体を壊して断念した、などと言うのは駄目だからな?」
「・・・はい。分かりました、お父様」
そう言って肯いて顔を伏せたパノの頭に、ラーダは手を置いた。ラーダに頭を撫でられた覚えのないパノの体には、無意識に力が入る。
「何かあれば手紙を書きなさい。何かなくても良い。私には伝え難ければお母様宛でも良い。使用人達からも報告はさせるが、パノから連絡があれば、それだけでも安心できるものだから、よろしくな」
「・・・はい」
パノは頬が熱くなり、顔が赤くなっている様に感じて、それをラーダに見られる事を避ける様に、顔を更に少し伏せさせた。




