硬直
バルは腕の中のラーラが、身を竦めた事に気が付いた。
「ごめん、ラーラ。驚かせたね?」
そう言ってバルが背中を撫でると、ラーラが更に体を硬くするのが分かる。
「ごめん。大きな声を出して済まなかった」
ラーラが小さく弱く首を左右に振るけれど、それが返事なのか震えなのか、バルには判断できない。
ラーラの心に傷が残っている事に付いて、バルは久し振りに思い知らされた。最近にないラーラの様子にバルは慌てる。触れているラーラの背中からは、ラーラが息を止めているのが分かる。
取り敢えずラーラの背中を撫でる事は止めたけれど、他にどう対処をしたら良いのか、バルには直ぐには思い浮かばない。バルの思考は焦りから上滑りするし発散した。
そしてラーラのその様子に、ラーラが今、自分の腕の中で、自分以外の男の事を思い出している事を想像して、バルの心は昏くなる。
体を離した方が良いか?そう考えてバルが身動ぐと、ラーラは更に体を硬くした。その事がバルの心を更に昏くする。
ラーラはバルと触れ合う事が出来る様になってから、もう思い出す事はないと言っていた。
それはまさにその通りで、今もラーラは思い出してはいないのだけれど、しかしラーラの心の奥底の忘れられない恐怖に、ラーラの体は縛られていた。
自分の上げた荒い声をラーラが恐れ、自分の身動きでラーラが更に恐怖を募らせる。
バルはその事に対しての昏い歓びが、自分の中に芽生えている事を感じた。自分の歓びを意識する事が、更に昏い歓びを喚ぶ。
今、ラーラの感情を呼び覚ましているのは自分の言動なのだ。このままラーラの心を制御したい。そして支配してしまいたい。
バルは、硬いラーラの体を強く抱き締めた。
ラーラの心を自分への恐怖だけで塗り潰したい。自分への感情だけで溢れさせたい。他の男の感触など、ラーラの中から流し去りたい。
強く、強く、更に強く抱き締めて、バルはラーラの全てを自分の全てで覆い尽くして埋め尽くそうとした。
ラーラの息は止まってしまっていたけれど、バルに締め付けられて、とうとうラーラは物理的に息を吐いた。それが切っ掛けでラーラは、自分の体の制御を取り戻す。
「バル」
ラーラの声にバルは我に返った。バルは慌てて腕の力を緩める。
「ラーラ、ごめん」
「うん」
ラーラは長く息を吐いた。そして深く息を吸い、大きく息を吐いて、それをもう一度繰り返す。
「大丈夫」
「ごめん」
ラーラはバルの腕の中から腕を引き抜き、バルの頬に手のひらを当てた。
「大丈夫よ?びっくりしただけだから」
「済まなかった」
「ううん。大丈夫」
ラーラはバルの体の下に片方の腕を捻り込み、頬からも手を離してバルの腕の下にもう一方の腕を潜らせ、バルの背中に両腕を回す。そしてお返しとばかりに、バルを力一杯抱き締めた。
バルも、今度は加減をして、ラーラの体を抱き締め返す。
二人の体の間の隙間が、これまでになく失くなった。
「バル?」
バルの胸に強く頬を当てて、ラーラがバルの名を囁く。バルは声を緩めて返した。
「うん?」
「うん」
なにが「うん」なのか分からなかったけれど、バルも「ああ」と返してラーラの髪を撫でた。
バルの心の上辺は、ラーラの様子が戻った事に明るく安堵をしていた。
しかしその直ぐ下では、見知らぬ誰かへの嫉妬がくすぶっている。
その嫉妬の下では、ラーラを塗り潰したい情動が、嫉妬に熱されて対流を起こしたり、ぼこりと泡を立てたりしていた。
その更に下、バルの心の深い所には、先ほど表面に顔を出したラーラを失う事への恐怖が、まだ冷えずに蠢いて、バルの心の底の方から低周波で、バルの心全体を揺らしている。
バルは髪を撫でる手を止めた。
「もう、今日は寝ようか」
気持ちの揺らぎを警戒しながらのバルの言葉に、ラーラはバルの胸から顔を上げる。
「ミリの結婚の話は良いの?」
「あ~、また今度でも」
「そう?」
「ああ」
「・・・私なら、大丈夫だけど?」
ラーラに言われてバルは「う~ん」と首を僅かに傾げた。
「まだ、俺の中で、良く考えが纏まってないし」
「そう?」
「ああ」
「・・・それだから相談してくれたのかと思ったのだけれど」
ラーラの言葉はだんだん遅く、声はだんだん小さくなり、続けられた「そう」の一言は息を漏らした音の様だった。それはバルに焦りをもたらす。
「あ、いや、でも、考え方を変えたいんだと言うだけで、まだミリを結婚させたいとは思えていないんだ」
「そう」
「ああ」
「そうなのね」
「ああ。ミリが幸せになるのなら、結婚もあるかとは考えるけれど、気持ち的にはまだ、ミリを嫁にはやりたくない」
「それって・・・ミリが結婚したいって言ったら?」
バルは無意識に一瞬息を吸い込み、そこで呼吸を止めた。そして言葉を捻り出す。
「ミリが、自分で選んだのなら、それが、ミリの幸せになるのなら、結婚も致し方ない」
「ミリの幸せが優先?」
「それは、もちろんそうだよな」
バルは肯きながら、納得した。そうだよな。ミリの幸せが優先だよな。
「でも、相手がレント殿なら」
バルはレントの名に緊張する。それはまた自分がラーラに対して、声を荒げてしまわないか不安に感じたからだ。
「結婚させないのね?」
自分の状態に注意を向けてしまっていたバルは、ラーラの言葉の流れが掴めなかった。
「え?レント殿と?」
「え?違うの?」
「いやなんでレント殿なんだ?」
「だってさっき、大きな声で、レント殿を否定していたじゃない」
「いや、まあ、レント殿との結婚は、でも、そうだな。コーカデス家が認めないのではないか?」
「え?」
「え?・・・えってなに?」
「バルは認めるの?ミリとレント殿の結婚」
「いや、だから、コーカデス家が」
「コーカデス家が認めたら、バルはミリとレント殿の結婚を認めるの?反対なんじゃないの?」
「いや、それでミリが幸せになるなら、相手がレント殿でも認めるしかないだろう?」
ラーラは視線を下げて、「そう」と呟いた。




