真実の愛
「生活費は、どちらの邸に届ければ良いのですか?」
レントは離籍届に早速サインをしながら、父スルトを見ずにそう尋ねた。叔母リリはその様子を心配そうに見ている。
レントが躊躇わずにサインする様子に鼻白んだスルトは、椅子の背凭れに寄り掛かった。
「取りに行かせる。その往復の費用も請求するから出すのだ」
「え?費用?もしかして、コーカデス領ではないのですか?」
レントが顔を上げて驚いた顔をスルトに見せる。スルトは少し気を晴らした。
「その通りだ。温かい所でのんびりと暮らす」
「住む場所とか、どうするのですか?」
「邸を買った」
「買った?お金は?お金はどうするのです?」
「既に払ってある」
「え?・・・まさか、還付金で?」
「もちろんだ」
「あれは領地のお金ですよ?それを勝手に使ったのですか?」
「あれは私が申請して手に入れた金だ。私が使い切って何が悪い」
「父上?父上が還付金の記帳などしていなかったのは、その積もりだったからですか?」
「記帳なんてのはお前がやっておけ。私はもう領主ではない」
スルトはレントがサインした離籍届を手に取る。そしてそれをレントに向けて揺らして見せた。
「それにもう、コーカデス家の人間でもないのだからな」
実際には届を王宮が受理してからだと思いながら、楽しそうに笑うスルトにレントは忠告しようとする。
「父上」
「もうお前の父ではない!」
スルトは腕を伸ばし、離籍届をレントの目の前に掲げる。レントは反射的にスルトの手を払いそうになったが、腕をピクリとさせただけで何とか堪えた。そもそもレントの腕の長さ的には届かないけれど。
「それは横領となります」
「何を言う」
レントはスルトがそんな事も分からないのかと思ったが、スルトはスルトで理屈を用意していた。
「私がどこにいるのか、私の居場所をお前が町長達に教えたのだろう?」
「え?何の事です?」
「私の大切な女性の家に私を捜しに来た後も、町長達の手の者が家を回りをうろついているそうではないか?」
「・・・それが何か?」
「何かだと?彼女がどれほど怖がっているのか、お前には想像も出来ないのか?」
どこをどう想像すれば良いのかさえ、レントには分からない。
言葉に詰まるレントを見て、スルトは気分を良くした。
「その彼女を救い出す為には、新たな邸が必要なのだ。それは誰にも秘密にして用意しなければ、また町長達にうろつかれる」
「だからと言って、コーカデス領のお金を使って良い事にはなりません」
「いいや。邸を買ったのは私が領主の内だ。領主として、彼女の不安を取り除く必要があったのだ」
レントはこの話を続けるのは無駄だと悟った。
確かに領主の裁量で対応したと言い張られたら、領地として費用を負担するしかない。
しかしだからと言って、レントの祖父母、スルトの両親にも会わずにその新居に移り住むつもりなのか。そうだとしたら、スルトの考えがレントには分からなかった。
確かにこの様な、何の相談もせずにコーカデス家の籍を出る事になどして、祖父母がスルトを許すとはレントには到底思えない。許さないとしても、だからと言って取る手段が勘当なら、結果は同じなのだろうけれど。
それに会ったら会ったで掴み合いとか、もしくは殴り合いとかが、スルトと祖父の間で行われそうだ。
だがたとえそうなのだとしても、祖父母との親子の縁をスルトが簡単に切ろうする事が、レントには理解出来なかった。もし自分なら最後に祖父母にも叔母にも会って、別れの挨拶がしたいとレントは思う。
「お祖父様とお祖母様には、お会いにならないのですか?」
「もう親子ではないのだ。会う必要などない」
スルトがもう一度離籍届を強調した。
レントは最後の取捨をスルトに突き付ける。
「それでは今後は、コーカデス姓を使わないで頂きたい」
「もちろんだ」
スルトの答えを聞いたリリは驚いたが、予期していたレントはやはり駄目かと思っただけだった。
スルトが両親に対しても家に対しても愛着を持っていない事が、レントにははっきりとした。それなので今回の様な話をスルトがして来るのだし、自分がスルトを説得出来る事はないとレントは判断する。
「私は平民になるのだ。彼女にはあの様な窮屈な家も、あの様に偏屈な舅も姑も必要ない。誰も私達の事を知らない場所で、二人で幸せに暮らすのだ。コーカデス姓など不要だ」
レントは驚いた。スルトが女性の為にコーカデス家を出ると言っている様に聞こえたからだ。
「その方と結婚なさるのですか?」
「ああ、もちろんだ。その為に私は貴族籍を抜けるのだ」
なるほど、とレントは小さく肯く。意味が分からなかった離籍も、スルトに取っては平民と結婚する為の手段だったのだとレントは納得した。
確かに相手が平民なら、貴族家の養女としてから嫁がせる方法がある。ラーラがバルと結婚した時もそれの一種だ。
だが今のコーカデス家には、その様な縁を作って貰えそうな貴族家がない。かなりの条件を提示しなければ、引き受けては貰えないだろう。そしてそれはコーカデス家に取って、マイナスになるに違いない。
そう考えるとレントには、スルトがコーカデス家の事を考えている様に思えなくもなく思える。
「私は真実の愛を見付けたのだ。私の残りの人生は、彼女に捧げる。その為にはコーカデス家になど、縛られている訳にはいかないのだ」
陶酔した表情をする父親を見て、レントは自分の考えが間違えの様に感じた。気持ちが落ち着かない。
理解できない理由だし、そこから出された結論も納得出来ない。自分に取って分からない原因でこれまでの人生を捨ててしまう様に見える父親の姿に、その血が自分にも半分流れているのだとの考えが心に浮かんでしまい、レントは背中に寒気を覚えた。
父上は誰かに操られているのかも?一瞬そう頭に浮かんだけれど、自分が操る側ならスルトに領主を続けさせた方が利益を得られると思えて、レントはその考えを捨てる。
レントが混乱を表に表すのを感じて、スルトは満足した。そして、自分の宿に戻ったら祝杯を上げようと考えて、スルトは笑みを零す。
リリは二人の様子を表情をなくして見ていた。
スルトは自分の両親を偏屈な舅と姑と言ったが、レントの事には言及しなかった。その事が、レントが目の前にいるのに、スルトがレントの事を忘れている様にリリには感じられていた。
教育面では足りないながらも、自分がレントの親代わりを務めたとリリは思っている。愛情面ではレントの祖父母が、レントの親代わりとなっただろう。だがそうしてしまったからこそ、スルトとレントの親子としての関係が、歪に感じられるのかも知れない、とリリは考えた。
ただしレントに不足があるとは思えない。あるとすればスルトの方だとリリは思う。
もしかしたら父親は自然に父親になるのではなく、子供と共に過ごす事で、子供が父親を父親として育てるのかも知れない。そうだとすると、レントの周囲の自分達が、スルトが父親になるチャンスを奪ったのかも知れない。
その様な自省をしてみたけれど、それでも感情的にはスルトを赦せそうにはなく、リリはスルトに掴み掛かったり怒鳴り付けたりしそうな自分の感情を堪えた。その様な事をこの場で自分がしたら、この場が長引くのは間違いない。
少しでも早くレントをスルトから解放してあげたいと思い、リリは無表情の下でひたすら自分を抑えていた。




