留学の懸念
ミリが愛しのディリオの顔を見に行くと、ディリオの母チリン元王女がミリに詰め寄って来る。ディリオとチリンの傍にはパノもいたが、パノもミリがディリオに会いに来るのを待ち構えていたのだった。
「ミリちゃん」
「はい、チリン姉様」
ディリオに向いていた足を止めて、ミリはチリンを振り向く。
チリンは眉根を寄せていた。
「王太子殿下から連絡があったのだけれど、ミリちゃんが留学するって本当なの?」
「あ、いえ。まだ決まった訳ではありません」
チリンの眉根がさらに寄る。
「え?そうなの?」
「はい」
「どこまで決まっているの?」
「いいえまだ、何も決まってはいませんけれど?」
チリンは小首を傾げた。
「場所も?」
「はい。どこが良いかもまだ考えてはいませんし、どの様な候補地があるのかもまだ調べていません」
「時期も?」
「留学するのなら、時期の目処はありますけれど」
チリンの眉が上がる。
「留学するのなら?留学しないかも知れないの?」
「はい」
「でもバルさんが許したのでしょう?違うの?」
「父からは、留学しても良いとの許可は貰いました」
チリンは首を反対側に傾げた。
「でもバルさんが?行き先も決まっていないのに、ミリちゃんの留学を許可するなんておかしくない?」
「具体的になったら、バルも反対するのではないかしら?」
口を挟んだパノに向けて、ミリは首を左右に振る。
「いいえ、パノ姉様。留学を許して下さった時のお父様は、その様な様子には見えませんでした」
「え?そうなの?」
今度はパノの眉根が寄った。パノが知っているバルなら、ミリの留学を本気で許すとは思えない。
「はい。留学に付いては全く以て構わない様な、さほど気にしてはいない態度に見えました」
「そう、なの?」
「はい」
「ミリがそう言うのならそうなのでしょうけれど、ミリ?」
「はい、パノ姉様」
「あなたはバルが留学を許すと思っていたのよね?」
「そうよね?ミリちゃんはバルさんが許すと思ったから、王太子殿下と賭けをしたのでしょう?」
二人に訊かれ、ミリは一言「はい」とだけ返した。バルが許した事にミリが当然と思っている様な様子に、パノもチリンも困惑する。
「何故そう思ったの?」
「そうよね?普段のバルさんの溺愛振りからしたら、絶対にミリちゃんを留学させたりはしないと思えるもの」
「でもチリン姉様?父は結婚と働く事は駄目だと言っていますけれど、学ぶ事に対して駄目だと父に言われた事は一度もありません」
「それはそうでも、医師や助産師の下で勉強したりするのと留学してしまうのとでは、全然ちがうじゃない」
チリンの言葉にミリは小首を傾げた。
「そうなのですか?」
「そうなのって、ミリちゃん」
「留学に付いてはまだ調べ始めていませんので、実際に留学した時のイメージが私には沸いていません」
「いいえ、ミリちゃん。留学先での勉強の話ではなくて、ミリちゃんを留学に出すバルさんの話よ」
「父のですか?」
「バルさんがミリちゃんにずっと会えないのを我慢する姿が、私には想像出来ないのだけれど、パノ姉様はいかがですか?」
「ええ、チリンさん。私も全く想像出来ません」
「ですがチリン姉様?私がハクマーバ伯爵領に行った時もコーカデス領に行った時も、何日も帰らない事が父に許されました。パノ姉様?その時のお父様は我慢できていなかったのですか?」
「心配はしていたわよ?」
「それはお母様からも聞きました」
「あの時のバルは我慢出来ていたけれど、それだって、いざとなったらミリを迎えに行く積もりだった様だし」
「それなら留学する事になるかどうかは分かりませんけれど、今の内から色々なところに泊まりに行って、お父様には慣れておいて貰う必要がありますね」
「それはバルの為にもミリの為にも良いとは思うけれど」
「ミリちゃん?念の為に言っておくけれど、どこに行くとしてもディリオは連れて行けませんからね?」
ミリの眉が上がる。
「・・・そうでした。チリン姉様がどこかにお出掛けになる事も出来ないのでしたね」
「ディリオと一緒に?」
「はい」
「私は王都から出られませんからね」
「それでしたら、毎朝家に帰るのを止めれば、私がいない事に父が慣れるかも知れません」
「留学が決まっていないのに、バルが許すかしら?」
「その様な事を始めると、却ってバルさんは留学を許さなくなりそうですよね?」
「ええ、そうよね」
「ミリちゃんは留学したいのよね?」
「したいと言いますか、しなければならなくなるかも知れないとは思っています」
「それは何故?ミリちゃんはどんな想定をしているの?」
サニン王子に関わりたくないと言う理由は、サニン王子の叔母に当たるチリン相手にはミリには言えない。
「父は今のところ、投資する事は許してくれています」
「ええ。働く代わりよね?」
「はい。私は他国への投資もしてみたいと思いました」
ソロン王太子と留学に付いての賭けをした後からではあったけれど、今のミリは他国への投資も考える様になっている。それはレントが他国から投資を募るかも知れない話から思い付いていた。
「その為には色々な国を見て回りたいですし、気に入った国があれば住んでもみたいです」
「つまりミリちゃんは投資先を調べて、投資するかどうかとは別にその国に興味を持ったら、旅行なり留学なりしようと思っているって事ね?」
「はい」
「それなので、まだ留学するかどうかも決まっていないのね?」
「はい、チリン姉様」
ミリの返事にチリンは体の力を抜く。
「良かったわ。ミリちゃんがいなくなっちゃうかと心配していたから、今の話で安心できたわ」
「お騒がせして申し訳ありません」
「いいえ、私が勝手に騒いだだけだから」
チリンはミリに微笑んだ。
「私は少し席を外しますから、パノ姉様、ミリちゃん。ディリオを見ておいていただけますか?」
「もちろんお任せ下さい、チリン姉様」
「ええ、大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。それでは少しの間、よろしくお願いします」
二人に会釈して、チリンはトイレに立った。
それを見送ってから、パノがミリに話し掛ける。
「ミリ?」
「はい、パノ姉様」
「留学って、私の遊学の所為?所為と言うのも変かも知れないけれど」
「パノ姉様の話を聞いて、自分にもその選択肢がある事に気付きました。でもパノ姉様に後の事を頼まれた件に付いては、忘れていませんから」
「それは心配していないけれど」
「パノ姉様は遊学の事、もうチリン姉様に伝えたのですか?」
「いいえ。お父様の許可が下りてからにしようと思って。何も決まっていない状況で伝えても、今日みたいに心配しそうだし」
「そうですね。養伯父様が認めたとなった後なら、心配は減りますね」
「ええ」
「私のお父様とお母様にも、まだ伝えていないのですね?」
「ええ」
「分かりました。ソロン王太子殿下の留学計画に関する資料の閲覧を申請したのですけれど、その内容に付いてはパノ姉様と二人だけの時にだけ、口にする様に気を付けます」
「ありがとう」
「いいえ」
「でもミリ?」
「はい、パノ姉様」
「あなた、留学するとなっても、ディリオは置いて行くわよね?」
「そうなのですよね。お父様だけではなく、私もディリオと離れる練習の為に、コーハナル侯爵邸以外に泊まる様にしないと」
ミリもさすがに自分がディリオに時間を割きすぎているとは思っている。やるべき事は全て熟しているけれど、このままでは自発的に新しい事を始めたりは出来そうにない。
「コーハナルの領地にでも行ってみる?お父様が帰る時に一緒に行けば、バルも安心だろうし」
「そうですね。養伯父様に相談して見ようかな?」
「まあお父様もディリオディリオだから、いつ領地に帰るか分からないのだけれどね」
ミリは思わず笑みを零したが、失礼に当たるかと思ったし、そもそも自分も同類なので、パノの言葉に肯く事は控えた。




